SSブログ

万葉翡翠(その3) [旅]

翡翠峡への道は、現在は一応舗装はしてあるのだが、細く
曲がりくねっていて、運転は大変そうだった。でも運転のプロである
兄の奥さんは、楽しそうに鼻歌交じりに谷を下っていく。見た目は
とても華奢で、街角のブティックの店員さん、みたいな雰囲気なのに、
大型のトラックの運転手さんとは! ギャップ萌えしそうである。

そうして、ようやく翡翠峡に辿り着く。その清流の美しさに息を呑んだ。
翡翠の原石があるところまで、さらに下って行って、写真を撮る。

IMG_20230521_100653.jpg

誰もが自由に河原の石を持ち出せたという時代もあった。
当時はこの河原に辿り着くまでが難行苦行で、持ち帰れる石の大きさも
限られていただろう。車道が整備されている現在は、持ち出しを厳しく
禁止されているのは、当然なのだが。

写真に写っている大きな岩の幾つかは翡翠の原石なのだが、そうではない
石も混じっている。そして素人目には、どれが原石で、どれがそうではないのか、
よくわからない。先回触れた、四十年前に松本清張がこの翡翠峡を訪れた折に
ついての記事にも、清張が、河原の石を拾い上げては、
「これが翡翠ではないか」
と、付き添いの市職員に尋ね、
「いや、違います」
という会話を七、八回も繰り返したそうだ。そこで諦めたらしいのだけれど。

私は翡翠そのものより、その翡翠のそばを流れる清流の
美しさの方に目を奪われてしまった。子供の頃に住んでいた町のはずれにあった
荒川峡という峡谷には、よく連れて行ってもらったし(徒歩で一時間強かかった)
そこでお昼を食べたり、冷たい流れに足を浸して遊んだりしたことが
とても懐かしく蘇ってきたのである。(続きます)
nice!(0)  コメント(0) 

万葉翡翠(その2) [旅]

半世紀ぶりに糸魚川を訪れるきっかけを作ってくれたのは、私の兄。
私はこの兄のことにまったく触れずにきたが、理由は簡単、ほとんど一緒に暮して
こなかったからである。私にはよくわからない部分が多く、歌に詠んだこともない。

四年前に父、昨年には母、と相次いで亡くなり、長く疎遠にしてきた兄と
話合わなければならない場面が多くあり、そうして互いの間が急速に縮まり・・・。
父が祖父から相続していた糸魚川の地所を、さらに相続した兄が、定年後その地に
住むことになった。

「糸魚川を訪ねてみないか」と声を掛けてくれたのは半年ほど前だった。
清張の『万葉翡翠』の話をすると、「その本なら自分も読んだ」という。
「ちょうど四十年前、清張自身が姫川の支流の、翡翠の原石がある小瀧川峡谷に
来ているよ。そこへ一緒に行こう」と話が進んだのだった。

昨年十二月の新潟日報に三度にわたって「清張と糸魚川」という記事が掲載された
そうで、その掲載紙も送ってくれた。一面の大半を占める大きな扱いで、清張が
峡谷の清流に足を浸しながら、同行した当時の市の職員らと、何か話し合っている
様子を写した写真も掲載されている。清張は片足は裸足だが、左足だけ黒い靴下を
履いたまま。大作家の素顔が見て取れて、ちょっと可笑しい。

翡翠峡への道は、当時は全く整備されておらず、肝を冷やす場面も多かった、とか。
今はかなり状態が良いとはいうものの、悪天候なら中止しようと話合った。
私はかなり「雨女」っぽいが、この度の予定は兄の方からの提案によるから・・・。
案の定、私が糸魚川を訪れた日は、どんよりと曇っていて、今にも降りそうな
空だったが、翌日にはからり、と晴れて暑いくらいの陽気。

運転してくれたのは、兄の二番目の奥さんで、まだ五十代半ば。
ほっそりとした色白の美人だが、なんと大型車の免許を持つ、現役のトラック
運転手さんである。愛車のレクサスは、峡谷の道には大きすぎる、と言い
スズキのeveryで、出発することになった。私の人生に、こんな日が来るなんて、
とちょっと感無量。そんな感傷は置き去りに、美しい新緑の谷をこの小型車は
ひたすら、降りていくのだった。翡翠の原石の転がる清流めがけて。(続きます)
nice!(0)  コメント(0) 

万葉翡翠 [旅]

父の郷里は新潟県糸魚川市。子供の頃、我が家は新潟県村上市にほど近い、
山形県南西部の小国町で暮していた。年に一度か二度、一家で糸魚川の
祖父母の家に出かけることが恒例となっていたが、何しろ遠い。地図で
ご覧の通り、糸魚川は東西に長い新潟県の西端、一方の村上市はほぼ東端。
直線で二百キロ以上も離れているうえ、今もだが、当時はさらに国鉄の
連絡が悪く、朝五時過ぎの一番列車で小国町を出発しても、糸魚川に着くのは
夜八時半を過ぎていた。父以外は家族のだれも、この実家行を嫌っていた。

松本清張の『万葉翡翠』という短編を初めて読んだのは三十代くらいのとき。
数多い清張の推理小説のなかでは、並の作品、という印象で、特に心を
惹かれることはなかったのだが・・・。

四年余り前、父がもう危篤状態に入った頃、何となく手にした清張の
短編集の中に『万葉翡翠』が収められていて、再度読むことになり・・・。
短編の推理小説としては複雑になり過ぎていて、失敗作かな、という
印象は依然変わらなかったが、糸魚川の翡翠を題材にしているところに
心が留まった。糸魚川市内を流れる姫川。その美しい渓谷から
発見されると言う石のことは、子供の頃、何度も両親や祖父から
聞かされてきた。父に連れられて、姫川の河口で石拾いをしたことも
ある。もちろん、翡翠を期待したわけではなかったが。

母は父と婚約した時に、祖父から贈られた、という深い青緑色の
翡翠を加工した指輪を持っていて、とても大切にしていた。現在は私の妹が
母から引き継いでもっているのだが。他にも祖父の家の浴室の床には、
祖父が若い頃に姫川で拾ったという、翡翠の原石が埋め込まれていたことを
覚えているのだ(こちらは現在、行方知れずである)。

最後に糸魚川を訪れたのは学生時代の頃で、すでに半世紀近く過ぎている。
もう一度、糸魚川を訪れたい。清張が小説の舞台とした姫川の
小滝川沿いを歩いて見たい、と強く思うようになった。(続きます)
nice!(0)  コメント(0) 

置賜の味・最後に [食文化]

半世紀ぶりの米沢で、初めて口にした食品は、古民家を改造した料理店の、
囲炉裏を囲んで摂った昼食、その場で最初に供された焼餅だった。
まずお餅が登場する、ということにちょっと驚いた私、東京では日々の
生活で、お餅を食べる、といことはほとんどなかったので。

日本で稲作が始まったのは、縄文期の後半頃とされていて、糯米の方が
先に登場していたようだ。弥生時代に入って粳米が栽培されるようになると、
粳米の方が常用され、糯米の方は、ハレの食べ物とされるようになったらしい。
お正月にお餅を食べ、お祝時にはお赤飯を炊くのはその名残のようである。
米沢の料理店で、真っ先に焼餅が供されたのは、客人をもてなす、という
意味があったのではないか、ハレの食べ物によって歓迎の意を表されたのでは、
と私などは考えるが、どうだろう。

また米沢やその後訪れた川西町では、道の駅や土産物店などで、沢山の山菜や
木の実などが売られている様子も目にし、東京ではなかなかお目にかかれない、
新鮮な野山の収穫物に目を見張った。周囲の山にはまだ雪の残る四月の中旬、
でも人々は待ちかねた春を迎え、自然の恵みを求めて近くの野原や丘に
繰り出している、そんな印象を持った。そしてずっと以前、私たちの祖先、
まだ農耕がさほど計画的に行われていなかった時代の人々が、
どんな食生活を営んでいたか、その一端が見えたような気がしたのである。

  春野辺に木の芽さわらび摘みおれば 縄文びとの血のたぎりくる
                我楽と我羅選「Anjamon ごきげんなうた」

「Anjamon」は、私を米沢へ誘ってくれたYさんが発刊された個人誌である。
「あんじゃも」は米沢の方言で、「なかなかやるなー」と感心したりするときに
発せられる感嘆の言葉らしい。ユーモアたっぷりで、楽しくなる。
この冊子を読んでいたら、短歌とか俳句とか、とにかく楽しめればいい、
という心意気満載で。半世紀ぶりの米沢がよけいに楽しめた。

食文化についても、続いていろいろと楽しみながら触れていきたいと
思っているけれど。とりあえず、「置賜の味」はここでいったん終了です。
お読み頂いた皆様、有難うございました。
nice!(0)  コメント(0) 

置賜の味・鯉 [食文化]

鯉が日本で積極的に食用されるようになったのは、室町時代、
あたりかららしい。江戸時代には祝儀の宴席にも登場するようになる。
長野県の佐久の鯉料理が有名だが、米沢でも名君・上杉鷹山の
積極的な振興によって、名物料理として定着するようになったらしい。

相棒が以前から「米沢の鯉、食べてみたい」というので、私を米沢へ
誘ってくれたYさんに「どこかで買えるかしら」と訊いてみると
「駅の売店で売ってるよ」との即答に驚いた。
米沢を発つ日、駅の二階にある土産物店で、早速購入しました。

IMG_20230427_104839.jpg

お醤油と砂糖で煮付けた大きめの切り身二切れが入っていて、1600円あまり。
やや高級。それはともかくずしりと重いのに少々、躊躇したのですが。
小島ゆかりさんの第十四歌集の歌集名が『六六魚』であるが、この六六魚とは、
鯉の異称らしい。鱗が三十六枚あることが名の由来らしいのだけれど。

 赤子まだ知らずこの世の底知れぬ泥のけむりに棲む六六魚
               小島ゆかり『六六魚』

鯉、と呼ぶより六六魚、と呼ぶ方が、何やら重厚な感じがしますね。

先日、夕食の主菜として食卓に登場させました。身はしっかり煮付けられていて
歯ごたえが良いくらい。おかずとしては少々甘く感じたけれど、このくらい
濃い味付けの方が、魚の臭みが消えるのかもしれない、とも思った。
うっすらとだけれど、川魚特有の匂いがして、まあ、さほど気にならない程度
なんだけれども。鯉を食べるのは何年ぶりだろう。以前は近くのスーパーなどでも
鯉のあらいが売られていて、購入することもあったのに。最近は全く見ない。

食材の種類はかなり減っている、という印象がある。
「売れ筋絞り込み」と相棒は言う。その方が効率的、だからだろう。
ちなみに米沢の町なかでは羊肉の自販機も置いてあって、種類も多いのに驚く。
私の住む町では、スーパーやデパ地下でも羊肉を見かけることは少ないのに。
人口で言えば、私の住む町の方が数倍多いはずなのに、この食材の貧相さ、
何なんだろう、と考えてしまう。
nice!(0)  コメント(0) 

置賜の味・くるみ [食文化]

子供の頃、特に年末近くになると、母の実家・天童から、様々の乾物が
送られてきていたが、中には必ずゼンマイが入っていた。ゼンマイは
生食できないとのことで、茹でた後、からからになるまで干し、保存食品
として重用される、ということらしかった(子供の頃は良く知らなかったが)。

母はこのゼンマイを茹でて戻し、毎年お節料理として「しらあえ」を作ってくれた。
ゼンマイの他に、人参、糸こんにゃくなども具として加える。豆腐の水気を抜き
すり鉢でよく擦って、砂糖や醤油などで調味し、これにゼンマイなどの具を
混ぜ合わせて作る。その時、豆腐と共にすり鉢で擦られるのが、クルミなのだった。
私は白和え、という料理はあまり好きでなかったが、この胡桃の食感は
好ましく思ったことを覚えている。

二十年余り前、私は生まれ育った山形県南西部にある小国町へ、四半世紀ぶりに
出掛け、幼友達のユミちゃんの家に泊めてもらったことがある。ちょうど
お盆の時で、ユミちゃんと彼女の妹のユキちゃんが、お盆の料理として
水ようかん状の食べ物を食卓に加えてくれた。食べてみると、何か、
とても懐かしい味だった。そう告げると、「母が良く作っていたから」
という返事。私は彼女の家で、この「胡桃寒天」を食べていたんだった!

母も作ってくれた記憶があるが、母の胡桃寒天は白糖が使われていて、
ユミちゃんの家のそれとは味が異なった。母は、大の黒糖嫌いだったからだ。
でもこの寒天は、黒糖で仕立てた方がずっとコクがでて、美味しいのである。

彼女のお母さんはその時、すでに亡くなっていたのだが、小国町出身で、
まさに置賜の味を作り続けておられ、その後はユミちゃんたち姉妹が
その味を継いでいたのだった。

他にも、置賜や最上の料理にはクルミが多用される。お菓子にもおかずにも。
調理のキーポイントになる食材なのだった。味と食感との両面で。
nice!(0)  コメント(0) 

折々の歌・「塔五月号」から [短歌]

「塔」五月号が届いた。相変わらずの大冊でとりあえずのぱらぱら読み。
その中から目に留まった作品について、触れてみる。

 寒いねと答えてくれるロボットを買おうと思うお金を貯めて
                       相原かろ
俵万智さんの「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」
という作品を踏まえてのもの。生きていることの寂しさに、しん、となる。
結句は少し、当たり前すぎてつまらないかも。もう少し飛べたかな、と思う。

 飛ぶことは自由と思へど群れ成して空を回ってばかりゐる鳥
                       千名民時
自由過ぎると時間を浪費するだけ、ということにも陥り易い。他者への批判、
或いは自省か、と面白く読む。以前ベトナムを訪れた時、走行するバイクの多さ、
排気ガスに辟易した。彼らも何処へも辿り着かず単に回っていただけ、だったかも。

 アスファルトに白いマスクは落ちていて四肢がほどけたようなしどけなさ
                 山川仁帆
このところよく見る光景で、私も何首か作ってみているが、これという作品は未だ。
「四肢がほどけた」という比喩に納得する。落ちているマスクの大半は、すでに
「白く」はないのだが、これにより下句が生きる。捨てマスクの、この艶めかしさ。
nice!(0)  コメント(0) 

置賜の味・ミズ [食文化]

ミズという山菜は、子供の頃によく食べていた。母が山菜摘みが好きで、
ちょうど今頃の季節になると、友人たちと近くの山野へ出かけて、この
ミズも摘んできては、食卓に並べていた記憶がある。

私には、母の山菜摘みに同行した記憶はない。妹にはあるかも知れないのだが、
何しろ、私は我が家ではこの点で、かなりの異端なのだった。両親も妹も
家庭菜園などを楽しみ、山菜摘みなどもその延長で良く出かけていたが、
私は土いじりは苦手、そして山もそれ以上に苦手なのだった。

母がミズを摘んできて、ざっと湯がき、おひたしなどに調理しながら
「山で、蛇に会ったの。細くて、長めの蛇だったわ」
などと平然と話す様子に、「信じられない!」と思ったものだ。私は
この手の動物がとても苦手で、全身に鳥肌が立ち、固まって動けなくなる。
蜥蜴、蛙、ヤモリ、などなど今は大分耐性ができてきているものもあるが、
蛇はまだまだ、駄目である。

ミズについて調べて見ると、別名「ウワバミソウ」ともいい、蛇とは
深い関連があるらしいことがわかる。牧野植物図鑑によると、
「ヘビ過食の際、この草を食えば、たちまち消化するゆえ」とあり、
蛇にとっての「胃腸薬」みたいな草らしいのである(他にも説がある)。

ウワバミソウ(つまり蛇草)、と子供の頃の私が知っていたら、ミズを食べるとき、
躊躇しただろうと思うが・・・。ミズは爽やかな味のする山菜で、嫌いではなかった。
食用する茎の部分は透明感のある薄緑色をしていて、根元の方に少し赤みが
さしている。粘着性があり、山形県では、根の方の部分を叩いて、とろろ風に
仕立てる、と紹介している本もあるが、私はこの調理法は知らなかった。

ミズ、という名は、崖の水が滴るような場所、渓流沿いなどに生えるから、
らしいが、もう少し愛らしい名前にできなかったのかな、と思う。
語感だけなら、ウワバミソウの方が、まだましな気さえする。

米沢では、山菜ときのこの水煮を購入して帰った。ふき、うど、わらび、ぜんまい
なめこ、ぶなしめじ等の他、ミズも入っていて、懐かしかった。

IMG_20230427_104922.jpg

写真の左上方の透明感のある黄緑の茎がミズ、です。

nice!(0)  コメント(0) 

生田緑地 [旅]

一週間程前、学生時代からの友人Pからメールがあり、8日の週のいつか、
会えないかとのこと。天気次第だが11日あたりはどう? と返信する。

11日、朝から綺麗に晴れた空が広がり、とりあえずほっとする。私は
どちらかというと「雨女」なのだ。塔短歌会の横浜歌会二十周年の
記念吟行会を開いたときも、その日だけが大雨だったし。先月の米沢行も、
雨交じりの寒い日。私が主体的に選ぶと、晴天という日は少ないのだ。

でも今回はPが週を選んでくれ、その中の一日を私が選んだことになり、
それでお天気に恵まれたのかも。予報には午後三時以降に、小さな傘マーク、
四時以降は大きな傘。でも待ち合わせは十時、それに彼女は、いつも早めに来る人。
食事して帰る頃までは大丈夫だろう、と傘は持たずに 私も早めに出かける。

彼女が今回訪れる場所として選んでくれたのは、向ケ丘遊園近くの生田緑地。
地図を確認して、我家からは電車で一時間ほどで着くはずと判断。
生田緑地は川崎市多摩区に属する。Pによるとここには市が管理する
薔薇園があり、毎年薔薇祭が開催されるので、そこを訪れようとのこと。

駅で会ってから気づいたのだが、私の思っていた生田緑地とは少々
違う場所にあった。この緑地は飛び地で複数あるらしい。思っていた
より遠い。そして薔薇園はかなり急な階段を上った小高い山の上に開かれた
土地に造成されているのだった。その階段、所々が見上げるほどに急である。
このところ散歩して足を鍛えてはいるけれど・・・。少々、足がもつれ気味。

IMG_20230511_103603.jpg

開場してまもなくに入ったので、当初はまばらだった観覧者が見る間に
増えていく。薔薇は今年の陽気の早さで、すでに散り始めているものも。
でも、様々は色彩の薔薇が、それぞれのかたちで命を繋いでいる様子に感動する。

IMG_20230511_101741.jpg

全体的に見て、赤い花は早く咲き、白や黄色の花は少し遅い、という印象。

薔薇園を一時間余り巡った後、生田緑地を離れ、ランチを摂るため
駅方向へ戻る。実はこの日は、私が昼食の場所をおおまかに選んであった。
スマホで場所を特定するのが苦手で(どうしても歩きスマホになっちまうし)
プリントアウトしておいた地図を片手に、駅の向こう側へ出る。

すると、何やら緑地側とはガラリ、と光景が変わり、全体的に「造成中」の
印象に焦る。道は大きく開け、ところどころ、
今敷き詰めたばかり、といったアスファルトの道路が広がり、
駅前の建物も、新装直後、といった雰囲気。目指す道がよくわからない。
お目当のイタリアンレストランにたどりつけず、他に目ぼしい店もなく、
結局、中華料理店で昼食を摂ることに。ごく普通の、味より量みたいなお店で(汗)。

おおらかな性格のPは、「良かったじゃん、味もまあまあ。」と言ってくれたけど。
一時十分前、それぞれ別方向の小田急に乗って帰宅。私は二時少し前に家に着き、
雨には合わなかったのだが。私より少し早く帰宅できたはずのPは、びしょぬれに
なってしまったのだとか。二時にスマホを見ると、多摩区に豪雨注意報が・・・。
nice!(0)  コメント(0) 

置賜の味・行者にんにく [食文化]

今回の米沢への旅で、初めて目にした野菜の一つが行者にんにく。
名前を知ったのはずっと前に読んだ中国の古典『紅楼夢』による。
栄華を誇る大家族の、一大没落物語なのだが、ここに登場する若い
やり手の嫁・王熙鳳が「まるで水辺の行者にんにくのよう」と語る場面がある。
これは「行者ニンニクのようにすらりと美しい」という意味らしい。
はてさて、行者ニンニクとはどんな植物なんだろうと、疑問に思ったことだ。

あれから二十年近く。私はようやく実物に出会えたわけである。
葉っぱは水芭蕉にも似ていて、なるほど茎はすらりと伸びている。鱗茎や葉、
蕾などが食用され、味は山菜だけに大蒜よりも強く、慣れると病みつきになるとか。

今回は残念ながら、行者ニンニクを味わう機会はなかったのだが。
今朝の山形新聞電子版を読んでいたら、「行者菜」という見出しが目に留まった。
長井市特産の野菜で、行者ニンニクと韮を交配させた品種で、生活習慣病に
効果があるという硫化アリルやビタミンを多く含むのだとか・・・。
収穫期も五~九月と長く、年に三、四回収穫できるというから力強い。

行者ニンニクの名前の由来は、修験道の行者が精力をつけるために
食べていた、というところから、らしい。山の力、を象徴するような
植物だったんだろうなあ、とあらためて思う。
行者ニンニク、そして行者菜、いつか味見できる日を期待したい。
nice!(0)  コメント(0)