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死を告げる女 [映画]

「死を告げる女」は2022年韓国制作の映画で、チョン・ウヒ主演。
花形キャスターのチョン・セラには、競争相手がいて気が抜けない。
また、母親は絶えず彼女のキャスターとしての姿勢に口を挟んでくる。
同じキャスターである夫との仲も冷えていて、母は強く離婚を進める。
こうしたプレッシャーからか、彼女はいつも誰かに首を絞められ、
殺されかける夢に、悩まされているのだった。

そんなある日、彼女のもとに一本の電話がかかってくる。
「自分は『ある人』に脅かされている。子供も殺される。
自分も近いうちに死ぬ。憧れのキャスターであるあなたに、
自分の死を確認してほしい」と、切羽詰まった声で告げるのだ。

スクープの欲しい彼女は、告げられた住所へ1人おもむき、
その家の浴槽に死んだ少女と、女性の首つり死体を発見してしまう。

サスペンスらしい、コワイ展開である。途中までは何度も、
見るのやめようか、と思ったくらい。

ところが、三分の一程見たところで、どうもこれは・・・、
と思い始めた。恐怖をあおる映画であるに違いないが、いわゆる
スプラッターもののような、恐怖一辺倒の映画ではなさそうなのだ。
人の普遍的な心理に着目して組み立てられていて、精神科医も登場、
主人公を混乱に貶めているのは、実の母親らしいと仄めかされる。

やがて、母親はかつての花形キャスターで、思いがけず、セラを
身籠ってしまい、キャリアを続けていくことと子育てとの両立に
苦しみ、セラの首に手を掛けたこともあったことが分かってくる。
セラが窒息させられそうな悪夢を見るのは、その経験からだった。
母親は思い直し、名前まで変えて、娘の成長にすべてをかけることに。
セラの仕事に細かく口出しするのは、諦めた夢を託そうとする結果だった。
当然ながら、母と娘の関係は、破綻の道を辿っていく。

ところどころ、オカルトっぽい描写もあるのだけれど、母との
関係に苦しんだ記憶がある私には、現実感に満ちていて、そういう
意味でもとても怖い映画だった。サスペンスの形をとっているので、
ネタバレしないよう、この後の展開は伏せておくけれども。

親子の関係はとても難しい時代になってきている、と心底思う。
昨日は、小さな女の子が、両親から虐待を受け、薬殺される事件や、
まだ十五歳の息子が両親を殺害した事件も報じられていた。
子どもを産む人はさらに減るのでは、と危惧する。この映画が
作られた韓国の出生率は、一をはるかに切ってしまっている。


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西部劇だが [映画]

BSプレミアムは、週末を除き、毎日午後一時から映画を
放映しているが、金曜日は西部劇であることが多い。他の曜日の
映画はほとんど見ているのに、金曜日の映画だけは見ていない、という
ことが多い私。西部劇というと、何か一つの型に嵌められている、そんな
印象が強くて、これまであまり積極的に見てこなかったからである。

「他に見たい映画ないし」と、消極的選択で録画したのが「西部無法伝」
題からして、何とも、型通りで鑑賞意欲がいよいよ減退しそうなのだが。

冒頭の原題を見て、「なんだ?」と大きな疑問が湧く。「Skin Game」とは。
見始めてから、「あれま?」と驚き、次第に引き込まれていった。
黒人のジェイソンは、白人のクインシーに奴隷として所有されている。
南北戦争直前、クインシーは南部や中西部の町を回り、競り市にジェイソンを
売りに出す。勤勉で健康な奴隷で、自分も売りたくはないが、と大げさな
芝居をした後、高値を付けた客に売り払い、その後、ジェイソンは買主から
こっそりと逃げ出す。二人はその後も合流し、同じ詐欺を繰り返すのだ。

制作年を見ると、1971年で、なるほど、西部劇が劇的に変わり始めた頃の
作品である。いや、この映画は確かに西部を舞台にはしているが、かつての
「西部劇」とは全く異なるもの、と言えるのではないだろうか。

二人の掛け合いが面白い。肌の色は異なるが、二人の間に上下関係はない。
ただ、人目があるところでは、絶えず「奴隷と主」という演技を続ける。

そんな詐欺の二人に、さらに上をいく女詐欺が加わる。西部にも奴隷制に
反対する人たちが増え始め、二人の詐欺活動はそろそろ、無理な段階に
入ってきている。特にジェイソンは自分がモノのように売買される立場に
不満を募らせるようになってきて・・・。

筋はコミカルに小気味よく進み、それでいながら、心理的は、ずっと
シリアスな流れを保って、映画は展開する。そのバランスの良さが
この映画のもっとも賞賛すべきところだろう。

昨夜、久しぶりに「風と共に去りぬ」のDVDを、少しだけ観た。
黒人はこんな風に描かれていたんだな、とちょっと衝撃的だった。
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ナチスの映画二本 [映画]

最近、WOWOWで放映されていた作品。
偶然、続けて二本、ナチスにまつわる映画を鑑賞することに。
一本は「マリアンヌ」と題されたスパイもの。

イギリスの諜報員マックスは、カサブランカ駐在のドイツ大使暗殺を命じられる。
カサブランカでは、フランスの工作員マリアンヌと夫婦を装って、暗殺計画を
決行する、という指示が出ていた。カサブランカで初対面した二人は、
無事暗殺をやり終え、やがて恋に落ちる・・・。だが、実は・・・。
マリアンヌは、ドイツ側から潜入しているスパイだったのである。
と、まあ、ありそうな展開ではあったけれど。そつなくよくできた
映画でした。マックス役のブラピも、よかったし。

もう一本の方は、物凄くユニークな映画で、もう、すっかり心奪われ、
見入ってしまった。なんとこれは、事実から触発されて生まれた映画だと
言うことにも驚嘆させられた。
題は「ペルシアン・レッスン」つまり、ペルシア語の学習。
主人公はユダヤ人の青年で、ナチスに連行され、危うく銃殺されそうに
なるが、偶然持っていたペルシャ語の本をかざし、「自分はぺルシャ人だ」
と申し出て、何とか助かる。とはいえ、ナチス側は、虚偽の申し立てをして
ながらえようとしている、と疑っていて・・・。

連行された収容所には、ペルシャ語習得を志す将校がいたため、
彼はにわかに教師として抜擢されることになる。ペルシア語のイロハも知らない
彼は、でたらめな言葉を次々に繰り出して、生き延びようとするのだ。

こんなことが続くはずがない。焦った彼が編み出した「でたらめペルシャ語」
の組み立て方、がものすごく面白い。彼は、収容所のユダヤ人の名前の一部を、
ひとつずつ、単語として当てはめていく、と言う方法を編み出すのである。
最後が感動的である。多くの人に見てほしい映画でした。

それにしても、私は何本、ナチス関連の映画を観たことだろう。
これだけ観て、あまり当たりはずれがないことにも驚く。
これからも、ナチスの映画は作られ続けるのではないだろうか。
二十世紀で最も酸鼻な出来事の一つだろうに・・・。
人間の底知れぬ残酷さが、また、さまざまな想像を呼び込む、ということか。
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北の国の映画二つ [映画]

偶然にだが、続けて二本、北欧制作の映画を観た。
「ボーダー 二つの世界」(スエーデン、デンマーク 2018)と
「LAMB ラム」(アイスランド、スエーデンなど 2021)

「ボーダー」の方は、鋭敏な嗅覚を持つ国境税関職員の女性が主役の
サスペンスであると、予め情報を得ていたので、私は子供の頃に読んだ
『鼻ききマーチン』という物語を思い出して、ちょっと期待したのだった。
ちなみにこの物語は、学研の翻訳児童書シリーズで読んだ記憶があったのだが、
ネットで探しても、出てこなかった。嗅覚の良い少年が身の廻りに起きる
「不思議」を解決する、とかいう内容だった、と覚えているのだが。

主人公ティーナは、実際のモノに対しての嗅覚が発達しているという以上に、
人間の感情や嗜好をも読み取るという、何か超自然的な能力の類を持つらしい、
というあたりから、映画は妖しい展開を見せることになる。
介護施設に暮す父は、彼女の育ての親に過ぎず、何やら大きな出生の
秘密がある。そしてそれは、身体的な異形にもつながっているらしく・・・。
ちょっとグロテスクな展開に、驚く。
優れた嗅覚が、何か大きな犯罪を暴き出し・・・。というストーリーを
期待していた私は、すっかり度肝を抜かれてしまい・・。
なんとも言葉にできない、凄い、って言えば凄い映画でした。
正直なところを言うと、好みではない。

もう一方の「ラム」の方だが。これはアイスランドの人里離れた
山沿いで、羊を飼って暮らす夫婦の物語で、映像がとても美しい。
絶えずひんやりとした霧が流れているような、草地。遠くに見える、
雪に覆われた山。くりくりとした目の、何とも愛らしい羊たち。

小さな娘アダを失い、心に傷を負いながら、羊の世話に明け暮れる
夫婦は、ある日、生まれた羊の子が異形だったことに驚き・・・。
やがてその子をアダと呼んで、こよなく愛することになるのだが・・。

ネタバレしてしまうので、詳しくは書かないが、こちらもなんとも
グロテスクな結末が用意されているのだった。映画の分野としては
サスペンス、としてあるけれど、こういう展開なら、サスペンスとは
言えないのではないか。オカルトっぽくて・・・。

北欧の人たちって、こういう映画が好きなのかな、それとも、日本人が
好みそうだから、こういう映画を選んで輸入しているってことなのかな。
真夏の夜に、ちょっと冷気を感じるには良かったか・・・・。
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不思議な偶然 [映画]

もう十六、七年程も前のことになる。短歌の会「塔」の横浜支部歌会に、
初めて参加された男性がいた。二十代後半、とおぼしきNさん。
詠草も二首提出されていて、今後も短歌を続けていかれるのか、と思ったのだが。

歌会を終えると、近くのファミレスで二次会をする、というのが当時の流れだった。
Nさんも参加され、その時に、自分は今、大林宜彦監督のもとに映画の作成現場で
働いている。と自己紹介を始めた。その映画はかつて大ヒットした「22才の別れ」
というポピュラーソングを下敷きにしたものであるという。

主人公が高校生の時、恋する相手が文芸部に所属して短歌を作っている、という
設定で、歌を短冊に毛筆で書いて登場させる場面があるので、短歌について
知りたくて、この歌会に出席した、ということだった。ちなみに彼の家は
我家から歩いて行けそうなくらいに近い地域にあった・・・。

短歌を詠む人が、毛筆で短冊に作品を書く、というのは、一般的なイメージ
なんだろうか、とみんなで驚いたのだけれども。Nさんは、この歌会の会員の
人に、何首か恋の歌を詠み、それを毛筆で書いてほしい、また、映画で重要な
役割を果たしている一首も、一緒に書いてほしい、と言い出す。その歌は

  路の辺の壱師の花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻は
                  万葉集巻十一

なんだそうだ。皆いささか呆れて、「毛筆なんて、無理」と言い出す。
我が家が彼の家に近いことや、私の母が書道をたしなんでいることもあり、
いたしかたなく、私が引き受けることになった(勿論、ボランティア)。

映画のあらすじは、その時に教えてもらったが、若い頃に好きだった女性と
結婚できなかった男が、二十数年後、その女性の娘と偶然出会い、恋に落ちる、
とかいう話で、なんだか男に都合のいい展開だな、と呆れたのだった。
とにかく母に頼み込んで、この万葉集の歌の他に、牧水の恋の歌など、
合わせて八枚くらいの短冊を仕上げてもらって、Nさん宛に送った。

その後は、特に何の連絡もなく(ちょっと、失礼だと思う)。
大林監督のこの映画は「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」という題で
2007年に完成されたと、ネットで知った(全国の映画館上映、はなかったようだ)。
私はその後、レンタルビデオでこの映画を観た。確かに毛筆書きの短歌の短冊が
登場する場面があったが、それは母の手によるものではなかった。たぶん、字の
イメージが違うと判断されて、誰かほかの人に依頼されたのだろう。
エンドロールに目を凝らして、映画のスタッフにNさんが登場するのを
確認しようとしたのだが、出てこなかった。たぶん、途中で降りたのだろう。

それから数年後、私は近くを散歩していた時、Nさんと一度だけすれ違った
ことがある。ああ、今何しているんだろ、と思った。ところが・・・。

先日、阿部寛主演の「とんび」を観て、エンドロールが流れているのを
何となく見ていたら、なんとNさんの名前が(なんの役割をしていたか、
視忘れてしまったが)。ああ、まだ映画作りに携わっているんだな、と
ちょっと嬉しくなった。無礼なやつだったが、頑張れ。



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ザリガニの鳴くところ [映画]

評判になった映画。何しろ世界で1500万部も売れたという、同名の
小説の映画化である。題名も、どこか見知らぬ地へと誘われる感覚があり
素敵である。そして私が一番興味を抱かされたのは、かつて住んだことのある
アメリカ南東部のノースカロライナ州が舞台になっているところ。

今月、初めてWOWOWに登場したので、早速録画して観ることに。
冒頭、湿地帯近くに遊びに来た少年二人が、側の櫓から転落死したらしい
若い男の死体を発見する。うまい作りである。観客は大きな謎を与えられ、
この状況がどのような理由によるのか、考えながら映画に集中していく。

深い湿地帯は、高い木が生い茂り、その木からspanish mossと呼ばれる、
巨大な海藻状の植物が垂れ下がり、なんとも陰鬱な雰囲気を醸し出している。
NCに住んでいた頃に、州内の沼沢地に足を伸ばした事はないが、ルイジアナの
沼沢地を訪れたことはあり、その地の景色とよく似ていて、懐かしかった。

沼地で漁をしながら生計を立てている父、絵を描く母。仲の良い
姉や兄に囲まれて育つ末娘のカイア、幸せな幼児期を過ごしているかに見えた
のだが、暴力を振るう夫に耐えかねて母は家を出てしまう。
姉、兄も湿地帯を去り、父までが母の手紙に激怒して去ってしまう。
学校へも行かず、近くで雑貨屋を営む黒人の夫婦に助けられながら、
カイアは一人暮らしを続ける・・・。

この映画の主役は、何といっても、湿地帯、という特異な場所である。
人里離れた、いわば文明とは一線を画している場所。
そこに子供の頃から一人で住む女、となれば、地域から奇異な目で
観られているに決まっている。学校に馴染めなかった頃のカイアは、
汚れた格好をして、行動も不審、とみられ、いじめの対象だった。

成長した彼女もまた、弊衣蓬髪といった状態であるのが自然だろう。
それだからこそ、地域住民から疎まれ、有力者の息子だったチェイスを
殺したとしても、あるいは殺人まではしていないとしても、こんなはみ出し者
は、有罪になっても構わない、というような雰囲気が生まれそうな気はする。

だが、しかし・・。彼女は、清潔感溢れ、身なりも整っていて、とても
魅力的な女性に育っている。これには、どうしても違和感をぬぐえなかった。
だが、魅力的だからこそ、親切な少年テートに助けられて、文字を学び、
多くの書を読み、また母親譲りの画力を生かして、沼地の生物についての
見事な画譜を仕上げ、出版にこぎつける。世間一般の価値観からすると
マイナスだった成長環境を、最大限に生かして、人生を切り開いていくことに
なる。

そんな時、カイアをさんざん弄んだチェイスが死体で見つかる。
事故か事件か、わからないうちに、カイアに嫌疑がかかってしまう。

はてさて、チェイスの死亡時、編集者と打ち合わせするために遠出していた彼女に、
手を下す時間はあったのか。

最後に、暗示的な場面が流れるのだが、納得はできない。
まあ、サスペンスは大方、不自然な終わり方をするものだが。

色々と、齟齬を感じる作品だったが、娯楽ものとしては、良くできている、
と思われた。特に私は、NCの懐かしい地名を耳にすることができて、
しばらく、かの地での思い出に浸ることができた。
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ザ・ファイター [映画]

WOWOWで放映されていたものを録画して観た。
監督はデヴィッド・ラッセル。2010年アメリカ制作の映画。
実在した兄弟のボクシング人生を描く、とあって、興味を抱いた。
ボクシングというスポーツは、私はほとんど興味がなく、テレビで
観戦することも皆無なのだが、映画「ロッキー」で映画の中の
ボクシングに開眼してしまい、それからは時々ボクシングを
テーマにした映画を観たり、ドキュメンタリー(例えば『一瞬の夏』など)
も読むようになったのだから、ちょっと不思議だ。

ボクシング作品に興味を持つようになった契機は、「ロッキー」だけでは
なく、ちょうどロッキーをシリーズで見始めた頃、相棒が仕事上、
関わることになった若者に、その分野でかなり名を挙げてきた人がいて。
相棒が言うには、「普段は驚くほど、弱弱しいんだ。ど素人の
自分でも、殴り勝てるんじゃないか、って思えるくらいなんだ。
でも、一旦リングに立つと、別人になるみたいだ。その落差が
見ていて、怖いくらいなんだよ。狂気に近いものを感じる・・・」

そういうことってあるかも知れないな、と思う。
全くの他人を殴りつけ、叩きのめして勝利を勝ち取る、という
スポーツがこの世に存在することを、凄まじいものと感じ、何か、
全く人格が変わらないと、できないことではないか、と思えるからだ。

さて、映画「ザ・ファイター」の方だが、ボクシングというスポーツの
二つの側面、いや、どんなスポーツにも共通する、だが、ボクシングに
とりわけ顕著と思える二つの要素を、共にボクシングに命を捧げながら、
全く性格の相反する兄弟を通して描き出していて、面白い映画だった。

兄のデッキ―は、かつて最強と言われるボクサーを倒したことがあり、
彼らの住む小さな町の英雄と崇められるのだが、そののちの試合で
結果を出せなくなり、麻薬に手を出すようになる。彼はもともとが
怠惰で、傲慢で、ボクサーに必要な日々の鍛錬ができない性格だった。
でも、天才的なひらめきは持っている。彼は弟ミッキーに自分の
夢を託そうとする。

ミッキーの方は、我慢強く、冷静で、自分をコントロールできるタイプの
ボクサーなのだが、兄の持つ、ほとんど直感的な天分は備えていない。
彼は兄に自分のないものを見出し、頼ろうとはするのだが、
放漫な生活を続ける兄に振り回され、次第に自分を見失っていくのである。

彼にはほかにも、自分にまとわりつき、色々と口出ししてくる母親と、
沢山の異父姉に取り囲まれていることにも苛立ちを隠せなくなるのだ。

ある才能を育て、健やかに開花させることの難しさを思いながら観た。
実話とはいえ、リングでの勝負のプロセスに、少々現実離れしたものを
感じたのは、私自身が、現実のボクシングを知らないせいかも知れない。



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天才ヴァイオリニストと消えた旋律 [映画]

WOWOWで放映されていたものを録画して観た。
監督は「レッドヴァイオリン」なども手掛けたフランソワ・ジラール。
音楽にまつわる映画となると、途端に食指が伸びる私。楽しみに
見始めたのでしたが・・・。

時系列が何度も飛ぶので、当初はかなり混乱した。
天才と期待されたワルシャワ生れのユダヤ人、21歳のドヴィドル。ロンドンでの
デビューコンサートをすっぽかし失踪してしまう1951年の場面から始まる。

舞台は何の前触れもなく切り替わり、ヴァイオリンの修行のためポーランドを離れ、
ロンドンにやってきたたドヴィドルと兄弟のように育つ、寄宿先の息子、
マーチンの35年後へと飛ぶのである。彼は音楽の審査員の仕事をしていて。
ある少年の演奏を契機に、マーチンはドヴィドルを捜す旅に出る。
その旅と、マーチンが初めてドヴイドルと出会う1938年当時のエピソードや、
1950年代初頭のエピソードなども挟み込まれ、筋を追うのがかなりきつかった。

とはいえ、ヴアイオリンの演奏がところどころで披露され、
その旋律が素晴らしくて、私はこれを聴けただけでも満足した。
演奏を担当したのは、レイ・チェン。

失踪の秘密は、マーチンの「ドヴイドル探し」の旅の中で、
次第に明かされていく。ドヴィドルは、ナチスの手にかかって
行方知れずになったままだった家族を捜し続けていたが、
コンサート直前に、彼らの死を知ってしまったこと。
自分の音楽修業を全面的にサポートしてくれた両親と、まだ幼い姉妹。
彼は絶望のどん底におとされていたのだった。


マーチンに捜し当てられ、身勝手な失踪を厳しく非難されたドヴィドルは

命じられるまま、35年前に予定されていた通りのコンサートで演奏することを
渋々ながら受諾する。さて、弾けるのかどうか。マーチンは懐疑的にならざるを
得ないのだが。

ドヴィドルの演奏の腕は衰えていなかった。彼はたったの二週間の復習で
コンサートに間に合わせ、35年前のプログラムと同じ
ブルッフのヴァイオリン協奏曲一番を見事に演奏して喝采を浴びる。
同じく35年前に二曲目に予定されていたのは、バッハだったが。
彼はここで、全く異なる曲を披露するのである。

それは、ユダヤ教会で、自分の家族が殺害されていたと知る、
その場面で聞いた旋律である。ユダヤの人々は、ナチスに殺害された
人々の名前を旋律にして伝承していたからだった。この旋律がまた、
物悲しくて、すばらしく弦楽器に合う響きだった。

この映画の原題は「The song of names」である。
邦題はいったい・・・。

最後のドヴィドルの台詞が印象的である。

 「個」を捨てた私は、アーティストではない。
 コミュニテイの一員として、信仰、歴史、価値観、記憶を
 共有する生き方を選んだんだから。

ナチスにまつわる映画は、これからも作り続けられるのだろう。
戦後七十七年半を経て。もう、映画のネタの宝庫のようにも思えてしまう。
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必殺仕掛人 [映画]

日本映画のある分野、私はほとんど見ていなかったなあ、と
あらためて思う分野がある。それも商業的に成功したといわれるいくつか。
やくざものや、時代劇の分野の作品で、七十年代半ば頃から八十年代
くらいに作られ、一世を風靡した作品が多いかもしれない。

「必殺仕掛人」は元旦にWOWOWで放映されていて、録画し
昨夜見ました。観ようと提案してきたのは相棒の方で、私は
お付き合いで見たのですが。制作は1973年。原作は池波正太郎
だったんですね。監督は渡邊祐介。田宮二郎、野際陽子、川路民夫、
山村聡、とそうそうたるメンバーが出演し、人気があったんだろうな、
ということがよくわかる。

見始めた十数分間は、意外と面白いかも、と思った。法律では
さばけない悪を、こっそり始末する、という内容は、やはり
胸のすくところがあり。田宮演ずるところの優れた鍼師が、
針一本で、一瞬の間に悪を退治してくれる、という設定もまた、
シャープでかっこいい。この線に沿って展開されるのなら、
問題は、どのようにその悪人に迫り、隠密にコトを済ますか、という
一点にかかってくるだろう。

ワクワクしながら画面を追ったのだが・・・。

如何せん、この優れた鍼師、かなりの女たらし、ときているのだ。
始末すべき相手がいい女、だとたちまち煩悩が頭をもたげて来て、
腕が鈍る、というか、本来の任務がおろそかになってしまうのだ。

これでは「必殺」の名が泣くではないか。娯楽映画として、そして
たぶん、大多数の男性たちが見たい映画の方向としてはアタリかもしれないが、
英知と技術を駆使して、世の悪をこっそり始末する、そのシャープな
展開を観たい者には、なんとも「ダレた」映画、という印象がぬぐえない。

「必殺仕掛人」は続編が幾つかあるらしいが、私はもう見なくていいかも。
ちなみに、相棒はどうだったんだろう。「あまり面白くない」とは
言ってたが、私が集中して観てないことに気づいたからかな?
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Falling [映画]

2021年公開の映画「Falling」を観る。カナダとイギリスの合作。
認知症が顕著になり始めた父ウィリス(シカゴ近くに住む)を、
自分の住むカリフォルニア州の施設に入所させるため、迎えに行ったジョン。
誰彼の別なく、罵倒の言葉を吐き、息子にも悪態をつきまくる父と、
閉口しながらも、なんとか父により良い生活を送らせるため奮闘する息子。

現在の時間の流れの間に、互いにどのようなかかわりをしてきたのか、
親子の記憶のなかの時間が映像となって挟み込まれる。
銃の撃ち方を教える父。素直に従い、すぐさま鴨を射止める息子。
父と母の関係も良好で、母は妹を身籠っている。幸せな四人家族の生活が
続くはずだったのだが。

父は古い「父親像」を頑なに守ろうとし、子供中心に生活を回そうとする妻に
不満を抱くようになる。妻は耐えきれなくなって、幼い兄妹を連れて家を出る。
アメリカでは、子供の親権がどちらであるかにかかわらず、離婚後も親は
子どもとの関係を続けようとする。週末や夏季休暇などには、二人の兄妹は
父と共に過ごすことになるのだが。二人は自分の価値観を押し付けようとする
父に反発し、せっかくの親子の時間も辛いものになっていってしまう。
見ていると、この「父親像」が現在のトランプ氏を
崇拝する人達が掲げる「理想像」と重なっていってしまう。

自然の中で独立独歩の生き方を貫き、白人至上主義的で、移民の受け入れに
反対し、銃の規制、同性愛や中絶などは言語道断。だから、息子がアジア系の
同性パートナーをもち中南米系の血を引く少女を養女として迎えていることにも、
強い不満を抱いている。息子の家では、こうしたことをめぐって暴言を吐き、
好き勝手に動き回った挙句、カリフォルニアで暮すつもりはない。
自分が建てた家に戻る、と言い出すのである。

二人の関係はもう、そこで切れてしまうのではないか。観ている者には
そう思われる。たとえ認知症を患っているとはいえ、父の息子に対する
ふるまいは目に余る。そこまでして、どうして息子は父の世話を
焼こうとするのだろう。

そうこうするうち、観客にも父の苦悩が見えてくる。強い父親像を
演じようと苦闘しつつ、家族に受け入れられなかった悲哀。
自分自身が、父親に虐待的な扱いを受けていたこと。
息子は父親の言動から、父の心境を理解していく。
自分の生活を変えることはしない。そのうえで、父と
どう折り合っていけるのか。父の暴言に耐えながら苦悩する。

この数十年の間に、激変したアメリカの価値観。その変わりようは特に
男性への影響が大きかったのではないか。変わってしまった人々と、
変われなかった人々と。その差はあまりにも大きくなり過ぎた。
苦しみながら築き上げてきた「理想像」にしがみ付こうとする人々が、
「トランプ流」を熱狂的に支持している、そんなことも考えさせる映画であった。

ちなみに、監督と主演を兼務しているビゴ・モーテンセンの自伝的な
作品なのだそうだ。
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