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掃除婦のための手引書 [読書]

学生時代からの友人Nが紹介してくれた短編集。
題名が『掃除婦のための手引き書』って!???
聴いた途端、何だ?と一瞬呆れた。この題だけだったら、
私は絶対に手にしなかっただろう。でもNが勧めてくれるのなら、
と読み始めたんだった。ちなみに原題もA Manual for Cleaning Woman。

作者はルシア・ベルリン。1936年アラスカ生れ。鉱山技師の父の仕事先、
アイダホ、ケンタッキー、モンタナなどを転々とし、戦後はチリに住む。
三度の結婚と離婚を繰り返し、アルコール中毒を患い、克服後は
刑務所で創作などの教師も勤め、コロラド大学の客員教授まで
勤め、68歳の誕生日に癌で亡くなっている。

何とも有為転変の人生を送った人らしく、この短編集にも
その人生がたっぷり投影されていて、凡々と過ごした人間には
書けない、凄まじい生が凝縮されていることを感じる。

たとえば「さあ土曜日だ」という一篇。
まさに、刑務所で創作を担当した経験が活かされている短編である。
受講者に対する教師の課題の与え方がまた、並外れている。
「理想の部屋について書け」とか、「自分が切り株だとしたら
どんな切り株か説明せよ」とか・・・。一番すごいなあ、と思ったのは
「ニ、三ページの短い文章で、最後に死体が出てくる話を書け。
ただし、死体は直接出さない。最後に死体が出てくると、読者に
分らせるように書くこと」ぶっ飛んでる!

この文章を読みながら、自分がアメリカで受けた英語の授業を
思い出した。確かに日本の作文の授業とは明らかに異なっていた。
例えば、自分の身近な人について文章を書く、という課題。
日本なら、どう書いてもいい、好きな様に、思う通りに、と
来るところだろう。その時の先生は五十代の女性だったが、
まず、人間の性格を表す形容詞を一つ選ぶこと、が課せられた。
たとえば、「My cousin is emotional. 」(私のいとこは感情的に
なりやすい)。と始めて、その後に、そう思える事象などを
具体的に挙げる。というように課題の展開方法を限定するのである。
考えながら書くことの大切さを教わったことを思い出した。

『掃除婦の‥』、私だったらきっと手を伸ばすことのなかった書を
推薦してくれた友人に感謝したい。かなり人気のある本らしく、
初版は2019年7月だが、私の入手した本は、同年9月刊行の五刷だった。


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『麒麟騎手』 [読書]

先日の当ブログで、歌人・寺山修司を取り上げたが、その
きっかけとなったのは「角川短歌」2017年11月号をたまたま
再読していて出会った、穂村弘さんの「短歌とはこういうものだと
刷り込まれた五冊」という見開き二頁分のエッセイだった。
この五冊には『寺山修司青春歌集』と共に塚本邦雄『麒麟騎手』
も含まれていたのである。

そういえばこの本、私、持っていたかも。と思い出し、本棚を
探ると出てきました(笑)。穂村さんは2003年刊の沖積舎版も
持っているそうだけど、私のは1974年新書館刊。しかも
神田の古本屋のラベルがついている! 所々に赤線が引いてあるのに
値段が定価と同じ1200円だ(高いぢゃないか)。ま、いいか。

穂村さんはこの書を「塚本が寺山に送った書簡集」と書いているが、
そして確かに全体の四分の三はそうなのだが、冒頭の四分の一は
塚本による寺山修司論になっていて、こちらの方が断然面白い、
と私は思ったし、今も思っている。穂村さんのこのエッセイを読んで
書簡集の方を再読し始めたが、たちまち飽きてしまった。他人への
手紙をわざわざ大量にまとめて活字化する、ということが、しかも
当時はまだ寺山は存命だったことを考えると、その感覚にわたしは
ついて行けない感じがする。それはともかく・・・。

前半の寺山論は抜群に面白い。特に私は野球が好きなので、
寺山の未刊詩集に収められている「九人の唖の物語」に関する
言及は、もう、おなかを抱えて笑ってしまった(笑った後で、少々
さびしくなるが)

 衆人環視の中なればこそなほさら二人の唖の目と目で交す
 愛の対話は物悲しく、時には性的な恍惚すら帯びていた。
 しかも投げ手と受手は同格ではない・・。受手が投げ返す 
 行為の中には、優雅な兼譲と躊躇さへこめられてゐるかのやうに・・
      塚本邦雄『麒麟騎手』

塚本は寺山のこの詩を読んでから、これまで微塵だに興味のなかった
野球に目覚めたのだとか。ゲームそのものには興味がなく、ただ、
九人の物言わぬつわもの達が繰り広げる、心の交感を想像し、
楽しむだけのために。このあたりを表現する塚本の筆はぎらぎらに
ノッテいて、抜群に面白いのだった。もう、たらたらと相手の心を
忖度しながら書いている書簡など、比べものにならないくらいに。
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『英語の歴史』 [読書]

寺澤盾『英語の歴史』(中公新書)。だいぶ前に購入し、
そのまま書棚に収めて、忘れていた。たまたま見つけて、
読み始めたら面白くて、一気読みしてしまった。
英語は沢山の外来語を含んでいて、そのために
綴りや発音が複雑になっている、とは知っていたが。

英語に刻み込まれた歴史が、エピソード的に綴られていて、
新書として向き合う読者に、読み易いように配慮されている。
その個々の例が身近で、読んでいて楽しいのである。

たとえば、英語では、動物の名前と、それが食肉化された
場合の名称とが、異なっている例が多いのだが。

豚(pig swine)が豚肉( pork)、牛( ox cow bull)が牛肉( beef)、
羊( sheep)が羊肉( mutton)、となる。私は、さすが、
狩猟民族、長い食肉の歴史を持っている民族は、言葉も使い分けて
いるんだな、と思ってきたのだが。

この動物名と食肉名の使い分けには、イギリスという国家の歴史が
刻まれているのだった。十一世紀、イギリスはノルマンディーの
公爵ウィリアムに王位を奪われている。いわゆるヘースティングズの
戦いに敗れ、二百年ほど、征服者の言語である仏語が公用語と
なるのだった。

多くのフランス語が英語に入り込み、特に食文化において
イギリスよりはるかに洗練されていたフランスは語彙も
豊富で、たちまち英語化した、という。porkや beefなどは
もともとはフランス語で、英語にとっての外来語だったのである。

アメリカで生活し始めたとき、スーパーの中の食肉店で、
豚肉を買う時、つい「pig」と言ってしまって笑われたことを
思い出す。

数年前、韓国の釜山へ観光で出かけた折、
街角の看板を見て、ちょっとぎょっとした。外国人向けに
英語で書かれていたのだけれど、メニューの一番上に大きく
「rice in pig soup」とあったからである。

釜山の名物料理、テジクッパ(豚肉入のおじや)を英訳したものと
思われるが、もちろん「rice in pork soup」と、すべきところ。なんだか、
生きた豚がスープの中を、ご飯と一緒に泳いでいるような
光景を思い浮かべてしまったのだった。
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『母親になって…』続 [読書]

O・ドーナド著『母親になって後悔してる』について、
続けて書くことにしよう。この著は六章立てになっていて、
第一章は「母親になる道筋」。ここに登場する女性たちの
ほとんどが主体的に出産を選んだのではなさそうである。

 この社会では「子供をいつ生むの」という質問が待ち構えていて
 (母になれば)最前線で戦う必要がなくなります。‥‥

同様な立場から出産を選んだという人が複数。なんとなく、
選択の余地なく、気がついたら母になっていた、という女性も多い。

結婚する前は「いつ結婚するのか、付き合っている人はいないのか」
と問いただされ、結婚したらしたで「子供はまだか」という
問いにさらされる。男性もそうだろうが、こういう質問で受ける
精神的な圧は、女性の方が圧倒的に強いだろう。とにかく、
結婚してしまえば、生んでしまえば、あとは好きな様に生きられる、
と思ったとしても、それは当然なのではないだろうか。

でも「母になること」「母という立場でいること」は、それ以上に
ストレスのたまること、のように思える。自分の生活設計が
どんどん狂っていく、あるいは自分らしく生きられない、と
焦る女性が出てくるのは避けられないだろう。

本来、幸せな営為であるはずの子育てに、満たされない、
という思いを抱いてしまうのは、多く、
自分の人生を主体的に生きられない、という思いから
発生しているように思える。人生に何かしら大きな夢を
抱いている人ほど、その傾向は強まるだろう。

結婚や出産は個人の生き方の、一つの選択に過ぎない。
そう、みんなが思えるような社会にしていくことが第一歩と思う。
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『母親になって‥』 [読書]

『母親になって後悔してる』。書名を耳にした時、
驚き、そして興味を持った。最初は小説かと思ったのだが、
イスラエルの社会学者が書いた、一種の学術書らしい。
どのように展開しているのだろう、と、小説であろうと思った
時とは少々異なる方向での興味を持ち、大型書店に出かけた
折に購入してきた。

やはり、社会学の一つの方法であるケーススタディという
手法で展開されていて、「後悔している」と明言した女性
23名にいくつかの質問をし、得た回答を分析するというやり方。
期待していたよりも、若干、散漫な展開で、やや落胆したのだが。

これまで、こうした方向からの問題提起を試みた人は
現れなかったのではないだろうか。子供を産んでおいて
「産まなければよかった」と思わなかった女性がいないはずはなく、
いわば、社会的にタブー視されていたから、ずっと放擲された
ままだった領域なのだと思う。

とても大きな問題だけれど、感じ方に個人差もあり、
「社会学」的な分野からどのように問題解決につなげていけるのか。
難しいテーマではあると思うが。
この書は各国で翻訳されて、あちこちで話題になっている、
ということは、とても良いことだと思うのである。
「母」という立場がとても孤立しやすく、
社会的に不公平である場合が多い、と思っているので。
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あとがきをめぐって [読書]

三十代の頃だが、少女小説を狂ったように読んでいた
時期がある。八十年代後半から九十年代初頭の頃で、
日本はバブルの真っ最中。コバルト文庫(集英社)を
中心に、少女小説が大ブームを起こしていた時期でもあった。
当時の人気作家は、氷室冴子、藤本ひとみ、久美沙織などなど。
唯川恵、山本文緒、桐生夏生など、少女小説から出発して
本格的な小説家として大成した作家も多いのだが。

少女小説を読んでいて嬉しいのは、必ず、あとがきが
ついていること。ふつうの小説で、あとがきがある例って
あまりないですよね。少女小説は、作家と読者の垣根を
取り払おう、という意図もあったのだろう、「あとがき」には
創作の苦労話、作者自身の近況、今後の予定なども書かれていた。
あとがきには何を書けばいいか、本当に困る、などと長々と
苦情を書かれている作者もいたりして。これはこれで面白い。

大人向けの小説にもあとがきがあったらな、とよく思う。
どういうきっかけでこういう小説を書こうと思い立ったのか、
資料はどんなふうに集めたのか、主人公に対する作者自身の
思いは? 感動した小説ほど、作者に聞いてみたいことが沢山ある。

歌集にはあとがきがあるのが普通なのだが、これは第何歌集で、
何時から何時までに作った作品で、歌数は何首で、というような
やや無味乾燥な説明があり、作者のその時の状況がさらっと
述べられ、ついで決まりきった、歌の仲間や出版関係者への
謝辞で終わる、というのがお決まりである。

ないよりはましだけれど、もう少し、作者の言葉を聞きたい、
と思うことが多い。歌集内容についての説明を聞きたい、
というわけではない。何か、歌に賭ける思いのようなもの。
いや、なんでもいいのだ、歌集内容の説明から遠いものほどいい。

何処かで一度書いたことがあるけれど、永田和宏氏の第四歌集
『やぐるま』のあとがきがめっぽう面白い。彼は第三歌集までは
まったくあとがきを書かれていないので、いったい何があったんだ、
とのめりこむ様に読んだことを覚えている。以来、ときどき
思いついたように『やぐるま』を取り出してはあとがきを読んでいる。

このあとがきは、あとがきとしてはやや長く、5頁もある。そして
ほとんどすべて、「歌集題」に関することが書かれているのだ。
歌集題だけを並べて一首に仕立てた三枝昂之氏の歌が三首も
引かれいたりする。

このあとがきを書くきっかけになったのは、永田さん自身の
歌集題の軌道変更(?)だったらしい。第三歌集までは、
『メビウスの地平』『黄金分割』『無限軌道』と、なにやら
抽象的で、ひたすらかっこいい題だったが、第四歌集にきて
『やぐるま』(!) これは装丁を担当する高麗隆彦氏を
かなり悩ませることになったらしい。それまでの流れからは
全く違った題に、頭を抱えることになったのだとか・・。
私も、この題には、脱力したことを覚えているけれど。

第三歌集『無限軌道』は、銀河鉄道のイメージでつけた、とのことだが。
出版後まもなく、ある事故のニュースで、無限軌道とは、ブルドーザの
キャタピラのことと知って、ひどくがっかりした、というようなことも
書かれている。
大丈夫、永田さんの第三歌集だもん、やっぱ、メビウスの地平からの
流れでイメージするよ、とも思ったもんだった。
そんなこんなで、第十三歌集『午後の庭』に次の歌をみつけたときは、
ちょっと笑ってしまった。

  強羅山荘更地となりて黒土に無限軌道の跡深くあり
              永田和宏『午後の庭』
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トモ子ちゃん [読書]

小学校に入学した頃、我が家に、一年に一、二度「好きな本を
購入していい日」ができた。当時の我が家では、一年に最低二度は
遠出をしていた。春休みは母の実家のある、山形市近くの中都市へ。
夏は父の実家のある新潟県西部の中都市へ。その途中、山形市と
新潟市で途中下車することが多く、駅の近くの書店で、
「一冊選びなさい」と言ってもらえるのだった。
当時の私にとって、最大のイベント、ともいえる時間だった。

多くの読みたい本、の中から、たった一冊だけ。しかもだらだら
していると、両親は不機嫌になってしまう。「早くしなさい。
置いていくよ」あるいは、「もう、次にしなさい」と言われかねない。

読みたい傾向の本、は必ずあった。しかし・・。「なんでもいい」とは
言われながらも、決して「どんな本を買ってもいい」という意味では
ないことを、幼いながらに感じていた。両親が「それならいい」という
範囲での「読みたい本」「買いたい本」なのである。

小学校二年生の時だった。母の実家へ行くときは父は来ないのが
普通だったが、その時は両親一緒だったので、たぶん新潟での
ことだったろう。書店内で「さあ、選びなさい」と言われて、私は
これまでよりかなり迷っていた。父がシェークスピアの『ベニスの
商人』を手にとって、「これはどうかな。面白いんじゃない?」と
言うので、よけいに迷っていた。小二の子に、シェークスピアって、
どうなの? って今も思う。

その時母が、商品棚の少し上の方に目をやって、
「あら、トモ子ちゃん、なんて本があるのね」と言ったのだ。
小二の子どもの視線からは目につきにくい位置にあった、
という記憶がある。私はすぐにその本を書棚からおろしてもらい、
表紙を見た途端に、「これにする!」と叫んだのだった。

淡いピンクサーモンのハードカバー。大きさはA5判。
松島トモ子が、バレエのチュチュを着て、ポーズを取っている
写真が載っている。これはなんと、松島トモ子の自伝的な本だった。
私より数歳上でしかないのに!
トモ子ちゃんは、当時の少女向け漫画雑誌のグラビアを
たびたび飾っていて、私にとっても憧れの一人だった。

両親は「もう時間がないし、仕方ない」と、渋々買ってくれた。
でも母があの時、私には目に届かない位置にあったあの本の
存在を教えてくれた、ということが今も不思議な気持ちがする。

この本には、トモ子ちゃんが満州の奉天で生まれ(私はこの時に、
初めて満州や奉天などの地名と漢字の読み方を知った)、引き揚げを体験し、
バレエを習い始め、人気者に育っていく経過が、写真と文章でつづられている。

私は何度繰り返し読んだだろう。表紙の見返しにはバレエの
基本的ポーズを取るトモ子ちゃんの写真が幾つか収められていたので、
これを参考に、母の鏡台の前で、こっそり何度も練習した記憶もある。

この本はまた、ほかの面でも大活躍してくれた。母は私が少女雑誌に
興味を持つ事を極端に嫌っていたので、なかなか買ってもらえなかった。
それで、近所の同世代の子に、見せてもらうことになるのだが。
子どもはそれなりに計算高く、「じゃ、代わりに何か見せて」とくる。
その時に、『トモ子ちゃん』が活躍してくれたのである。

近所には同世代の女の子が七、八人いたので、数カ月分の
少女雑誌を『トモ子ちゃん』一冊で賄うことができたのである。
なかには「あの本、見せて」と言って、わざわざ新刊の雑誌を
持ってきてくれる子までいた!

『トモ子ちゃん』は汚れてよれよれになり、それでも従妹のところへ
もらわれていった。いったいどこの出版社から出ていたのか。
ずっと気になっていて、ふっと思いつき、ネットで調べてみたが、
何処にも載っていない。確かにあったのに、その形跡を追えなかった。

それにしても、あの本に熱狂していたのは、ほんの一、二年のこと
だったのだ、と気がつく。子供の時間の密度の濃さを今更ながら思う。
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ペーパーバック [読書]

「GHQ関係の仕事をしていた父親が廃棄されそうな
ペーパーバックを家に持ち帰っていた・・」現在朝日新聞の
「人生の贈りもの」を担当されている片岡義男氏にとっての
読書体験は、このあたりから始まったらしい。村上春樹氏も
ご自分の豊かなPB体験を語られていた記憶がある。羨ましい!

学生の頃、原書を入手するのはとても難しかった。新宿の
紀伊国屋書店にはかなりおいてあったが、とにかく高い!
岩波文庫の星ひとつが50円だった時代、つまり岡倉天心の
『茶の本』が50円で買えた頃、PBはだいたいが数百円だった。

それでも原書の香りに惹かれ、バイト代が入ったとき、
フランス語版の『星の王子さま』を入手、たしか5百円だった!
数ページ、辞書を片手に読んだところで、そのままになったが、
ずっと大切に持ち、今も、手元にある。

滞米時、近くに古書店があり、ほとんどのPBが一ドルで
購入できることに狂喜し、だいぶ買いあさってきた。
スタインベック、フォークナー、テネシーウイリアムズ、等々。
実際に読んだのはごくわずかだが、手元にあるだけで嬉しくて。

その後は、外国へ旅行する度、空港などの売店で、平積みに
なっている大衆向きらしい読み物を購入するようになった。
旅の途中にさっと読める内容、という需要に合わせてあるので、
これがすこぶる読み易く面白い。日本で言えば、赤川次郎とか、
西村京太郎もの、みたいな感じだろう。

それでも読み切れなかったPBが家に沢山あるので、このコロナ禍で
家籠りしていた時間に、何冊か手にとった。SUE GOUGHの
『wyrd』という小説は、表紙がルオーの絵画のようで。そして
描かれている女性が恨みのこもったような表情なのに惹かれて買った
のだが、抑圧された女性たちの恨みが時空を超えて描かれていて、
引き込まれる。

R.L.STINE『The Girlfriend』は、12歳の頃から付き合い、周囲からも
理想のカップルとして祝福されている彼女がいながら、たった一晩、
別の女性と関係を持ってしまったために、地獄をみることになる
男の物語。よくありそうな話だが、きびきびとした文章が快くて
最後まではらはら、ドキドキしながら読んでしまった。

途中わかりにくい表現はあるし、正直理解できない箇所もある。
だが、大切なのは逐一理解する、ということではなく、話の
流れに添ってストーリーを楽しめることの方にある。
子供の頃の日本語の読書だって、そうだったではないか。

だから手元に沢山の原書があって、なんとなく眺めていて、
ある日、どうしようもなく退屈になって、仕方ない、これでも
読もうか、と手に取ったら意外に楽しくて・・・。
というプロセスは、外国語の読みを身に着ける理想的な
環境なのである。
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動物図鑑・続 [読書]

アメリカで購入した北米の哺乳類だけしか載っていない
「動物図鑑」を愛用してきた私、いよいよ、新しい動物図鑑を
購入しようと決心した時はちょっと、興奮した(って大げさだが)。

まず、自分に問いかけてみる。自分が欲しいのはどんな図鑑か。
写真の素晴らしいもの。全世界の動物がある程度網羅してある
図鑑がいい。最低の情報が盛り込んであり、読み易いもの。
あまり重くてぶ厚いと、使いにくいかもしれないので、
そこそこまとまっているものでないと・・・。

あれこれと物色して、結局、子供用の図鑑を購入することにした。
子供用といえ、ばかにしたものではない。それなりにまとまっているし、
見やすい、解説が丁寧だし。それに、コスパがいい。

次にどこの出版社にするか、色々見比べた。
最後に二つの図鑑に絞ったのだが、一つは小学館の図鑑NEO。
こちらに一つ難点があるとすると、実写ではなく、絵が中心だったこと。
もう一つは学研の図鑑である。写真が多いのは断然こちら。

でもよくよく見ると、学研の写真はところどころ、不自然に
切れているのがわかる。写真の図版から動物だけを
切り抜いて表示しているので、その切り取りがやや雑なのだ。

その点、小学館の図鑑の方は、絵とはいえ、とても細密で、
不自然さが感じられない。結局、こちらを買うことにした。
知らない動物も載っている反面、家庭で飼う犬の種類なんか
まで載っていて、これはどうかな、と思える箇所もあるにはあるが。

子どもはきっとこのあたりも十分楽しむのだろう。
知っていることと知らないことの落差、みたいなものも
一冊の図鑑から感じる。子供の時に入手していたら、
どんなに楽しかっただろう。いやいや、今だからこそ、
熱中してみているのかも・・・。
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動物図鑑 [読書]

コロナ籠りの続く中、いつもよりたくさん本を購入した。
何処にも行けず、少しお小遣いにも余裕ができたこともあり。
これを機に、欲しかった本を揃えようという気にもなった。
そんな本の一つが「動物図鑑」。

初めて自分で購入した動物図鑑はなんと、三十数年前、
アメリカで暮していた時に現地で購入した『The Audubon
Society Field Guide to North American Mammals』である。
訳して『アーデュボン協会による北米哺乳類野外ガイド』。

登場する182の動物全部が、彼らが暮らす野外で
自然に撮影されたもので、いずれの写真も素晴らしく美しい。
・・・in full color showing living animals as they appear in their
native habitat・・・
と、表紙の耳に誇らかに書かれている通りなのだった。
動物の写真を野生のまま撮ることはとても難しいのに。

北米の動物に限られ、キリンや象やサルが登場しないのは
残念なのだが。あ、北米って、猿の類は生息していないんだ、
って、この本を見ながら初めて気づいたり。
珍しいアルマジロの写真に見入ったり。
やたら多いのが、ネズミとリスの類で、これらだけで全体の
三割くらいを占めている。
日本人が見るとRat もMouseも、どうちがうんだか・・。

って、種類の偏りに不満はあったものの、その写真の美しさ、
説明の細やかさに魅せられて、この哺乳類図鑑を見るだけで、
他の動物図鑑を買おうとは思わなかったのだった。
図鑑は断然「写真派」だった私は、他の図鑑が物足りなくて。
でも、もう少し、世界全体の動物がみられる図鑑を買おう、
と、このコロナ禍の日日に思ったのである(続きます)。

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