SSブログ

今年の一字 [言葉]

毎年暮れになると、今年の漢字一字が選ばれ、清水寺で
お坊さんが大筆でその文字を書く様子がニュースで流れる。
私個人で言うなら、今年の一字はずばり「偶」である。

広漢和辞典で調べてみるとこの字の意味は、第一に「でく」
旁の部分が「寓」に通じ、「借りる」の意となり、木を借りて
人形にこしらえたことから、「でく」の意味なのだとか。
ほかに偶数の偶(はんか、ちょうかのちょう)、ならぶ、そろう、
などの意味があり、私が意図しているところは、七番目にようやく
登場する「たまたま、おもいがけず」である。この字の旁は、
なまけもの、という意味があってそこから転じて「意図せずに」
「たまさか」という意味につながっていったらしい。

私がこの一字を今年の漢字に選びたいのは、驚くほどの偶然が
今年、何度も起きたこと。良い偶然もあれば、嫌な偶然もあったが。
良い方から云うと、三月に、米沢市在住のK・Yさんからお手紙を
頂いたこと。彼女とは全く面識もなく、ただ、彼女が市立図書館で
たまたま、私の歌集を目にした、というだけ。連絡をいただき
私は半世紀ぶりに米沢市と山形市を訪れることができたのだった。

そして、不思議に偶然は繋がるもの。九月の「塔短歌会」の大会で、
出席者は二百人もいた懇親会の、席がたまたま隣になった九州の
離島にお住いのH・Yさんが、山形県の出身で、なんと、私が
三カ月だけ席を置いた高校の卒業生だったこと!
さらに彼女は、K・Yさんのご主人と同窓生だったのだ!

私はこれらのことで、最近は余り思い出すことも少なくなっていた
山形県で暮した日々を思い出し、山形県の歌人で、中学校の校歌の
作詞者だった結城哀草果についてエッセイを書き、「塔12月号」に
投稿、その掲載誌をK・Yさんにお送りすると、到着したのが先回の
ブログに記した通り、哀草果の親族の人たちと参加する短歌講座の
前日だったのだそうだ。

偶然が偶然を呼び、不思議の縁が繋がっていくような出来事だった。
他にも、驚くほどの「偶然」がもう一つあったが、それは胸に秘めておこう。
もうこういうことが、これから何度もあるとは、思えないのだけれど。
来年だって、もしかしたらわからない。楽しい縁つながりで、何かまた
おもいがけないことに出会えるかもしれず・・・。
今年出会えた多くの人たちに感謝して、今年のブログを閉じることにしたい。
皆さま、良いお年を!
nice!(0)  コメント(0) 

「ひた赤し」をめぐって [言葉]

私が所属する「塔短歌会」の会誌には、「八角堂だより」という
欄があり、毎月一頁分ずつ、選者が当番でエッセイを投稿している。
今年選者になった私は、今月初めてこの欄を担当した(締切は十月中旬)。
何について書くか、八月ごろから頭の隅に置き、時々考えていた。

短歌の雑誌なので、短歌について書く、そして、私は初登場なので、
ちらっと、自己紹介的な内容が含まれるものがいい、と思い、
出身地山形の歌人について書くことにした。茂吉はつとに有名だから、
山形に終生、居を置き、茂吉の山形における一番弟子とされた
結城哀草果について、茂吉と絡めて書くことにした。

 ひた赤し煉瓦の塀はひた赤し女刺しし男にものいひ居れば 
            齋藤茂吉『赤光』(1913年刊・初版)

 ひた赤し落ちて行く日はひた赤し代掻馬は首ふりすすむ
            結城哀草果『山麓』(1929年刊)

茂吉の作品の方は、1920年に刊行された改訂版『赤光』からは削除
されているのだが、この二首の構成の酷似と、それぞれの内容上の
相違について採り上げてエッセイとしてまとめ、八角堂に掲載した。

茂吉と哀草果について、改めて考えるきっかけを作ってくれたのは、
今年の四月、私を半世紀ぶりに山形訪問へと導いてくれた、
米沢市在住のYさんだったので、彼女にも「塔12月号」をお送りした。

すると、これも何という偶然だろう、哀草果の親族にあたる方たちとの
短歌講座に出席する前日に届いたとのこと、彼女は八角堂をコピーして、
参加者の方たちに、配ってくれたのだそうだ。

そこで、新たな発見があったのだとか。それは、「ひた赤し」である。
親族の方のお一人が、母親の暗誦によってこの歌を「した赤し」と記憶、
それを聞いていたYさんも「した赤し落ちて行く日はした赤し」と
記憶し、田の水に映る夕陽だとおもっていたのだとか!

考えて見れば「ひた赤し」という言い回しは、一般にはあまり聞かない。
「下赤し」なら、それなりに、普通に理解できる内容になるが。
茂吉は「ひた」という言葉が好きだったらしく、『赤光』にはほかに
「ひた走る」とか、結構使われている印象がある。

「ひた」について、広辞苑をひいてみると独立した項としては出ていないが、
「直謝り」とか「直染め」とか、熟語としては幾つも掲載されている。
「日本国語辞典」には、「直(ひた)」は独立して掲載されていて、品詞は
「語素」とある。あまり耳慣れない言葉だが、いろいろな使われ方をしていて、
単に接頭語とは言えないからだろう。

と、あれこれとまた、言葉の森を楽しくさまようことになった。
郷里の友人というのは、なかなかにありがたいものである。
nice!(0)  コメント(0) 

大根は夜の電柱に [短歌]

近くのクリーニング店に頼んでいた衣料を取りに行ってきた。
帰り道、住宅街を歩いていると、高さ六十センチくらいの塀の上に
葱が一本、横たえてあった。真っ白い葱の肌がまだ瑞々しく、
誰かが買い物帰りに落としていったものを、気づいた人が
塀の上に載せてあげたのだろう。ちょっと、可笑しい。
たちまち、あの一首が脳裏に浮かんだ。

 大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり
               花山多佳子『木香薔薇』

もう花山さんの代表歌の一首になってしまった。くちずさむたびに、
ふっと笑ってしまうし、最近はこの歌を思い出す場面が増えた気がする。

車で数分のところにあるスーパーを普段利用しているが、ここの
駐車場は広く、三階と屋上と、屋外の平面駐車場とがあり、全部で
百台くらいは停められそうなのだが、数年前までは、特に週末は、
駐車スペースを探さなければならないほど、混みあっていた。

ところが、この三、四年、たぶんコロナが契機にはなったと思うが、
いついっても、駐車場は、スカスカである。買い物客は減ってはいるが、
それでもレジ待ちしなければならないくらいの客はいる。たぶん、
老齢化などによって、車を手放すひとが増えたのだろう。

そうしたこともきっと影響していると思うが、ちょっとした用事で、
街を歩くと落とし物が、結構目につくようになったのだ。
買い物カートを引いて帰る途中に、つい落としていってしまうらしい。
先述した葱は、きっとばら売りで買った葱を一本だけ落としてしまった
のだろうが。

先日は、歩道に厚揚げらしきビニールに入った食品が落ちていた。
「二割引き」の赤いシールが貼ってあって、ちょっと身につまされた。
帰宅してから、気が付くんだろうけれど、食事の支度に大きく影響
しないように祈る。

スーパーから我が家の方向への道は、坂道になっていて、途中は
歩いて見るとかなり勾配があってきつい。その途中に、胡瓜が
一本だけ落ちているのを見たことがある。河童が落としたのかな、
なんて、想像してしまった。

一番不思議だったのは、やや大きめの箱入りの、亀のえさ。
これくらいの大きさだと、落ちたときにわかりそうなもんだが。
その線で行くと、大根もそうだ。落ちたときに気がつかないって、
いったいどういう状況だったんだろう、と考えてしまう。
nice!(0)  コメント(0) 

ラインの黄金 [藝術]

英国ロイヤル・オペラ・ハウスの23~24年の
シネマシーズンが開幕。先日、「ラインの黄金」が上映されて
いたので、横浜の映画館へ観に行った。いわゆるライブビューイング。

幕は最初から上がっていて、舞台上には、大きなごつごつとした
張りぼて状の塊が置いてある。ラインの川岸をイメージしているらしいが。
音楽が流れだすと、年老いた女性が一糸まとわずに現れ、度肝を抜かれる。
女性はしずしずと右手から左手へと歩み、中央を少し過ぎたところで、
やはりゆっくりとだが、くるくると回転を始める。壇上にそうした
装置があり、そこに立っているだけらしいが・・・。

上映前にもらった解説によると、これは大地の女神エルダで、人間が
エゴの限りを尽くし、大地の恵みを奪い続けた結果、枯れ果ててしまった
地球を象徴している、ということらしいが。う~む、む、む。

ワグナーの「ニーベルングの指輪」は、社会の縮図のような作品で、
上演は時代ごとの問題を鋭く反映しながら企画されてきた、ということは
理解できるのだけれど。そして、今回のこのロイヤルハウス版も、
オペラのもつ、重厚な空間の再現、というより、現代劇的風に
演出し、先鋭的な解釈に基づく演出を行った、ということはわかるが。

この老女の姿がどうにも気になって、集中を欠いてしまったのは、
私だけだっただろうか。また、前半は、ストーリーの展開に起伏もなく、
やや退屈だった。後半、ラインの黄金と指輪をめぐって、アルベルヒと
ヴォータンが奪い合いを展開するあたりから、音楽にも迫力を感じ、
舞台に集中できるようになったのだけれど・・・。

オペラとは、現代において、どんな形で上演されるべきなのか、
そのことを鋭く考えさせる内容ではあったと思う。
メトロポリタンオペラだったら、どう演出するかなあ・・・。
nice!(0)  コメント(0) 

文字を習う [言葉]

現在の日本人に、文字の読めない人はほとんどいないだろう。
学校教育にはいろいろと問題はありそうだが、とりあえず、
読み書きや簡単な計算を、無料で漏れなく教えてはくれる。

もう三十年余りになるけれど、アメリカに滞在し始めた時、
先ずは、外国人のための英語教室を探して通い出したのだが。
アルファベットを読み書きから教える、無料の教室も併設されていて、
主に大人の黒人女性たちが通ってきていた。彼女たちは、初等教育を
受けられなかった人たちだった。八十年代も後半になっていたのに、
そして、本人たちが教育を拒んだというわけでもなく・・・。
おそらく、差別と貧困の結果だったのだろう。

そうした人たちがどんなふうに授業を受けているか、
ヴォランティアの人に誘われて、見学したことがある。

教科書には、一頁にひとつずつ、大きな絵が描いてある。
一ページ目は、赤い綺麗な林檎。その林檎を縁取るように
「a」の文字が記されている。「An apple」と教師が読み、
生徒たちは続けて発音し、林檎の回りをなぞるように「a」と
指で描く。二頁目には、鳥の絵が描いてあり、その絵を縁取る
ように「b」の文字が書いてある。教師が「A bird」と読み、
生徒たちが発音を繰り返し、bの文字を指でなぞる・・・・。
大人になってからの文字の習得の大変さを、つくづくと感じる時間だった。

「読み書きができないということは、働く場もごく限られ、貧困から
脱出できないんです。それで、彼女たちは頑張ってなんとかしようと
しているんですが・・。脱落してしまう人も多いんですよ。」

ヴォランティアの人が、そう話してくれた。
今はどうだろう、初等教育はもう、立場を問わず、浸透しているのだろうか。
教育は、人種や立場を問わず平等であってほしいし、今では状況は変わっている
だろうとは思うのだが。

アメリカの教育は、日本のように、誰もがまんべんなく、最低のことを
身に着ける、というやり方、というより、本人が自主的に学んで行けるよう、
モチベーションを植え付ける、という方へ、重きが置かれているように見える。
できる子はそこでインスパイアされて、好きな方向へ自在に進んでいくだろう。
好きで興味あることをみつける、これは人生でとても大事なことだとは思うのだが。

その過程で、落ちこぼれていく子も多いのではないだろうか。
勉強だけが大切とは、勿論思わない。でも、初等教育は別であろう。
誰もが最低身に着けるべきことがあるし、その段階では、決して
落ちこぼれを作ってはいけない、と思うのである。
nice!(0)  コメント(0) 

最近の街角での歌 [短歌]

先日こちらのブログで書いた、爆走三日間の中日に行われた横浜歌会。
なかなか自分の歌がまとめられず、苦慮の末に出したのだったが、その二首の
うちの一首

 朝(あした)には「あったか~い」を真昼間は「つめた~い」を押す初冬 街にて
                             岡部史

この作品は、結句に不満があり、いろいろと考えていたんだけれど、今一つ
思いつけないまま、詠草取りまとめのSさん宛に送っていたところだった。
Sさんが当日は欠席することになり、歌会の前日に、参加者の詠草データを
私の方に送ってくれた。その時点で、もう少しましな結句が思い浮かんだのだが。
訂正するのを忘れ、そのままコピーしてしまったので、「ま、いいか。Sさんが
出席してくれたのなら、このままのはずだったんだし・・・」と思い直す。

歌会では、やはり、私が気になっていたところをズバリ指摘された。
「初冬 街にて。 これじゃあ、ダメでしょ」みたいな(ダメ、っていう
直接的な言葉ではなかったようだが、そういう気配ムンムンで。そう、
たいてい、迷ったところが鋭く批判されるものなんだ。)

「まあ、『押す』という一言で、自販機の歌だって、わかるところが
面白いともいえるけれど」とも指摘して頂けてうれしかったけれど。
私の隣の席に座っていた、私よりやや年長のかたが、「自販機」という
言葉に、「あ、そういうことか~」と小さく呟いておられた。
確かに、自販機を使わない人には伝わらない歌になってしまっている。
このあたり、説明がなく極端に短い詩形は、難しいところなんだった。

さらに、私の作品にコメント下さった方は、鋭い突っ込みをされていた。
「朝から真昼まで、街に居たってことかな。そういうことも不自然な感じ」
と。ああ、そういわれるとそうかもね、と思う。私がこの作品を詠んだのは、
旅行中だったからで、実際、街なかのホテルに泊まっていたから、生まれた
歌だったんだ。そういう背景を知らないと、不自然な歌に思えるんだ、と
気が付いたのである。

短歌を詠むっていうことの怖さ、面白さをあらためて思った。
読み手は、あらゆる経験と勘を駆使し、たった31文字から、作者の
詠まんとするところを鋭く探ってくる、ベテランの刑事のような存在で。
詠み手は、簡単には読み解かれたくない(見つけられたくない)。
でも、時間はかかっても、きちんと見つけてほしい(理解してほしい)。
まるで、かくれんぼをしているようなものなんだった。
nice!(0)  コメント(0) 

短歌ブーム、かな [短歌]

私の住む、東京都の郊外にあるM市。我家は中心部から南に逸れていて、
商業地区には、車か、一駅だけだが、電車を利用する。そこには、大型の
商店が揃っていて、都心に出かけなくても大抵のものは揃う。だが、
歌集、となると別だった。短歌の総合誌も、そこでは買えなかった。
澁谷か新宿へ出かけた折には、必ず書店に寄って、できるだけ購入する
ということを心掛けていたのだけれども。

数年前から、少しずつ、事情が変わってきた。M市中心部にある
デパートの中に出店しているK書店では、かなりの歌集を置いているし、
短歌総合誌も、目ぼしいものは置いてある。時々お目当ての雑誌を
買いに行くが、発売日をかなりすぎると、もう売り切れていることもある。

先日、用事を済ませた帰りに、いつものようにK書店に立ち寄ると、
歌集の棚(といっても、上段は詩集、下段は句集で、歌集の棚はその
間の三、四段くらいなのだが)の前に、小柄な女子高生が立っていて、
歌集を熱心に選んでいる様子だった。ええ、こんな光景を見ることが
できるなんて・・・。と、しばし感動しながら、さりげなく近くに立つ。

あまり近寄ると変質者と間違われそうなので、そこは節度が必要なのだが。
どんな本を選ぶのか、気になってしょうがない。女子高生は、地味な紺色の
制服を着ている。私はごく近くの都立高の制服しか知らないのだが、
スカートの柄が違っている。どこの高校生なんだろう(って、周囲から
見る人がいたら、かなり危なく映ったかも)。

女子高生は、なんと三冊の歌集を選び、そのままレジへと立ち去った。
残念、どの歌集を選んだのか、最後までわからなかった。でも、三冊も!
ちょっと、ウルウルしそうになる。彼女にとって、どうか有益な買い物と
なりますように。ちなみに、自分の高校時代を思い返すと、あまりにもボンビーで、
文庫本一冊買うのも、清水の舞台、だったけれどなあ・・・。
nice!(0)  コメント(0) 

爆走の三日間 [生活]

私の所属している「塔短歌会」は来年七十周年の節目を迎える。
四月に特集号が出るが、その企画の一つに、「百葉集を読む」という
座談会も含まれていた。「塔」からKさんとOさん、さらに他結社のOさんの
三人で行われることが、六月の段階で決まっていたのたが。

九月に入ってからKさんが個人的事情で辞退され、私の方に打診があった。
対面で行われる鼎談は、12月2日。それまで、「塔」に毎月掲載されている「百葉集」の
五年分、全千二百首の歌を読まなければいけない。ちょっと、焦る。

さらにさらに。鼎談は12月2日(土)の午後から夕方にかけて、池袋で
行われるという。我家からたっぷり一時間半はかかる。
翌日3日は、横浜歌会の定例の日! ちょっと青ざめる。もしこの鼎談で
疲労困憊したら、横浜歌会は、休もうか、とも考えた。いやいや、そうも
いかないだろう。とにかく両方、全力で取り掛かり、三日目は家で
ダウンしていればいいんだ、と思い直す。

さて、その前日の12月1日、いつも横浜歌会の詠草取りまとめをしてくれている
Sさんから、都合で出席できなくなった、と連絡が入る。幸い、彼がすでに
データとして完成してくれていて、私はダウンロードしてコピーをすれば
いいだけの段階までやってくれていて、感謝! 

「百葉集」の座談会は、なかなかいい雰囲気で始まり、楽しく進み、話も弾んで、
予定通り、五時過ぎに終わる。食事をして大わらわで帰宅すると八時を過ぎている!
それから、詠草をコピーして、翌日に備えた。12月の横浜歌会の参加者は
今年最多の19名だった! 盛会は歓迎だが、こういう時に限って(苦笑)。

3日朝、かなり疲れていた。なんだか、頭がぼうっとしているが・・。
何とか、歌会を乗り切る! すると近々行われる予定の、Nさんの
歌集評会について、歌会後に話し合いたい、と担当しているKさんから
声を掛けられた。う~ん、今日は早く帰って、食事をして、寝てしまいたい。

おまけに、二週間ほど前に、相棒の中国の知人から連絡があり、
来日する予定があり、是非お会いしたいとのことだった。家に来てもらう
ことになったのだが、彼が指定してきたのは、なんと12月4日だった!
ああ、その日だけは避けてほしかったのに!
歌集評会の話し合いに参加しながら、翌日の予定を色々と考えてしまう。
いけない、いけない、と思いつつ・・。

Sさんは、翌日やってきたが、こちらで「駅に着いたら車で迎えに行くから
電話して」とメールを打ったのに、そこが読まれていず・・・。
彼は日本語はかなり達者。日本で博士論文を出したくらいだから。
でも来日は数年ぶりで、少々、理解しにくいところがあったのかもしれない。
彼は駅で一時間近く、こちらも家で、彼を待って待機する、という無駄な時間も
できてしまい、なんだかもう、本当に疲れてしまった・・・。

Sさんが帰られた後、相棒が「ダイニングの掛け時計、時間が狂っていたよ」
と言い出した。みると、電池切れで、午後二時すぎのまま止まっていた。
この時計、二年くらいはずっときちんと時を刻んでくれていたのに。
私の疲労困憊が、感染してしまったかな。とにかく爆走の三日間でした。
nice!(0)  コメント(0) 

超簡単・鮭料理 [食文化]

以前このブログで、鮭のちゃんちゃん焼のレシピを紹介したことがあった。
相棒が好きな料理で、我が家の冬の大事な一品となっていたし。

昨日は、鮭をステーキにしようと思っていたのだが、たまたま私が
図書館から借りてきていた、超簡単レンチン料理集、みたいな本を
相棒が観ていたのだが、急に「鮭があるなら、これにして」と言い出した。
見ると、なんとちゃんちゃん焼の、超簡易版レシピが載っているのだった。

それで、やってみることにしました。我家ではキャベツを切らしていたが
白菜があったので、こちらをつかうことに。用意するのはレンジ用のコンテナ。

1,コンテナに味噌大匙1弱(材料全体の重さの5%弱)、みりん大匙1,片栗粉小さじ1,
 を入れて、よく混ぜ合わせる。
2.そこへ、生鮭二切をそれぞれ半分に切って入れ、みそだれとよく混ぜ合わせる
3,白菜の芯の部分は細切り、葉の部分は数センチ幅に切って、鮭の上に載せる。
4,白菜の上にバターを15~20gを載せて、コンテナの蓋を斜めにかぶせる
5,レンジに6分半ほどかける

出来上がったものを恐々開けてみると、鮭はふっくらと火が通っていて、
白菜も十分柔らかくなっていて、なかなか美味でした。
フライパンを洗う手間もなく、夢のようにらくちんな、レンチンレシピ。
なんだか、はまってしまいそう・・・。特に忙しい時は有難いかも。
次は、少し豆板醤を加えたり、じゃが芋の薄切りを載せたりしても
美味しいかも。好みで、いろいろと試せそうです。
nice!(0)  コメント(0)