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ペルー旅物語(その8) [旅]

ペルーの二週間の旅。一番の思い出はというと、リマにはなく、
クスコにもなく、マチュピチュでもない。実はこの後に、
ソフイアと出かける北部の町ガハマルカ、及びガハマルカ往復の行程である。

ソフィアの両親と、二十歳を過ぎた姉と兄はすでに米国籍を取得し、
米国在住の身であるが、19歳のソフィアと17歳の弟は、まだペルー国籍。
ソフィアはもうすぐ取得出来て、両親たちと合流するが、弟はまだ
高校生とあって、テロが頻発するリマでの生活に不安を感じている両親が、
リマの北方に600キロ近く離れた町、ガハマルカの親族のもとに送り込んでいた。

彼女と一緒に弟の様子を見てきてほしい、と言われていた私。
普通それだけ離れていれば、飛行機を利用するところだけれど、
「バスを使う」と聞いていた。正直、この距離のバス移動は、かなり
辛いのではないか、とおじけづいた私は、飛行機のチケットの値段も
調べてみたのだが。当時のドル換算で片道50ドルくらいだった記憶がある。
(ところで86年頃の1ドルは、190円ほど。この後、劇的に円高になるのだが)
それくらいなら、彼女の分も私が払うから、と提案したかった。
でも、なんとなく言い出せなかった・・・。

バスのチケットは今も、アルバムに貼り付けて保存してある。
手書きの文字で、値段は二人分で片道163ソルとなっている。これはたぶん、
驚くほど安価なはず。1986年当時のソルが日本円で正確にどのくらいかは
調べていないが、2006年発行の世界地図帳の資料編で見てみると、
1ソルは33円でしかない。600キロも離れた地へ行くのに・・・。

バスはなるほど、酷い状態だった。かなり古い車体で、乗り心地が
悪い上に、道路状況もよくないので、とにかく揺れる、というか跳ねる!
ガハマルカまでは、14時間ほどかかるというが、その間、休憩は
二度だけだという。バスにトイレは、勿論ついていない。
バスは満席で、身動きもできないような狭さだった。
途中で体調が悪くなったらどうしよう、と考えただけで
気持ちが悪くなりそうだったのだけれど・・・(続きます)。
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ペルー旅物語(その7) [旅]

マチュピチュで一番心に残ったのは、石造りの建物、
ではなく、斜面にびっしりと刻まれた、段々畑の痕だった。
周囲から隔絶した地の城塞都市は、こうした生産の場を設けなければ、
生き延びることはできなかったことは明らかなのだけれど。
狭い土地をいかに有効利用していたか、その勤勉さに頭が下がった。

日本も利用できる平地が限られている地域が多く、あちこちに段々畑が
発達したけれど。その管理の大変さに、消えゆこうとしている。

アンデスでは、それこそどこにでも段々畑が見られ、人々は
上り下りを繰り返しながら、耕作や収穫作業を行う。こんなに空気の薄い
地域で、大変だろうと思ってしまう。使っている農機具もかなり原始的な
ものばかりで、生産性はかなり低いように見えた。

マチュピチュの遺構のまわりを、リャマがうろうろと歩き回っている。
近くの人が飼っているのだろう。駅前があんなに混んでいたのに、
遺跡にはさほどの観光客はおらず、ゆっくりと回ることができた。
バスの運行体制が整っていないのだろう。

帰りのバスを待っているとき、現地の少女と片言ながら話を交わすことができた。
弟と一緒だという少女は十歳くらいだろうか。一緒に写真を撮って
もらうことができたのだけれど。残念、弟の方は、靴紐を直そうとして
屈んでしまいました。

IMG_20240306_150653.jpg



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ペルー旅物語(その6) [旅]

マチュピチュは、クスコの西に百キロほど離れた地にあり、
そこへは鉄道でしか行けないらしい。ペルー南部鉄道サンタアナ線、
と呼ばれる支線がクスコ駅とマチュピチュ遺跡口を結んでいる。
朝早く、クスコを発ち、午前中にマチュピチュ口へ着く予定。

早朝のクスコの町には霧が流れ、その霧の晴れ間晴れ間に、
例の独特の民族衣装をまとった人たちが、音もなく行き交う。
それがとてもミステリアスで、息をのんだことを覚えている。

列車はとても混んでいて、多くは観光客、そしてどこかの
テレビ局の人だろうか、大きなビデオカメラを持った人たちも
乗り合わせていた。駅に着くたびに、物売りの人たちが車窓に
寄ってきて、盛んに呼びかけてくる。水や食べ物を売る人たちは
混んでいる乗客をかき分けるように乗り込んできて、ものを売ろうとする。
騒音と匂いとで、着くまでにかなり疲れてしまったことだった。

遺跡口に着くと、以前に書いたように、観光客でごった返していたが、
私はすんなりとバスに乗れて、ほっとしたのもつかの間。
このバスが、かなり恐ろしい乗り物だった。ほとんどはげ山のような
急斜面、そこにへばりつくようにつけられている砂利道。
遺跡口から遺跡までは、高低差が450メートルほどあるという。

そこをまるでいろは坂のようにカーブを繰り返しながら登るのだが、
道は狭いうえに、運転手は相当のスピードを上げて行く。
途中で車窓から見下ろすと、恐ろしいほどの崖、その下を峡谷
ウルバンバの川が流れる。
ちょっとのミスで、バスはこのがけ下数百メートルを転がり落ちるのか、
と思うと、身が縮んだ。

こんな岩山の上に、なにゆえに巨大な石の都市を築いたのだろう。
かくまでの建築技術を持った住民たちが、なぜ滅んだのだろう。
疑問は次々に浮かんできた。そしてようやく、バスはその
天空の都市へとたどりついたのだった。(続きます)
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ペルー旅物語(その5) [旅]

リマの印象を一言で言うと、ほこりっぽい、だった。
目につくところに埃やごみがいっぱい、という印象である。
三月だったので、中南米はこれから秋、という季節。
半袖で町を歩くと、うっすらと汗をかく、くらいの気候だったが。
空気が乾燥しているらしく、道端にゴミが捨てられていても、
日本のように腐って匂う、ということが少ないらしい。それで、
みんな、ぽんぽん捨てて歩く。屋根の高いところで、何かひらひら
しているので、鳥かな、と思うと、レジ袋が引っかかって揺れているだけ。

クスコは標高四千メートルを超えた地にある。リマを発った飛行機は
ほとんど高度を落とすことなく、ほぼ水平に着陸し、驚いたことを
思い出す。高地だけにクスコは寒く、翌日はうっすらと雪が積もった。

高山病を心配したソフィアが薬を持たせてくれたけれど、使わなかった。
言われていたような症状(呼吸が苦しくなる、身体が縛られたように
身動きできにくくなる)はほとんど感じなかったからである。たぶん
若かったからだろう。それから十三年後、私はエクアドルに行く
機会があったが、ここで初めて、高山病らしい症状に襲われた。
さほど急でもない坂道で、まったく足が動かなくなって・・・・。

クスコの町は、素晴らしかった。いかにもインカの古都らしい
重々しさが感じられ。そして町ゆく人たちの衣装の独特なこと。
当初は、観光客のために人々が特別に装っているのか、と疑って
いたのだが。そうではなかった。赤を主に、黒や黄、緑の鮮やかな
染料で染めた衣装は彼らの普段着で、近くで見るとかなり汚れている。
後でわかったことだが、現地の人は一生に二度しか入浴しない人が
ほとんどなのだそうだ。生まれた時と、死ぬ時と。今は変わっているかも。

それぞれやはり派手な色彩の帽子をかぶっているのだが、それらは
民族ごとにデザインが異なるのだとか。女性は大きな風呂敷包みのような
ものを背に負っていることが多い。赤ん坊まで、風呂敷で包んで
背負うのだそうだ。すれ違いざま「ブイッツ」と背の包みから変な音がして
思わず後ずさったことがあった。すると包みからぽろっと子豚が顔を出し、
背負っていた女性が、ニコニコしながら振り向く・・・。生きている鶏を
抱きながら歩き、そのままバスに乗る子供もいた。

市場では、驚くほどの種類のじゃが芋、トマト、玉蜀黍、豆類が
売られていた。これらは皆、北米大陸原産。赤や紫のじゃが芋に
驚き、そして食べてみて、甘くコクがあることにも驚き。
夕食に食べたシチュウは、薄いチョコレート色の肉が入っていたが、
これはどうも、リャマの肉、らしかった。柔らかく美味だったが。

小さな用品店で、家族へのお土産にアルパカのセーターを六枚買った。
リマで待つソフィアに、イヤリングも購入する。大きな民族衣装の人形は自分用に。
店主の中年女性は、気前よくまけてくれたのだが。それでもかなりの
収入だったらしい。私が店を出た後、すぐに店じまいの支度を始めるので
笑ってしまった。今日はもう、一日分以上、売れたから、ということらしい。

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左からソフィアの従妹、ソフィアの叔母さん、ソフィア、私。リマの実家で。
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ペルー物語(その4) [旅]

リマについてから、ソフィアは急に「私はクスコにはいかない」
と言い出した。驚いていると「クスコは観光地だから、リマのように
危険ではない。外国人観光客のために警備もしっかりしているし、
ほとんどの場所で英語が通じる。大丈夫だから」と念を押す。
ソフィアは年齢の割にしっかりしていて、一度言い出すと、
絶対に妥協しない強さがあった。一度リマ市内のスーパーマーケットで、
珍しい野菜が沢山並んでいたので、ついカメラのシャッターを切ってしまった。

すると店の人が飛んできて、「店内の撮影は禁止だ」と
わめきだした(ようである。スペイン語は分からないので、
雰囲気で推すところ)。店長らしき男性も出て来て「カメラを没収する」
とまで言い出したらしい。するとソフィアが、敢然とした口調で反論し始めた。
二人の大人の男を相手に、一歩も引かないのである。

相手は、それならここで、フィルムだけでも出せ、と言ったらしい。
それに対しても、彼女は毅然と跳ね除けた。
そして、とうとう言い負かしてしまったのだった。
「貴女は観光客なんだから、何も問題はないのよ」と
後で言ってくれたのだったが。そんな彼女が一度決めたこと、
こちらも腹を括るしかなかった。

クスコへ出発する朝、彼女は空港まで見送ってくれ、そして
空港内で、「ちょっと待ってて」と言った後、どこからか
一人の中年女性を連れて来て言った。
「この人は、観光会社をしていて、クスコの旅の手配を
してくれることになったから」と言い出す。あっけにとられていると
「クスコの空港で、あちらの担当の人が迎えに来てくれる。
その人が、ホテルと、マチュピチュへの列車とバスの手配をしてくれる。
貴女はここで、契約金だけ払って。大丈夫、心配することは何もない」

本当にソフィアの言うとおりになった。クスコには、温和な表情の
やはり中年の女性が出迎えてくれて、ホテルへ連れて行ってくれた。
マチュピチュの観光も手配してくれた。クスコからマチュピチュ遺跡口までの
切符、そして遺跡口からマチュピチュ遺跡までのバスの手配も。

マチュピチュ遺跡口は多くの西洋人の観光客でごった返していて、
狭い駅前がまるで通勤電車内みたいな人口密度だった。彼らは皆、
ここから遺跡までゆくバスを待って、かなりの時間を過ごしているらしく、
明らかにイライラしていた。私も相当待たされるんだろうなあ、と覚悟
していると、十分ほどで名前を呼ばれて、驚いた。これもソフィアが
あらかじめ予約してくれていたおかげらしい。周りの西洋人から、
凄いブーイングが怒るなか、小さくなってバスに乗り込んだことを
覚えている。
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ペルー旅物語(その3) [旅]

一緒にペルーを訪れることが決まってから、私は二、三度、
ソフィアの家を訪れた。旅の計画を話し合うためだが、結局、
ソフィアのお母さんが、すべてを決めた。ソフィアのお母さんは、
フィリピンの元大統領、アキノ夫人によく似た美しい人だったが、
気の強そうなところがあり、温厚なご主人と良いカップルだった。

その計画とは
1986年3月12日 ノースカロライナ・ダラム空港を出発
        マイアミ経由でリマ着  リマのソフィアの実家泊
   3月14日~17日 クスコ
   3月18日 夜行バスでガハマルカへ(24日まで滞在)
   3月26日 ノースカロライナへ帰る

という、やや強行スケジュールだった。ソフィアのお母さんが強調するには
「リマは今、テロが横行し、それに乗じた強盗やかっぱらいが多くて、
とても危険。特に外国人がリマに滞在する時間は極力短くした方がいい」
とのことだった。リマでは、ソフィアと街歩きしたが、彼女が何度も
「こっちの方が安全だから」と遠回りしながら案内してくれた。

商店の多くが、開店時間を短くしていたが、開店時間さえも金属製の
格子戸を下ろしていた。客は店員に欲しいものを告げ、格子戸越しに
金品を交換し合うのである。不便ではあったが、リマの市民の置かれている
厳しい現状をひしひしと感じたことだった。
現在も国や地域によって、かなり政情不安定の続く中南米。
その根本の原因は何だろう、とあの時から考え。考え続けている。
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ペルー旅物語(その2) [旅]

ペルーを訪れるきっかけを作ってくれたのは、滞米中に知り合った
ソフィア。リマの出身で、当時19歳だった。私は彼女と出会った日を
鮮やかに覚えている(出会った、とは言えないかも。彼女の方は、
全く覚えていないらしかったから)。
アメリカでは二週間余りのホテル滞在を経て、アパートへ転居。
近くの中学校で夜間行われていたコミュニティカレッジに通い始めた私。
外国人のための英語教室が開かれていたからである。週に三度の授業を
一週間ほど受けたところで、新しい仲間として彼女が加わった。
最初の日、両親に挟まれて、ちょっと緊張の面持ちで席に着いた
彼女は、漆黒の髪に、やや浅黒い肌。顔立ちはどちらかというと東洋系、
の雰囲気があった。いわゆるオリエンタルアイをしていたからである。

コミュニテイカレッジの他に、私は九月に始まった、ある大学付属の
英語学校にも通い始めたのだが、そこでもソフィアと一緒になり、親しく
話をするようになった。彼女の両親はすでに米国籍を取得しているとのこと。
そのうち、両親があなたと会いたがっていると、家に招かれた。
そこで、彼女の家の複雑な事情を知ることになった。

彼女の両親はペルー生まれのペルー育ちだが、母親はスペイン系の
母と中国系の父親を持つという。彼女の父親の方は、スペイン系に
ペルーの原住民、ケチュアの血が混じっているのだという。
それで、彼女は東洋的顔立ちをしているのだが、彼女の姉は、全くの
スペイン系に見える。すぐ上の兄もまた、スペイン風の顔立ちだった。

さらに驚いたことに、両親は政情不安定なペルーを脱出するために遠大な計画を
立て、着々と実行に移している最中だった。父はアメリカの大学に進学し、
結婚相手の女性(つまりソフィアの母)を呼びよせ、アメリカで第一子である
ソフィアの姉を産んだ。米国生まれは、そのまま国籍を取得できる。
米国籍の子の両親として米国籍を取得し、二番目の子ソフィアの兄が
二十歳になったのを機に、二人の子を連れて米国に移住。
二十歳前のソフィアと彼女の弟はペルーに残った。

ソフィアはあと一年で二十歳になる今年、少し米国で英語に慣れるために
呼び寄せたののだという。来年三月には、一度ペルーに帰り、書類を
揃え、国籍取得に備える、という話だった。

その時に、一緒にペルーに行く気はないか、と尋ねられたのである。
それはもう、渡りに舟だった。こんな機会はアメリカにいてこそである。

リマにはソフィア一家が暮らしていた家があり、現在はソフィアの叔母一家
が暮らしている。そこで宿泊した後、北部の町、ガハマルカにも一緒に
行ってほしい。リマはテロが相次いでいて危ないので、ソフィアの弟が
そちらの親戚の家に身を寄せている。一緒に行って様子を見てきてほしい、
と言われたのだ。

ソフィアのことを心配し、誰かに一緒についていってほしいのだ、
という両親の気持ちは強く伝わった。だが、はたして、私なんかが
何かの役に立つのか、とも思ったけれど。英語だって、若いソフィアの方が
急速に旨くなってきているし。とはいえ、リマ出身の人と、ペルーを
訪ねることができるなんて、そうあるはずのない機会に、私は
ぞくぞくする思いだった(続きます)。
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ペルー旅物語 [旅]

先日、米坂線についてこのブログに書いた後、また
宮脇俊三の鉄道の旅のエッセイが懐かしくなって、読み返している。
何冊かは手元にあるが、読んでいない書もまたある。
図書館にリクエストしたりして読み返しているのだが。

『汽車旅は地球の果てへ』所収の「アンデスの高原列車」を
読んでいたら、無性に懐かしくなった。宮脇氏が彼の地を旅したのは
1980年11月のことらしい。私は氏に遅れること五年四カ月の、
1986年3月にペルーを旅している。五年余りの歳月は、当時の
ペルーでは、特にアンデス地方ではあまり長い時間とは
言えないのではないだろうか。

特にあの旅は、私がこれまで経験した中でもすごく、
過酷だったことを思い出す。短歌には詠んだけれども、紀行文として
残しておけばよかったな、と悔やんだりしている。でも、とにかく。
少しずつ思い出しながら、あの日々のことを綴ってみようという
気持ちになった。アンデスは、ほんとに、素晴らしい地だったから。
                  (この項、続けます)
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山形新聞電子版 [生活]

2022 年12月から、山形新聞電子版を購読し始めた私。
この年、私は歌集『海の琥珀』と『砂糖をめぐる旅』という
エッセイとを刊行したのだけれど、その二冊とも、山新で
書評を載せてくれるなど、お世話になったので、お礼の意味、
そして何より、生まれ育った故郷(今では山形市内に、従妹が
住んでいるだけ、なのだが)を応援したい気持ちもあって。
それに、月に数回は、「そうか、凄い!」と、驚くような
記事に出会えることもあって。楽しみに読んできた。

電子版の購読料は月額2100円、そして昨年後半からは2000円。
このくらいなら、と思ってきた。我家ではほかに朝日新聞を
購読していて、こちらは紙版で、月額4900円かかっている。

今月に入ってから、山新からメールが入り、今までのような
電子版の山新は廃止になる、というお知らせが来た。最近、
「キジクル」という山新の電子版ニュースが充実、強化され、
そちらを読んでほしい、ということだったが・・・。

キジクルの登録には、紙の新聞を購読しているか、あるいは
購読料を払う必要があるという。それが、なんと月額4200円なのだった!
これまで読んでいた電子版の二倍以上もする! ちょっと、上げすぎじゃ
ないだろうか。しばらくショックで言葉がなかった。

とりあえず、朝日新聞山形版を読める、というサイトに登録した。
山形新聞については・・・。思案中である。
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米坂線(その4) [旅]

米坂線は全長90キロ余り。その間に22個の駅があるという。
一昨年8月の豪雨で所々が寸断され、以来運休し続けているが、
22個はその当時の駅の数である。私の記憶ではもっと多かったように思う。

我家にある日本分県地図地名総覧という地図帳は、1964年版のもので、
相棒が院生だったとき、神田の古本屋で購入したというかなり古い書。
それで米坂線の駅を辿ってみてわかった。確かに私が利用していた
1960年代半ばは、駅の数が今より多かった。ただし、二駅だけだった。

小国町から米沢までは全駅がそのまま据え置かれ、小国から坂町までの
間で二駅が廃止になっていた。その一つは新潟県境沿いで、小国町側に
あった、「玉川口」という駅。そしてもう一つは、坂町の一つ手前に
あった、「花立」という駅である。花立は、確か、私が五、六才頃に
新たにできた駅だったのではないだろうか。私はこの駅名が何となく
好きで、妹と電車ごっこをするときは、必ず「花立」という駅を
地面に書きいれていた記憶もある(その隣が大阪、だったりした)。

玉川口の方は、駅のすぐそばが荒川だったような記憶がある。
荒川峡は素晴らしく水のきれいな峡谷で、駅はやや高いところにあり、
のぞき込むと怖いくらいだった。
と、覚えているのだけれど、さだかではない。もう、遠い記憶で、
自分が勝手にこしらえてしまった風景、のような気もするのである。
                 (この項、終ります)
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