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素人と歌を読む・さらに [短歌]

素人とは、以前このブログで書いたように、自分では歌を詠まず、
読むことも滅多にない我が相棒である。「塔」の百葉集を何度か
一緒に読み、新聞歌壇を一度読んだところで、この「会」(?)は
しばらく中断していた。二週間ほど前になるが、久しぶりに相棒が
「今度は、全く違う人の歌を読んでみよう」と提案してきたので
(いやいやつき合わせている感じ、がひしひししていた私、すぐに
乗りました)、河野裕子さんの歌を読もう、と思った。

河野さんの追悼号(「塔2011年8月号」)掲載の中から、
「オノマトペの歌」(山下洋選)を選んで、二人で読むことに。
河野さんの作品で一番すごい領域、と私は常々思っているから。

 たとへば君、ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
                     『森のやうに獣のやうに』
 土鳩はどどつぽどどつぽ茨咲く野はねむたくてどどつぽどどつぽ
                      『ひるがほ』
初期の作品から。相棒はすぐに
「ああ、知ってる。有名な歌だよね。土鳩の歌はいいなあ。でも
たとへば君、ってどうなの? 本当にいい歌なの? 有名だけど
どこがいいのか、よくわからない。リズムも良くない感じがする」
と言い出し、ちょっとたじたじする。
「初句が斬新だと思う。この思い切りの良さが良いと思うし、女性から男性へ、
迫っているような感じも、当時は新しかったんじゃないかな」

彼は納得している風ではなかったが・・・。

 夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温いよぬーと沼のやうだよ
                       『体力』

この歌には、絶句していた。
「凄いなあ、こんな歌・・・。これ、初期の歌?」
「えーと、中盤に当たる頃の歌かな。病気がみつかる少し前だと思う。
確かにこの歌、私なんかとても作れない。下句で、ぬくい、ぬーと
ぬま、とぬの音を四回も繰り返しているところなんか、すごく上手いし。
体感が生きていて、音と一体化しているよね~」

相棒はしばらく何も言えず・・・。
オノマトペの歌は、それから十首あまり続きがあったのですが、
この一首に打ちのめされているようで、後の歌は、おまけ、のように
なってしまったくらいでした、はい。

今年も残すところ十数時間となってしまいました。
拙ブログをお読みいただいた皆様、有難うございました。
来年も楽しく、続けていきたく思っています。良いお年を!


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ひかりへ [短歌]

一昨日、母が亡くなった。101歳一か月。
あと、もって二、三週間です、と医師に告げられてから
二カ月半も、この世に留まり続けて、自らの誕生日を迎えてから
静かに息を引き取った。

この二、三日とても寒い。
雪国で暮していた頃のことが思い出されてしまう。
東京の空はか~んと晴れ渡っているけれど、この寒さに
息詰まるようにしんしんと雪を降らせていた、遠い日の
昏さが思い出される。

母のために、一首作って、柩に入れることにした。
母は喜んでくれるだろうか。

 記憶には昏く降りつぐ雪道の母よ ひかりへ歩みゆきませ
                     岡部史                  
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大きなお世話 [言葉]

相棒が仕事で関わった中国からの留学生は沢山いるが、
その一人が中国へ帰国するとき挨拶に訪れて、こう言った。
「大きなお世話になりました」
相棒は、一瞬、皮肉を言われた、と思ったそうだ。
そうだよね、日本人なら、「要らぬ世話を焼いてくれたな」
と、恨み言を言われている感覚に陥るはず。
でも相棒は、一瞬で気持ちを立て直したらしい。
言っている相手は、発音は流暢だが、何しろ異国からの人。
様子を見ても、皮肉を言いに来た、という雰囲気ではなく。

さりげなく言葉を交した後、「大きなお世話」について、注意しなくては、
と思いつつ、どう話せばいいか、苦慮した、と零していた。

特に話し言葉となると、言葉通りの意味を成さないことが多々あり、
異国語を扱わなければならないとき、妙なことが起きやすい。
その折、相棒は「先生たちへの御礼参り」も、誤解を生みやすい言葉
だよ、と説明したという。「どれだけ理解されたか、わからない」と
自信なさそうだったけれど・・・。

私なども、語感がよく分らないまま英語を喋っていて、頓珍漢なことを
沢山言ってきているような気がする・・・。まあ、ご愛敬と、
大目で見てもらうしかないのだけれど。

言葉は生き物だから、世相を反映して時々刻々変化する。
そのあたりも、扱いにくさの理由であり、また面白いところでも
あるのだけれど。

三週間ほど前、電車に乗っていて、車内を流れる某エンターテイメントの
広告を見ていると、こんな言葉が画面に読めた。
「いいもの見せたいママに いいとこ見せたいパパに」

子どもたちをそのショーに連れて行ってあげましょう、という
広告なのだけれど、これはなかなか面白い対句だなあ、と感心した。

「子供たちに良いものを見せてあげたい」これは、文字通りの意味。
でも一方の
「子供たちにいいとこ(ろ)を見せたいパパ」は、かなり意味が
異なってくる。もちろん、「良い場所を見せたい」という意味ではなく、
「お父さんとして誇れる立場を演じたい」という意味である。
私が日本語を学ぶ立場の、異国からの学生だったら、すぐに理解できたかな、
と考えた。こういうことは、教科書には載ってないだろうなあ、
とも思った。言葉は生きている人々から、直に学ばなくては、
とあらためて思った。
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1979年の短歌ブーム [短歌]

「短歌研究8月号」をぱらぱらと読んでいたら(もうだいぶ
前のバックナンバーだよね。月ぎめで購入していると、なかなか
読みこなせないままに次の新刊が届く、という状況。もう、自分の
ペースで読んでいくしかなくて)、「短歌ブーム」という特集が
組まれていて、山田航氏が「1979年謎の短歌ブームを追う」という
紙面四ページ分の文章を寄稿されているのが目に留まった。

雑誌記事に索引検索サービスを利用して調べると、七十年代から
現代までの間、「短歌」というテーマでの検索ヒット数が
突出して多い年があり、それが1979年であるという。この理由を
山田氏は、①『札幌の短歌』という郷土史シリーズの一巻がこの年、
札幌市から刊行されていること ②前年に『明石海人全歌集』が
刊行されたことを契機に、ハンセン病についての関心が高まり、
「愛生」「多磨」「青松」など、患者たちによって編纂されていた
短歌雑誌が注目を浴びたこと を上げ、その後、②の当時の状況に
ついて詳しく展開しておられるのだった。

その文章をざっと読みながら、それだけだったのだろうか?と
多少の疑念が湧いてきたのだった。というのも、この1979年という
年は、私が現代短歌に興味を持ち始めた年でもあり、そのきっかけに
なったことが、山田氏の文章に登場しないことが不思議に思えたのだ。

講談社『昭和万葉集』全20巻は、1979年2月8日に巻6「太平洋戦争の記録」
を発行。一、二カ月おきに「山河慟哭 焦土と民衆」「二、二六事件」・・・
と、翌80年までに全巻刊行されているのである。

私はこの昭和万葉集刊行の広告を、二月上旬の夕刊で知ったことを
覚えている。おそらく、2月7日のものだったのだろう。そこに何首か
引用されていた作品の中に栗木京子さんの観覧車の歌を読み、
現代短歌にめざめることになったのだから。

昭和万葉集は巷でもかなり話題になり、図書館などにも導入されて
当初は借りて読んでいた記憶もある(最終的には全巻購入したのだけれど)。
そのことについて、山田氏は一切触れておられないが、多少の影響は
なかったのかな、と思う。とりあえず、79年の短歌ブームは、単なる
マイブーム、というわけではなかったんだな、と面白く思った。

その後の短歌についてのヒット数は、最新の2021年に至るまで、
減増傾向であるという・・・。ってことは、最近の短歌ブームとは?





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初あめ [食文化]

山形新聞の電子版を読んでいたら、12月6日一面に、
「新年には初あめ 福の味」という見出しつきで、
大なべに麦芽水とグラニュー糖を混ぜ、
飴づくりに勤しむ製菓店の写真が掲載されていた。

私は山形県南西部で育ったが、こういう風習はなかったので
興味深く読んだ。年の初めに口にする「初あめ」という縁起物
文化は、山形県特有のものである、とも記事に書かれているが。

もう三十年近く前に、夕方のニュース番組の中で「飴よばれ」
という風習について報道されていたことを思い出した。確か
福島県の只見町あたりの風習で、冬季に女性たちが麦芽水飴を
手作りして、仲の良い女性たちと集まって、おしゃべりし合う、
といったものだった。雪深い町で、たぶん女正月、のような
のような習慣だったのではないだろうか。

それでもう一つ、秋田県に伝わる「飴市」についても思い出し、
ネットで調べてみると、こちらは大館市で行われる、旧正月の
行事だった。起源は四百年ほども遡り、天正年間に始まった、
というから凄い。正確には「アメッコ市」と称されて、ミズキの
枝に色とりどりの包装紙にくるまれた飴を飾ることでも有名らしい。

その写真を見て、子供の頃、旧正月の市の時に、数十センチほどに
切った木々の枝に色彩のついた麩のようなものを飾り付けて
売っていたことを思い出した。あれは麩ではなく、
小麦粉で作った薄焼きせんべいのようなものだったかもしれない。
友達の家に飾ってあるのを見た記憶があるが、我が家では一度も
購入したことがなく、実体は良く知らないのだが。

山形の初あめの記事から、飴にまつわる東北の文化が次々に
思い出される。寒い東北地方では、冬季の甘味は身体にとって、
いやそれ以上に心にとって、必要な栄養だったのだろうと思うのである。
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リリー・フランキー [藝術]

リリー・フランキーという人物を初めて知ったのは、たぶんTVで
放映され、何となく録画しておいて観た映画で、だったと思う。
何だか胡散臭い、ふにゃふにゃした役柄だったこともあり、
不思議な雰囲気をまとった人だな、という印象を抱いたが。
特に興味がなく(ほんの少しばかりの、嫌悪もあった)映画の
題名も忘れてしまっていた。

その後、彼の自伝的な小説『東京タワー オカンとボクと、
時々オトン』が大ヒットした時は、あの「ふにゃふにゃ」が?
と、大きな違和感を抱いた。
この書名の印象は、どうしたって「三丁目の夕日」的、ノスタルジーだ。
昭和期に田舎から出てきた人間が、東京に抱く、夢と憧れ、その幻想が
たっぷり詰まっているに決まっている。
あの、何か、常識を逸脱したような、人を食ったようなリリーという人物と、
どうしてもイメージが結びつかず、映画化もされて、さらに話題になったが、
全く食指が伸びなかった。のだが・・・。

先日WOWOWの番組表をチェックしていたのだが、見過ぎたせいか、
録画すべき映画がみつからない・・・。そこで、ああ、これ、
ずっと前にヒットしたこのリリーのでもみようか、となった。
リリー・フランキーは、その後見た何本かの映画によって、私の中では
けっこう注目する俳優に、変わってきていたし。

映画の中で、リリーらしき人物を演じるのは、オダギリ・ジョーだ。
片仮名繋がりかよ。オダギリじゃ、いい男過ぎるじゃないか、とも思ったが。

う~ん、見てみて、なかなかの映画だった。
それで、図書館から借りてきて読みました、原作の方も。
こちらもちょっと、リリーさんのイメージを逸脱する、かなり
緻密な文体の小説だった。う~ん、これは嬉しい裏切り。

 東京には、街を歩いていると何度も踏みつけてしまうくらいに、
 自由が落ちている。‥故郷を煩わしく思い、親の監視の目を逃れて、
 その自由という素晴らしいはずのものを求めてやってくるけれど、
 あまりにも簡単に見つかる自由のひとつひとつに拍子抜けして
 それを弄ぶようになる。・・・自らを戒めることのできない者のもつ
 程度の低い自由は、思考と感情を麻痺させて、その者を身体ごと
 道路わきのドブへ導く。
 ・・・自由めかした場所には、本当の自由などない。自由らしき幻想が
 あるだけだ。       リリー・フランキー『東京タワー・・・』

その後、他の本も読んでみようと、書店でぱらぱらと見てみたが・・。
いずれも、最初のリリーさんのイメージが貫徹しているような書ばかり。
購入はやめました。
でも、『東京タワー・・』はやっぱりすごい一冊だったと思う。
ドラマ以上の人生が、あの個性を作り上げていたんだな、と思うのである。
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折々の画家・マネ・続 [藝術]

しばらくの間、マネの画集(『現代世界美術全集1マネ』集英社)を
側において、ことあるごとに眺めていたら、これまで目につかなかった
幾つかが、気になるようになった。

マネは闘牛士がすきだったようで、闘牛士の絵を複数描いているのだが。
たとえば「エスパダの衣装をつけたヴィクトリーヌ」という絵がある。
エスパダとは、剣で闘牛を刺す闘牛士が身に着ける衣装らしい。ヴィクトリーヌは
マネのモデルを務めていた女性なので、これはいかにも、モデルに
それなりの服を着せて、アトリエで描いた、と想像できるのだが。

面白いのは、背景に闘牛場のような場面を描きいれていること。
とはいえ、闘牛士のような男性がまたがろうとしているのは
馬のようだが・・・。それに、主役たる女性との位置関係も
狂っているようで、なんのためにこんな背景を入れたのか、
よくわからない。

ほかに「死せる闘牛士」という絵もある。これは若い闘牛士が、
床にあおむけに横たわっている絵で、右側に頭をこちら向けにし、
左奥に両足を投げ出している姿勢だが、観るたびに目を奪われてしまう。
横たわった角度に対するパースの正確さ。身につけている衣装の、
質感が手にとるように伝わる、その描写の美しさ、つまりは
リアリティに溢れているという点で、素晴らしいと思う。

ただ、この絵の背景は、いかにも室内の、床の上らしく濃茶系の
濃淡で占められていて、闘牛士が亡くなる、その理由であるだろう、
闘牛の場面の空気感からは遮断されているのである。
ここにこそ、闘牛場の臨場感を配するべきだったのでは、と思うのだが。

「闘牛」といういかにも臨場感に満ちた絵もあるが、こちらは
細部が雑な感じで、おそらく実際に闘牛場で見た光景をスケッチして
アトリエで仕上げる、という形をとったものだろうが、なんとも
物足りない感じがするのだ。

マネという画家は室内でこそ、その力を発揮した人なのだろう。
たぶん、「草上の昼餐」も、モデルをアトリエで描写してから
屋外の背景を入れたのではないか、と思えてくる。では、何のために
わざわざ、草の上で食事をする、という場面にしたのか。
奥に描かれた女性(服を着ている)は、何をしているのだろう、
絵の全体からは浮いた感じが否定できない、この女性は・・・。
不思議さは深まり、そのことがさらに
マネという画家に引き付けられる要因ともなる。
厄介なことだ、と思いながら、私はまたマネの画帳を繰ってしまう。
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折々の画家・マネ [藝術]

中学生の頃、学習雑誌を毎月購入していたのだが
(正直、こんな雑誌より、「女学生の友」が読みたかったが
母がどうしても購入を認めてくれなかった)。いやいや手に
取っていた雑誌だったが、唯一楽しみだったのが
世界の名画が印刷された「名画カード」というとじ込み付録が
あったこと。毎月、一枚ずつ、綺麗な多色刷りで印刷された
カードは、特に中二の頃に入るとさらに技術が進んで美しくなり、
私は綺麗に切り取って保管してきた。今も手元にある。

画家・マネもこの付録で知ったのだが、作品は「笛を吹く少年」。
少年の身に着けている服、特にズボンの臙脂色に目を奪われて
居たことを覚えている。

  草上昼餐はるかなりにき若者ら不時着陸の機体のごとく
                葛原妙子『原牛』

葛原のこの歌を始めて目にした時、「ああ、マネのあの絵のことだ」
と気付きつつ、自分の持つマネの画風との間にギャップを感じたことを
覚えている。というか、「草上昼餐」という絵に抱いていた違和感を
短歌によって指摘されたような感じだった。そうだ、マネはあんな
絵も描いていたんだった、とあらためて思ったのである。

画集を開いてみると、マネには人物画が多く、得意としていたことは
よくわかる。でも、裸婦を描いた絵はむしろ少ないのである。
それだから、「草上昼餐」の異様さは際立つ。何しろ、草の上に、
ピクニックのように食べ物を広げ、そのそばで一人の若い女性と、
二人の青年が輪を作るように向き合って腰かけている。男性たちは
きちんとした身なりをしていて、上流階級らしい雰囲気をまとう。
女性だけが、素裸で、ゆったりとした表情をこちらに向けている。
右膝を立て、左膝は草の上に倒しているので、足の裏がこちら向き。

何ともしどけない姿態なのである。でもそれだけに、女性の四肢の
美しさが際立つ。屋外の草上だからこそ、素裸の命の輝きが際立つのだ。

葛原の歌もすごい。草上のピクニックの様相を「不時着陸の機体」
などと比喩するなんて。何かやむを得ぬ事態が起きて、とりあえず
草の上で昼食を済ませることになった、そんな場面に近いものは、
確かに感じられる絵ではあるが。事故を起こした機体は、やむを得ず
一糸もまとわずに食事をすることになった女性から生まれた比喩か。

マネの画集を開くとき、私はいつもこの歌を口ずさんでしまう。
「不時着陸の・・・」そしていつか、この場所は富士山麓かもね、
なんて感覚にも陥る。言葉から絵へ、絵から言葉へ。心はめぐる。
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