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南の島の不思議な話 [旅]

インドネシアを初めて訪れたのは、もう三十年余り前のことになる。
相棒に、農業土木を専攻、大学で教えている友人がいて、彼が全国の
農業土木を専攻する学生・院生に「ジャワ島の土木遺跡を訪ねる」旅への
参加を呼び掛けたことがあり、私達夫婦も参加することになったのだ。

インドネシアは、古くから稲作を農業の中心にしてきて、さらに
火山国でもあるなど、日本に共通点が多い。水利の先進国である
オランダに統治されていた期間が長く、その間に創設された様々の
土木施設が今も残っていて、中には現役で活躍しているものも多い。
それを見学するための旅。ジャカルタから貸し切りバスで、ジャワ島内の
所々で宿泊し、農業土木に関する施設を見学しながら数日掛けて横断していく。

その間を通して付き添ってくれたガイドは二十代後半の陽気な男性で、
来日の経験はないというがなかなか洒脱な日本語を操る。
彼は同世代の学生たちに溶け込み、旅をより楽しいものにしてくれた。
その彼が、最初の夜、バスの中で話してくれたことが忘れられない。
「インドネシアでは、死ぬとお墓に入ります。でも、ある部族の人たちは、
小さな子供が死ぬとお墓に入れず、木の幹の空いているところに、葬ります」

バスのなかが、一瞬しーんとなったことを覚えている。学生達はみな驚いたのだ。
でも、ガイドの男性は、自分の日本語が通じなかった、と思ったのか、
「わかりますか、小さな子供が死ぬと・・・」と繰り返した。

それからは、大きく暗い森を通るたび、そのどこかに挟まっているかもしれない
小さな子供を想像して、ちょっと心が震えた。どうして樹に葬られるのだろう。
とずっと考えることになった。
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あの日のリボン [生活]

遠い南西諸島に暮す同じ「塔」の仲間のYさんが、山形県出身で、
わずか三か月余りだが、私も席を置いたことのある高校の出身者だったという偶然。
彼女がこのブログを覗いてくれたようで、
「若草物語、が出てきました。ああ、岡部さんのお母さん!」と
メールに書いてくださったので、ああ、あのことだな、と思い出した。

2021年2月27日のブログで、母が私の9歳の誕生日祝いに『若草物語』を
贈ってくれて、嬉しかったが、それ以上に戸惑ったことについて書いたのだ。
子供の頃、私が近所のおばさんにピンクのリボンを髪に結んでもらって、大喜びで
帰ったら、母がいきなり背後から髪ごと摑んでむしり取ったこと、それほどに
「少女っぽい」ことを毛嫌いしていた母が、こんな「少女小説」を
買ってくれたことが、とても不思議だった、と。

そのことで、さらに思い出したことがあった。もう二十年位前になるが、
知人が子供の写真を見せてくれたことがあった。「七五三で、娘がこんな
お姫様スタイルがいい、って言うので」写真には、頭にティアラを載せ、
裾の長い、鮮やかな赤のドレス姿の女の子が、笑みを浮かべて写っていたが。

私は思わずのけぞりそうになり、気づかれないようにするのが大変なくらい。
だ、だって、おおよそ似合っていない! まるで滑稽なくらいに!
その女の子は、普通に愛らしい子である。彼女の名誉のためにもこれは
強調しておく。でも、でも、七歳の日本の女の子に、こういうスタイルは、
もう、酷なくらいに似合っていないのである。

その時に、突然、私は、髪のリボンをむしり取った母の心情が
理解できたのである。私もまた、滑稽なほど似合っていなかったから、
母は耐えがたかったのだろうと。毎日、日向を転げまわって、遊んでいた
七、八歳の田舎の子供に、ピンクのリボンはもう、冗談のように、
異質なものだったのだろう。

母を責めることはできない。私はその時に初めてそう思えた。
せめて母には
「こんな綺麗なリボン、おしゃれをするときのために取っておきましょう」
などと諭されて、静かに外してもらえたのだったら、と思う。まあ、
母の性格からして、そういうことは絶対に起きなかっただろうが。
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塔短歌会・九州大会(さらに) [短歌]

九州行きのために予約していた飛行便が、台風襲来にぶち当たり、
空港で数時間待たされ、くたびれ切ってようやくたどり着いた福岡だったが。
実は、こんな不運を一気に吹き飛ばしてくれるような幸運が起きた。

九日(土)に始まった大会は、歌合せの後、文語と口語をテーマとする
対談、鼎談と盛り沢山のプログラムを終えた後、会場を移して親睦会へ。
参加者は百数十名に上るので、広いフロアには、9名くらいずつ座る円卓が
びっしりと置かれ、参加者は各自に振り分けられたアルファベットに従い
指定された卓へ。選者の私だけは指定の席に座り、他の人たちは随意に。

その時、私の右隣に座ったのが初対面のYさんで、御名前に聞き覚えがあり、
私は彼女が遠い南西の島に住んでおられることを覚えていた。その辺りから
話が始まったのだけれども、何と、彼女が山形県出身と聞いて驚き、さらに
さらに、高校は米沢市内、と聞いて驚き「東高? じゃないの。だと、興譲館?」

私は山形県南西部の町で育ち、中学卒業時に父が東京へ転勤。都立の試験に
間に合わなかったため、米沢市の高校へ一学期だけ、一人下宿して通ったの
だけれど、何と、Yさんはその高校の卒業生(私より数歳下)だった!
その高校はもと男子校で、女子は一、二割くらいしか在籍していなかったのに。

それから、限りなく話が弾み、こちらからお願いしてメアドまで交換し、
帰京してからも、色々とお喋りを続けている。あの日、親睦会の円卓が
同じでなかったら、いや、たとえ同じでも一つでも離れた席だったら・・・。
お互いの出自を話し合うような機会は持てなかっただろう、何という偶然!

偶然は実は、さらに続いて起きた。私が今春、五十年ぶりに米沢を訪れる
きっかけを作ってくれた、米沢市在住のK・Yさんについては、このブログでも
書いているが、帰郷してから、この偶然の出会いをメールで知らせたら、
なんと、なんと、彼女の旦那さんが、Yさんと同じ高校で同級だったこと、
そして、彼女のことを良く知っていたことが分かったのである!

このことをYさんに知らせると、彼女の方は、彼を知らないらしかった。
それは男子の方が圧倒的に多かったので、無理ないのだけれど。
なんだかんだいいながら、世の中狭いのか。いや、たぶん、詩歌に
関わる人が少ないから起きる現象ではないだろうか。Yさんの今は亡き
ご主人は詩人だったそうで、その辺りから、K ・Yさんが興味を持たれ・・、
という流れがあったのかもしれず。

ひとときは、とても近い、同じ雪国に生活していた同世代の仲間が、今は
遠い南の島に暮し、趣味を同じくし、毎月の歌誌を通して互いの
心を通わせ合うことができるなんて、何と幸せなことだろう。
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塔短歌会・九州大会(続) [短歌]

三年ぶりに塔短歌会の大会が福岡で行われることになり、私は大事をとって
前日の昼に福岡入りできるように午前11時羽田発のJAL便を予約していた。
ところが、まるで狙い撃ちされたように、その8日の朝、台風13号が、東海地方へ
近づいていて、関東はまるで不透明硝子に囲まれたような、激しい雨、雨。
私は早めに家を出て、出発一時間半ほど前に、空港についていた。
搭乗案内を待っていた、午前11時過ぎ。突然のアナウンスで「使用予定の機体が、
この豪雨に対応できないことがわかり、欠航いたします・・・」

フロアがざあっとざわめいた。私も愕然とする。どうすればいいのか。
これまで、遅延は何度も経験しているが、欠航は初めて。周囲の人たちは、
競うように、出口方向へ歩き出す。私もその流れに従っていくと・・・。
人の波は、一階にある搭乗手続き窓口そばのカウンターへ。そこで
チケットの変更や払い戻し手続きを受け付けていたのだった。

でも、なんとものすごい数の人たちが並び、さらに後から続々と・・・。
私は列の三分の一ほどのところ。四十分ほど待つと、順番が来て、
午後三時五分発の福岡行きに振り替えてもらうことができた。とはいえ、
切符を渡しながら、担当の女性は「まだ、時間通り飛ぶかどうか、
わかりません」とのたまう。

待っている間、すぐに新幹線に切り替えた方がいいのかどうか、考え、
列の前後の人たちともいろいろと話をしてみていた。
「発ちさえすれば早いよね」「新幹線だって、うごくかどうかわからない」
「今からだと、列車に切り替えた人も多くて坐れないかも」

それで、三時の便に運命を託すことに。
とりあえず、ゆっくりと昼食を摂ることにし、その後、書店で
読み易そうな本を選ぶ。その時点で、まだ一時だったので、空港内の
マッサージ店に入るのはどうか、と考えたのだが、お店は二時から、
という張り紙がしてあった。

三時が過ぎたところで、使用する便の到着が遅れている、とアナウンスが
はいる。出発は四時に変更される。搭乗口も変更になり、疲労はピーク。
結局、搭乗案内が出たのは四時を二十分ほども過ぎてからだった。
他の便が次々に発っているので、外はまた篠突く雨だが、風はさほどでなく、
飛ぶことは飛ぶらしい。もうそこに賭けるしかなかった。

福岡に降り立ったとき、六時半をすぎていた。もうくたくたである。
大会は、こういう台風シーズンを、今後は絶対に避けてほしい。
と思いながら、ホテルに向かった。翌日、大会会場で、羽田から
前日の飛行機で来た、という人と複数話をしたが、いずれも一時間程度の
遅れで、福岡入りした、という人ばかり。空港で六時間も待たされたのは、
私の便だけが欠航したからだ、ということがわかった(涙)。
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塔短歌会・九州大会 [短歌]

毎年行われてきた「塔短歌会」の大会。九州大会は、2020年の
はずだったが・・・。コロナ禍に見舞われ、大会は中止に次ぐ中止。
ようやく今年の9月9日~10日に、博多の国際会議場で開催されることに。

台風シーズンで、心配だったけれど、私は選者としてのルーキーイヤーに
当たり、どうしても行きたい、行かざるを得ない、というところ。
ホテルは初春の頃に予約、飛行機にするか新幹線にするか、最後まで
迷った末、六月になって、飛行機と決めて、予約を済ませた、のだが。

なんと、出発の日は、台風13号とばっちりかち合ってしまったのである!
遠くから出かけるということで、一日前の午前11時の羽田発博多行きを
予約していたのだが、とにかく朝から、物凄い雨、雨、雨!
千葉県ではかなりの浸水、土砂崩れ、河川の氾濫があったらしいので、
それに比べれば、飛行機が飛びぶかどうかなど、些事、なのだが。
この時点では何としても博多に辿り着かなければ、と、それだけ思っていた私。
無事、電車も止まらず、羽田につき、搭乗手続きも済ませ、
搭乗口前で、アナウンスを待つだけになったときは、心底、
ホッとしたのでしたが・・・。(この項、続けます)
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モネの睡蓮 [藝術]

九月第一日曜。八月はお休みだったので、二カ月ぶりの横浜歌会に出席。
今回は、フランスのオランジェリー美術館を訪れた時の歌を一首入れた。

  水あかりたどり地下へと降りゆけば揺れさんざめくモネの睡蓮

オランジェリーは良く知られているように、モネの睡蓮を展示するために
建設された美術館である。もちろん、マティスとか他に有名な絵もあるけれど、
さほど大きな美術館ではなく、展示に大きく割かれているのは、モネの睡蓮。

と聞いて、私は期待して出かけたのだったが。
入り口から入って、館内の絵を鑑賞しながら、モネの絵はどこだろう、
と思い続けることになった。フランス語は大学の二国でやったけれど、
もう覚えている単語すら少なく・・・。きっとどこかに表示があるんだろうが、
みつけられない・・・・・。

もしかしたら、どこかほかの美術館に貸し出されているのかな、と
思いそうになった。いや、この美術館の成り立ちを思うと、そういうことは
なさそう。そう思いつつ、あきらめかけて、出口の方へ向かった時。

ふっと、水明かり、のようなものを感じたのである。建物の中に、
水明かりが、入るはずがない、と言われればそれまでなんだけれど。

その水明かりを辿るように左折すると、地下への階段が開いていて、
そこへ何人かの人が降りていくのが見えた。私もその後ろについて降りていく。
すると大きな空間があり、空間を取り囲む壁全体に、モネの睡蓮が、
掛けめぐらされていたのである! 水連は、ようやく見つけた私に、
まるで「ようこそ、いらっしゃい」と挨拶するように、揺れているように
見えた。視界ほぼ360度を占める、モネの睡蓮! ほんとうにさんざめくように
私には見えたのである。

この感じは、写真やテレビの映像などでは分らないと思う。
絵とはもともと平面なのだし、写真はその平面性を強調する。
でも、実際に見ると違うのだ。水を渡る風と共に、睡蓮は呼吸している。

絵を詠むことは難しい。歌会での皆からの批判を聴きながら、
もう少し、詠みかたを考えようと思った。

ところで、オランジェリーとは、仏語でオレンジ、の意味。
この美術館はもと、チェイルリー宮殿にオレンジを供するために建てられた
温室だったそうです。
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はるかなる児童書 [文学]

もう三十年くらいも前の話になる。相棒がいきなり
「『揚子江の少年』っていうお話、知らない?」と
訊いてきた。私は全く聞いたことのない題名だった。
「面白くて、大好きだった。確か、文学全集の中の一冊で」
彼はその後、中国からの留学生たちに尋ねまわっていたが
誰からも「知らない」と言われ、落胆していた。翻訳書だろうし、
作家名を忘れてしまっていては、手掛かりがないのだった。

私たちは知り合った頃から、子供の頃に読んだ物語について話をする、
ということは多かった。例えば私が
「『魔の913号室』って、あったよね?」
と訊いたときは、相棒も知っていて、ストーリーについて
あれこれと批評し合ったこともあるが、図書館で探して再読しようとしても
題名が少し違っているのか、そういう本は見つからない。

インターネットが普及してくると、検索が驚くほど簡単になり。
相棒が探し続けていた『揚子江の少年』については、詳細が判明した。
エリザベス・ルウィスという西洋人が、1933年に著した書で、日本では
講談社の世界文学全集の一冊として、1954年に発刊されていた。
揚子江の上流、重慶市近くに住む貧しい少年が、銅細工師の徒弟となり、
成功していく、というストーリーらしい。

私が子供の頃、確かに読んで、心に残っている小説のなかに、いまだ
作者名や発行先のわからない書がいくつかある。先回のこのブログでも
触れた『鼻ききマーチン』もその一つ。赤い表紙で、確か学研の翻訳書
ばかりを集めた全集の中のひとつだったと記憶するのだけれど。
調べても、みつからない。他にも『鉛筆の秘密』という推理小説も
読んだ記憶があるのだが。

『鉛筆の…』は、主人公(英語が母語だったと思う)が麻薬の密売人を追いかけて、
フランスへ行く、といった話だった。内容はもうほとんど覚えていないのだが、
フランスに来たからには「コニャック」を呑まなければ、とバーに入って
注文しようとするが、なかなか通じない。「コンニャク」みたいな発音で
ようやく通じた、という箇所だけ、覚えているのだった。蒟蒻によく似た名前の
お酒って、どんな味だろう、と思った。小学三年くらいの時のことである。

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