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薬用・鹿の鞭 [食文化]

中国の北部の町、長春で二カ月余り暮していたことがある。
二十余年前のことになるので、もうかなり変わっているとは思うが。
街角に様々の薬用食品を売る店があって、乾燥した蜥蜴とか、
鹿の角、蛇の薬酒漬けなどが並んでいる、不気味な店が多かった。
通りがかりに見るだけで、店内に入ったことはないが。
ああいう店で売られていた品だったのだろうなあ、とその時に
思ったことを覚えている。

これに先立つ数年前。私が体調を崩したとき、相棒が仕事で
知り合った中国の北方出身の人が、私のために薬用食品を
幾つか贈ってくれた。その一つに、「鹿鞭」なるものがあって・・・。

細長く数十センチほどもあるそれを、焼酎に二、三か月漬け込み、
その後、焼酎をお湯割りなどで飲むように、というようなメモが付いていた。
指示通り、広口瓶に焼酎と鹿鞭なるものを漬け込み、二カ月ほどのち、
壜を開けてみると・・・。なんという臭気だろう! それは
これまで嗅いだことのないような、凄まじい悪臭がしたのである。

これを受け取ってきた相棒に問いただすと、なんと「鹿鞭」とは
鹿の陰茎なのだという! 体にいい、って聞いたから・・。と
相棒は言い訳する。とにかくあまりの匂いに、とても口にすること
なんかできない、と言うと
「高価な品ものらしいんだ。でも確かにひどい匂いだ。
処分するしかないよな」

私は生ごみの日を待つのも嫌で、庭に穴を掘って放り込むと、その上に、
やや大きめの石を重しに置いた。この匂いだ、鳥が突つき出す、
ということもないだろう、と思ったのだが。意外な伏兵が身近に居た!

庭で飼っていた我が愛犬である!
何かごそごそと音がするので、庭を見ると、なんと、愛犬が
私の置いた石を払いのけ、前足で必死に土を掻き出しているところだった!
「だめ! こらっ、やめなさい!」とか叫んでしまっていたと思う。

でも、愛犬は私が近づく前に、その鹿鞭を口にくわえ、首をひねって、
空中に投げ上げるようにしたと思うと、あっという間に飲み込んで
しまったのである! ただ、遊びに使うのだ、と思っていた私は、
余りの展開に棒立ちになった。あの酷い匂い、しかも二カ月も焼酎に
漬かっていて、アルコールを含んでいたはず。土にもまみれていたはず。
それを、嬉々として食べてしまった我が犬・・・。

柴犬は猟犬としても使われていた歴史があるのだとか。我が犬は
かつて森をめぐり、鹿を射止めた主人から褒美に鹿のアレを与えられ・・。
そしてそのDNAがしっかりと身に残り、美味であると知っていたのか。
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ペンネーム [言葉]

十日ほど前の日曜日、私が所属する「塔短歌会」の拡大編集会議が
Zoomを使って行われた。一年に二度、二十数名の編集委員が一堂に
会する、今後の「塔」の方向性を決める大切な会議である。

半年ごとに執筆者が交代する選歌欄評の執筆者の選定について
討議していたとき。編集会議は前もって「会議案」がたたき台として
提出されているのだが、ある編集委員から、案として挙がっていた複数の
執筆候補者の中の人に疑問が出された。文章力や批評力、作歌力などについて
質問が出ることはこれまで、少ないながらもあったのだが・・・。

この時の質問は、会員のペンネームに対してだった。
「作者としてなら、この名前でも良いが、批評者としてはどうだろうか?」

ペンネームについては、これまで、あまりにも突飛な名前で登場する会員は、
長く続かない、という事例が多かったので、「よく考えて、決めるように」
という注意を、何かの折に流れていたような記憶がある(さだかでないが)。

名前の問題は、結構根が深いところがある、とあらためて考えさせられる
一件だった。私のような、昭和生まれのものには、名前とはある程度
決まっているものの中から選んで付けられるもの、という固定観念の
ようなものがあり、誰もがその範囲に収まるような名前を持っていた記憶がある。

ペンネームは、戸籍上の名前程に限定はされていないものの、やはり
「人間の名前らしい名前」という、常識のようなものがあった。
それが、戸籍上の命名にいわゆる「きらきらネーム」などと呼ばれるような
自由な命名が流行し始め、もう漢字をみても、読みあげることはできず、耳にしても
漢字に置き換えることができないような名前が巷に溢れ・・・。

それに従って、ペンネームはまさに、自由闊達、天衣無縫、いや、
全くの無法地帯化しているような状況になってしまっている。
偶々、昨日「短歌研究7月号」が届き、新人賞発表号なので、候補者の
名前を挙げてみると

 平安まだら(受賞者) 吉村おもち 有川わさび 
このあたりは、まだ、氏+ややおふざけの名 というところだが、

 いぬなり 大甘 たろりずむ
など、氏と名、という枠組みを取っ払ってしまっている名前も多く。
中には
 「仮定法が好き」 からすまぁ
などというペンネームまであった。これを自由でいいなあ、と感じるか、
ふざけ過ぎ、とまゆを顰めるか・・・。
私自身は、少々厄介な風潮だと思ってしまう方である。せめて、一度そう
自分を称するなら、歌を詠み続ける限り、最後まで通すように、と強く思う。
変えるなよ、その奇体なペンネームを! 
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カレーを作る [食文化]

子供の頃から、カレー料理は好きだった。母の作るカレーは、
いかにも昭和期の味。もったりとしていて、大ぶりの人参やジャガイモ入り。
市販のルーを使うが、子供向きに甘めに仕上がっていて、父が不満そうに
していたことも記憶にある。

私の入学した大学には家政学部があり、家政学部の方にいた友人が
「教職用科目に、調理実習があるけど、一緒に取ろうよ」と誘ってくれた。
土曜日の朝九時からお昼まで、3~4品をグループに分かれて作り、
実習後は履修者全員で味見、批評を兼ねた食事会を行う。

チキンカレーも実習料理に入っていて、私がその後自分で作るように
なったカレーの基本は、ここで学んだものである。
玉葱のみじん切りをオリーブオイルでじっくり炒め、生姜とにんにくの
すりおろしを加えて炒め、カレー粉と塩を混ぜてルーを作る。
これにメインとなるチキンや魚介類を入れ、少しだけ市販のルーを
最後に加えて仕上げる。まあまあ、美味、と思ってきたのだけれど。

インドですばらしくパンチの効いたカレーに出会った時の衝撃が忘れられず。
なんとか再現してみたい、と思っていたのだが。
先日、図書館でスパイシーなカレーのつくり方を説いている本を見つけ。
まずは書かれている通りにやってみることに。

クミンシード、カイエンペッパー、ターメリック。この三つの
スパイスが基本、とのことなので早速探して購入してきた。

クミンシードをサラダ油で炒め(中火)、香りが出てきたところで
玉葱のみじん切りを加え、火を強め、焦げ付きそうになったら、大匙
2~3杯の湯を加え、黄金色になるまで炒める。最初はあまり
かき混ぜずに、焼き目を付ける感覚で・・・。とある。
この行程が一番難しかった。何しろ、これまでは、弱火でじっくり炒める、
という癖がついてきていたので。焦げ付きそうになると、無意識に
火を弱めてしまいそうになる。この強火で五分、湯を加えてさらに三分、
という時間が、とてつもなく長く感じられた。

この後、中火にして(ほっとする)おろした大蒜と生姜を加えて炒め、
火を止めて、ターメリック、カイエンペッパーを加え、塩を加える。
さらに強火にかけて、トマトの粗みじん切りにしたものを加え、5分ほど、
トマトの水分を飛ばすようにして炒め、ルーの出来上がり、となる。

むー、どうかな。味見してみると、どうも玉葱の炒め方が足りない、
という感じがする。焦げ付きが怖くて、強火の時間が短くなってしまったか。
とりあえず、このルーで、今夜はシーフードカレーに仕上げるつもり。
道は遠そうだ。でもインドで食べたあのスパイシーな味、忘れられず。
少しでも近づきたく、再度挑戦してみようと思っている。
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奥の細道 [文学]

先月、半世紀ぶりに糸魚川を尋ねたことはこのブログにも書いた。
糸魚川のみならず、新潟県に足を踏み入れたこと自体、半世紀ぶりだった。
目的地が別で、通過したり、乗り換えしたりしたことはあったのだけれども。

新潟は、芭蕉の『奥の細道』にも登場する地。芭蕉は山形県北西部から
長い海岸線を通って富山の方へ抜けている。長い旅路の後半にあたり、
芭蕉はかなり身体的に疲弊していたらしく、『奥の細道』にはあまり
記述もなく、作品も多くは作られなかったらしいのだが。

久しぶりに新潟の海を眺めていたら、側に立った兄が
「お天気の良い日は、ここから佐渡が見えることもあるんだ」
という。たちまち『奥の細道』の、越後で詠まれた数少ない歌の中の一首

 荒海や佐渡によこたふ天川

を思い出した。波はさほど立っていないものの、曇っていて
水平線もさだかではないが、佐渡の島影が見え、そこに美しく
天の川が差し掛かっている様子を思い描いたのだった。

『「奥の細道」を歩く』(山と渓谷社)には、俳人の山口誓子が
序文的な文章「『奥の細道』の秀句」を寄せていて、そこには秀句として、
三句を選ぶ、とある。その秀句とは

 閑さや岩にしみ入る蝉の声
 五月雨をあつめて早し最上川

の他に、この「荒海や」が挙げられているのだった。誓子が挙げる
秀句の三句は、山形県と新潟県でのみ詠まれた歌、ということになる。
誓子はその理由らしきことについて、この文章に書いていて、なかなか
興味深かった。私自身によりゆかりの深い地で詠まれた作品に秀句が
多いのは、やはりそれなりに感慨深いものがあるからである。

だが、私が三句の秀句を選ぶとすると、少し違ってくるかも、と思う。
「荒海や」と「閑さや」には納得するが、「五月雨を」よりも平泉で
詠まれた

  夏草や兵どもが夢の跡

の方が好きだから。
糸魚川から帰ってから、久しぶりに『奥の細道』を読み返し、素晴らしい句が
沢山あることに驚くと同時に、当時の旅の過酷さを、今さらのように思っている。
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古着を売る [生活]

このところ、断捨離、というほどではないが、洋服類を整理し、
着なくなったまま、クローゼットの肥やしとなっているいくつかを
処分し始めている。よく利用した服は、迷わず捨てるのだけれど。
中にはほとんど袖を通さずに来た服もあり、少々勿体ない気も。

中国の友人が贈ってくれたチャイナ服は素敵だったんだけれど、
日本では着る機会がなく・・・。去年、近くの古着を扱う店に
持ち込んだら、なんとお値段は10円だった(汗)。同時に持ち込んだ、
相棒が着なくなったパーカー(ブランド品だが、セールで格安で購入)は、
少々使用感があったのに100円だった。古着の需要は、ブランド品に
大きく偏っているらしい。ブランドかどうかなんて、あまり気にせずに
気に入った衣服を購入してきただけなんだけれども。

クローゼットには、三十数年前、滞米時に購入した皮のジャンバーも
仕舞いこんだままになっていた。相棒のために購入した牛革製で、
九十ドル余りした記憶がある。今なら一万円、というところだろうが
当時は一ドルが二百円近かった。日本で購入すると、その数倍はしたはず。
相棒は、ほとんど着なかったので、使用感はないのだが、裏地が
少々、経年劣化していた。ちなみにブランドものではない。
お店からは、500円という査定だった。需要はあるのだろう。

同時に持ち込んだ、ブランド品の私のウインドブレーカーは、
使用感があったにもかかわらず、50円という値段がついた。
だが、やはりブランドものだった、Gジャンは、「お値段がつきません」
と返却されたのだった。使用感は薄かったが、特殊なデザインだったせいだろう。
購入時は、ぱっと惹かれて買ったのだけれど、着る場を選ぶタイプの品で、
とうとうほとんど着なかったのだった(反省)。

これからも、もう少し、衣類の整理が必要な私。
古着屋のこれらの対応は、今後の処分法のよい目安にはなる。
自分が服を買う時の目安にもなりそうだ。
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猫、怪談風 [生活]

子供の頃、放課後に捨て猫を拾って帰り、叱られたことが
何度かある。小学校三年生の時、やはりだめだろうと思いながらも
見捨てて置けなくて、持ち帰ったことがあった。十一月下旬のことで
当時住んでいた東北の町では、寒さも厳しくなる頃で、みぞれ交じりの
雨も降っていたことが、よけい見過ごしにできなかったのだ。

案の定、母はヒステリックになり
「元の所へ、返してきなさい!」の一点張り。仕方なく抱きあげて
表に出ると、隣家のAさんの奥さんがちょうど家の外に出てくるのが
見えたのだ。私はこの隣人は、苦手な方だったのだけれど(いつも
不機嫌そうで、小さな息子を叱ってばかりいたから)、もう、藁をも
掴む気持ちで、「おばさん、この猫、飼ってくれない?」とお願いしていた。

Aさんはお相撲さんのように太った女性だった。右手の掌に、まだソフトボール
程の大きさしかない猫を載せ、しげしげと眺めていたが、いきなり、まるで
砲丸投げのように右手を後方へ持っていき、そのまま何も言わずに、
垣根の向こうへ、猫を投げ捨てたのだった。垣根の向こうは、幅数メートルの
砂利道、そしてその向こうに、向かいの家の垣根、向かいの家の庭。

小さな猫はどこまで飛ばされたのだろう。ケガしてしまったのではない
だろうか。私はAさんの無言の暴挙にすっかり縮み上がってしまい、そのまま
家にかえったのだった、猫のその後を確かめることもできずに・・・。

ところで、昭和中期の当時、田舎はほとんどが汲み取り式のトイレだった。
雪国では、11月に入ると、汲み取り業者が来て、トイレの汚物槽を綺麗に
していく。雪が消える四月の下旬まで、汲み取りができないからである。

翌年の四月、例年通り汲み取り業者が訪れた後のこと。学校から帰ると
母が厳しい表情で、こう告げてきた。
「あなたが拾ってきた猫、もとの所へかえしてこなかったのね。
さっき、Aさんが家に見えて、おトイレの汚物槽から子猫が
出て来たって、言いにきたのよ」

私は震え上がった。垣根の向こうまで放り投げられた猫は、Aさんの家に
潜り込み、トイレに落ちてしまった、ということだろうか。
あるいは、捨て身の復讐?
以降、私は捨て猫を拾って帰ることはやめようと、決心したのだけれど。

先月、糸魚川の兄の家を訪れると、猫好きの奥さんが、保護猫を三匹も
飼って世話している様子を見て、子供の頃のあの一件を思い出したのだった。
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塩の道資料館 [旅]

松本清張も訪れたというヒスイ峡を、四十年遅れで訪ねることができた、
糸魚川への旅。でも思いがけないところにも、意外な収穫があったりするもの。

旅の二日目。兄夫婦が糸魚川の渓谷沿いにあるホテルを予約してくれて、
そこに一泊することに決まっていたのだが。途中、兄が、塩の道資料館、という
ところに寄ろう、と提案してきた。午前中にヒスイ峡を回り、食事をした後、
相馬御風の生家を見たり、一度自宅へ戻って、猫の世話(なんと三匹も飼ってる!)
をしたりした後である。もう午後三時を過ぎていた。

それなのに、塩の道資料館、なる建物がなかなか見つからない。
運転のプロである義姉も、スマホのアプリのナビ機能を操作しながら、
「この近くのはずなんだけれど」と、困惑した表情である。
私が食文化に興味がある、ということを知っていて、旅の行程を考えてくれている、
とわかっていたが、なんだか申し訳ない気持ちもして、「わからないなら、
次の機会にしようか」と提案したのだけれど・・。

小さな山沿いの道をくねくねと入っていったところにようやくみつけたのは、
もう四時に近い時間だった(開館時間は、四時までだった!)
そして、建物の前に立った時は、三人で、思わずのけぞった。

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私と義姉とで、唖然としている間に、兄はさっさと建物に入っていき、
入場券を買ってくれている。
「なんか、ドン引きするよね」
と義姉は笑っている。

一歩入るなり、古色蒼然としながら、かつての塩の道を歩いた人々、背負って
歩いた人を歩荷(ぼっか)と言い、牛に背負わせて引いた人を牛方という、
彼らの息遣いまで聞こえるような展示物に、圧倒されたのである。
一人五十キロを運んだ、というその塩俵の模造品もあり、私などは
持ち上げようにも、びくともしない。ニヅンボウと呼ばれる杖は、山道を行くときは
単なる杖だが、先端がL字型になっていて、途中でこれを背中に回し、荷物の下に
挟んで、立ちながら休むための、スタンドになるように作られているのだった。

他にも、運搬に使われたという牛のための道具などが揃っていて、
ガニと呼ばれる、牛の脚を保護するための縄でこしらえた靴状のものなども
あり、とても興味深かった。木造三階建ての、もう傾きかけているようなこの
建物に、塩の道を支えた沢山の道具類が所狭しと並んでいるさまは、壮観、としか
言いようがない。

説明してくれた資料館の女性も、素晴らしかった。もう開館時間を過ぎているというのに
嫌な顔ひとつせず、身振りを交えてじつに丁寧に教えて下さって・・・。

また、たぶん塩の運搬とは直接関係はないと思うのだが、積雪を利用して、
山から海側に物を運ぶのに使ったという、大ぞりは凄い存在感を示して
他を圧倒していた。

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写真下の館員の人は伸長150センチ強。大ぞりの高さは三メートルを優に超えるだろう。
写真からもその迫力は十分に感じて頂けるのではないだろうか。

塩の道は、糸魚川から松本に続く、千国街道と呼ばれるおよそ、百二十キロほどの
行路である。途中は山道もあり、運搬は大変な重労働であったらしい。
一度、自分の脚で歩いて見たいなあ、とも思う。難路ではあるが、白馬沿いの、
景色の美しいところであることには、間違いないらしい。



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山形新幹線 [旅]

朝日新聞は土曜日にBeという紙面が付録的についているが、
このBeには原武史氏による「歴史のダイヤグラム」という連載記事が
掲載されていて、いつも楽しみに読んでいる。本業は政治学である原氏は、
大の鉄道マニア、ということで、あれやこれやと実に詳しく、意外なネタを
次々に繰り出されていて、その懐は無限大のようなのだ。

先々週は「山形に先に到着するには」という題で、東京駅で山形新幹線を
見送った同じ人が、山形駅で、ホームに迎えに出ることができる例、を
紹介していて、驚かされたことだった。東京駅の22番線を7時12分発の
つばさ123号で出発した人を見送った後、21番線の7時16分発の東北新幹線
はやぶさ101号に載り込むと、この列車は宇都宮でつばさを追い越し、
仙台に8時49分に着く。急いで駅前のバス乗り場から8時52分発の山交バスに
乗ると、このバスは9時52分に山形駅前に着き、先のつばさ123号(10時06分着)
を、ゆっくり出迎えることができるのだという。

なんでこんなことになるのか、そのあたりを原氏は、なかなか鋭く
突いておられて、興味深いのだが。要するに、山形新幹線を創設した以上、
存在意義を際立たせるために、やや姑息な手を打っている、ということなのだ。
以前は仙山線を走らせていた特快をなくして、快速に落とし、その本数を
減らしたこともそのひとつ。山形交通が走らせている高速バスは、JRの
事情など関係ないので、この区間をこの速度で走り、山形新幹線を先回り
してみせてくれている、というわけである。

山形で育ち、特別な思い入れもある私には、ちょっと悲しい気持ちに
なるようなJR裏事情だった。

先々月に米沢に半世紀ぶりに訪れたことは、このブログでも何度かに
わたって綴ったのだけれど、山形新幹線はその時に初めて利用した。
これまで、東北新幹線の方は何度か利用していたのだが、山形新幹線が
東北新幹線と福島まで併結して走る、ということを知らなかったので、
東京駅で、東北新幹線の方の車両に乗ってしまった私は、指定席の番号の
車両に行き当たることができず、右往左往したことだった。

山形新幹線の車両は、前方に併結されて走っているらしい、と気付いて
ようやくほっとしたのだけれど。福島までは待ちきれず、途中、
大宮でさっと降りて、山形新幹線の方の車両にうつり、ようやく
指定の席を見つけたときは、心底ほっとした。

でも、間違えて、山形へ行くべき人が仙台へ行ってしまったり、
その逆も多いのだとか。福島が近づくと、
「この車両は、山形新幹線です。福島で切り離します。
仙台方面へお出かけの方は・・・」とアナウンスが入る。

福島からは、山形新幹線は在来線の線路上を走るので、
見違えるほど、速度がのろくなる。これが新幹線!? と
いやになってしまうほど。そして、周囲の景色も、がぜんのどかに
見えてくるのだった。そしてなんとなんと、終点の新庄近くでは単線区間を
はしることもあるのだそうだ。新幹線が単線って、アリか?

そんな経験から、こんな歌ができ、昨日の横浜歌会の詠草として
提出してみた。

  「福島で切り離します」目瞑りて運ばれてゆく寂しい方へ
                      岡部史

横浜歌会には東北出身の人が複数いる。きっと正確に読んでくれる人が
いる、と安心して出したのだけれど。そして、やはり山形市育ちのMさんが
的確に読み、批評してくれて、ほっとしたのだけれど。
現実の山形新幹線を離れ、震災後の福島の孤立性に言及された方や、
どこか遠い未知の世界へと(まさにみちのく、通の奥)運ばれていく心細さなどを
汲み取ってくれた方もいて。
意外なことだったが、それもそれで、とても面白く楽しいことだった。
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万葉翡翠(その4) [旅]

 助教授は引き出しから文庫本の万葉集を出し、その頁を繰って
 開いた。「これだ!」学生たちは教授の抑えた指先に目を集めた。

 渟名(ぬな)川の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて 得し玉かも
 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜しかも
               『万葉集巻十三 3247)』

              松本清張『万葉翡翠』

清張の『万葉翡翠』が最初に発表されたのは1961年(「婦人公論」2月号)で、
清張はその小説の執筆時には小滝川のヒスイ峡を訪れてはいなかったとのこと。
来訪が叶ったのは1983年に企画されたNHKの番組「知られざる古代 日本海五千年」の
収録のため、ということだった。清張の小説、さらには糸魚川来訪が、
この地のヒスイに新たな局面を切り開く大きなきっかけとなったことは
間違いないだろう。

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写真はその時に撮影された写真を掲載した新潟日報の記事(2022年12月13日付)
私もまた、ようやく清張が見た視野に立てたのだな、という感慨が湧いた。
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