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米沢・半世紀(その4) [旅]

思いがけなく、高校生の一学期だけ暮していた町、米沢を
半世紀ぶりに訪れることのできた私。見ず知らずの私にその
機会を与えてくれた米沢在住のYさんは、私がかつて下宿していた
場所へも案内してくれた。記憶はあいまいなのだけれど、当時の
大家さん宅に同年代の女の子がいて、上京してからも何度か手紙の
やり取りをしたことがあったことから、住所を覚えていた。

下宿屋さん宅は、小さな町工場を経営していて、その工場の横と
工場上に、七、八個ほどの個室を設け、市内の大学生や、家が遠くて通学は
できない高校生に、賄付きで貸していたのである。

父の転勤が急だったことと、最初から短期の入居とわかっていたため、
下宿には最低の生活用品しか持ち込まなかった。カーテンさえなく、
建物の一番東端にあった私の部屋には朝日がもろに差し込んで、
嫌でも早く起きなければならなかった。洗濯機も掃除機もなく、
食堂に置かれたテレビも、自由に見れるという雰囲気ではなく・・・。

思い返せば、実に不便な三か月だったわけだけれど。
それでも何か、ふわふわとして自由だったことを、ちょっと
甘酸っぱい気持ちで思い出しながら、かつての下宿近くを
散策した。Yさんと、翌日にはYさんの友人のKさんも加わって、
かつての下宿が残っていないか、今はどうなっているか、探したが、
結局、見つけることはできなかった。番地が飛んでいて、その
近所で尋ねてみても、下宿の大家さんの名前を知っている人にさえ
出会えなかったのである。半世紀って、たとえ小さな町の一角でも
これだけ変わってしまえる時間なんだ、とあらためて思った。

下宿の窓の下を流れていた川だけが、その頃と同じように流れ、
ちょっとほっとすることもできたのだけれど。

懐かしかったのは、西米沢駅。米沢は古い城下町で、鉄道敷設の
計画が起きた時、町なかを通すことに反対する人たちが多かったらしい。
結局、中心部を迂回するように、米沢、南米沢、西米沢の三つの
駅ができることになった。私が通学した興譲館高校は、西米沢が最寄り駅。
とはいえ、駅周囲には何もなく、真直ぐに続く田んぼの中の一本道を
せっせと二十分以上歩いてようやく着く。今は田は一面もなく住宅が
みっしりと建っているさまに驚いた。もうこの道にあの日の面影はない。

両親と妹が先に東京へ転出してしまっている私を、一緒に高校に進学した
小国町の友人たちが、週末に自宅に呼んで、泊めてくれたことが何度かあった。
その時、せっせとこの道を歩いて往来したことがとても懐かしく思い出された。
西駅のまわりは相変わらず何もなく、桜の木が二、三本、立つのみ。
涙が出るほど懐かしかった。米坂線は昨夏の豪雨により、運休したまま。
錆びの浮く、静かな単線を見ながら、涙が出そうだった。
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米沢・半世紀(その3) [旅]

米沢駅に出迎えてくれていたYさんの車で、昼食を摂るために
案内されたのは、よそから来たものには絶対に見つけられないような、
まさに「隠れ家」的な郷土料理店。私が米沢の郷土食に興味を持って
いたことを知って、手配してくれていたのだった。古い民家をそのまま
利用したお店で、中庭には鯉が泳ぐ池も見える。

席は囲炉裏のそば。寒い日だったので、そのぬくもりが有難く。
囲炉裏の火で焼いたお餅が最初に登場するのにもびっくり。
茄子のもろみ添え、辛子醤油で食べるおかひじきや、こしあぶらも
抜群の美味しさだった。さらにうこぎ! 米沢で、垣根に植栽する
うこぎの若芽を食用する、ということを知ったのは、何年か前に観た
テレビ番組「秘密の県民ショー」でのこと。米沢に暮していたのに、
こういう食べ物、全く知らなかったなあ、と感慨深い。
うこぎご飯は、加減抜群の塩味。やわらかい苦みが舌に心地よい。

米沢は貧しい町だったが、名君・上杉鷹山の登場で、様々な
産業の振興が図られてきたことでしられている。米織や鯉の養殖などが
有名だけれど、うこぎの植栽・食用化などもその一つと知ると、この
名君の、民衆の生活の細やかな部分への配慮が感じられて、感動する。

Yさんにはその後、米沢市の「織」や「染」「縫」に触れることのできる
場所へ案内してくれた。米沢民芸館は、古い民家の中に古代の様々な織物が
展示してあって、その素材の多様さに驚かされた。楮、葛、麻、からむし、
いらくさ、などなど。榀の布、というものもあって、あらゆる植物が
衣料への利用を試みられた結果なんだろう。こうした蓄積が、後の米織
への道を拓いたんだなあ、とあらためて思った。

次いで、近所の遠藤きよ子さんの工房へ移る。遠藤さんは米沢に伝わる刺し子の
名手として世界的にも知られている、八十代半ばの女性。米沢の刺し子は
原方刺し子と呼ばれ、上杉藩の下級武士の妻たちが、布を繋ぎ合わせ、
丈夫にするために施したのが始まりらしい。こうした手仕事は、たとえば、
アメリカ南部辺りに伝わる、キルトにも通じるものがあって、面白い。
キルトもまた、古くなった布地の傷みの少ない部分を切り取って接ぎ合せて
作る、いわゆる再利用の文化が発端なのだから。       (続きます)
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米沢・半世紀(その2) [旅]

見ず知らずの女性、米沢市在住のYさん。頂いたお手紙にお礼の
葉書(こちらのメアドを記した)を出すと、すぐにメールがあり。
それから短期間に、電話やらメールや手紙のやり取りをし、四月中旬に
米沢で二泊する計画を立ててしまったのだ。あれこれと先の細かいことを
思い悩み、なかなか行動が伴わないことも多い私にしては、異例の
決断となった。米沢以外にどこを訪れるか、の方はかなり悩んだのだが。

子供の頃に育った小国町へも足を運びたい。ただ、昨年七月の羽越災害で
米坂線は大きな被害を受け、以来運休が続いている。代行バスが出ている
はずなのだが、我が家の近くのJR駅の券売機では、小国町までの切符は
買えなかった。臨時バスの運行が不確か、ということだろうか。

小国町には、頻繁に連絡を取り合っている幼友達がいる。メールすれば
いつも半日足らずのうちに返信をくれていた。のだが・・・。
年明けてからというもの、まったく連絡がない。この度、あらためて
メールしてみたが、返事がなかった。米坂線も走っていないなら、
小国町にいくのはやめよう。直前になってそう決断する。

米沢興譲館高校を転校のために退学してから、なんと五十五年。
半世紀ぶりの米沢を見る、ということを主目的にしよう、と決めた。

米沢へ発つ日。少し早めに起きて、早めにタクシー会社へ電話する。
ところが、なんと十五分待っても、タクシーが来ない。普段なら五分、
おそくても十分で着くのが普通なのに。このままではYさんと約束していた、
米沢にお昼過ぎに着く山形新幹線に間に合わなくなる!
ぎりぎりになって、歩いて駅へ出る決断をする。なんとも不穏な出だし
だった。それからも、あれこれとハプニングが続き・・・。
思えば、このコロナ禍の三年間、旅行したのは、東海道新幹線を使っての
京都(「塔」のシンポジウムと編集会議のため)と名古屋(やはり「塔」の
社団法人の会に出席のため)の三度だけ。我家から新横浜はすぐなので、
その便利さに慣れていて、これらは、旅のうちに入らないくらい楽ちんだった。

それ以外の場所に行くことなく過ごしている間に、どうも旅の感覚が
なまってしまっていたようだ。加えて、あちこちにあった有人の切符売り場が
閉鎖されていて、いたるところ自販機のみとなっている(我が家の最寄り駅も)。
その上、駅員や乗務員の数も極端に減っていて、実に不便になっていた。
何とか無事、米沢駅でYさんに会えた時は、心底ほっとしたのだった。
                     (この項、続けます)
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米沢・半世紀 [旅]

先月のある日、見知らぬ人から一通の封書が届いた。
住所は米沢市になっていて、私が昨年刊行した歌集『海の琥珀』を
市立図書館で目にし、私が米沢市に縁のあることを知って
お手紙をくださったのだった。

 幾万の白蛾湧き立ち乱舞するさまを見よとぞ夜半の地吹雪
 馬橇の轍が月に輝けり故郷とは美しき寂寥なりし
                岡部史『海の琥珀』

などの歌が引いてあった。差出人のYさんは、私より三才年下で
短歌などの短詩形に手を染めておられる方らしい、のだが。
文章は実に軽快だった。
「寂寥の今に足を運ばれる折は・・・山菜の天ぷらでもつつきませんか」

とにかく自分の歌集に目を通していただけたことが嬉しくて、お礼の
葉書をだした。ちょうど、今年で「塔」入会四十年になる私は、「塔」の
特集「豊穣祭」に新作七首とエッセイ、そして近影を掲載するために
写真を撮ってもらったところ。思い立って、米沢の名品、笹野一刀彫の
「おたかポッポ」と共に写したところだったのだ。何という偶然。

この笹野一刀彫の鷹は、高さが六十センチ以上ある大きなもの。
中学卒業時、父が山形から東京へと転勤になり、都立高の受験に間に
合わなかったため、私は一学期だけ、下宿して米沢興譲館高校に在籍した。
転校するとき、同級生たちが記念に送ってくれたのがこの置物だった。

懐かしい。これを機会に、米沢に行ってみようか。心が騒いだ。
Yさんには、きっと暖かく迎えてもらえる、そんな予感がした。
                   (この項続けます)
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地域差・性差 [言葉]

朝日新聞土曜版「be」には、毎週「いわせてもらお」という
読者投稿欄がある。日常のちょっとしたユーモラスな出来事を
読者が拾い上げて、七、八十字ほどにまとめた文章が、毎週
五人分くらいずつ掲載される。昨土曜日は、洗濯したはずの自分の
パンツが見当たらないと気づいた五十代の母親、帰宅した高校生の
息子に「体操着の長袖に詰まっていた」と渡されて、おたおたする話。

どれも面白くて、毎週楽しみなのだが、ある時、投稿者のほとんどが
西日本に偏っているのに気がついた。昨日も、大阪府、東京都、
大阪府、香川県、京都府、だった。北海道とか東北からの投稿を
ほとんど見たことがない。北陸も滅多に登場しないのだった。
北の地方の人は、ユーモア感覚に欠けるのだろうか。真面目だもんな。

新聞の歌壇や俳壇となると、俄然東北地方の人も増えるので、購読者が
偏っているわけではないだろう。ちなみにこうした文芸欄への投稿者に
男女の差も少なさそうである。唯一の例外は川柳欄だろう。
こちらは圧倒的に男性が多いのである。世の中をチクリ、と皮肉るのは
女性よりも男性の方がうまいんだろうか。

ところがところが・・・。先週金曜日の川柳の欄は、なんと、名前から
見る限り、全員が女性で占められていた。あれれ、女性限定の日?
とあらためて見るが、そういう規定はどこにも書いていない。
どうしたんだろう、と不思議に思っていると、翌日の川柳欄に

  選者どの どうかされたか みな女性  岩井三彌子

という一句が目に留まった。みんな、驚いたんだね。
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故郷の熊 [生活]

私は「塔短歌会」に入会して、今年で四十年になるのだけれど、
私より先に「塔」に入会していて一昨年第一歌集を出されたSさんから、
歌集評を頼まれたのは昨年のこと。
その折にSさんの娘婿さんが、私の生まれた山形県小国町の出身であると
聞かされた。あまりの偶然に驚いたのだが、同様に驚かされたのが、
その娘婿さんの祖父に当たる方が、「マタギ」だった、と話されたこと。

子供の頃、自分の住む町に熊がいて、マタギもまた存在したということを
私は知らなかったのである。小国町は周囲を深い山に囲まれた小さな盆地の
なかにあり、たとえそれらの山中に熊が多数生息していたとしても、
町なかに出没するようなことは決してなかったからだろう。

購読している山形新聞電子版の二日ほど前の三面記事に
驚くべき記事が載っていた。小国町では生息する熊に対処するため、
「個体調整」を行っている、という事実にまず驚愕し、さらに
その作業の最中に、誤って作業者の一人がもう一人の脚をライフルで
撃ってしまい、重傷を負わせた、という記事内容にも震え上がった。

グーグルで見てみると、小国町周辺の道路整備が進み、キャンプ場や
宿泊施設ができて居て、私が暮らしていた頃の素朴な山村では
なくなっているようなのである。これでは、人間が熊と遭遇して
しまう機会が格段に増えてしまうだろう。

町の人口は減り続け、こうした観光施設の稼働率もかなり
下がっているのではないだろうか。でも、町の経済のために
町外からの観光客を誘致することは大切なことだと理解はできる。
でも、でも・・・。昔の素朴な思い出を抱えてしまっている者には
なんとも複雑な故里事情である。

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カタクリの花 [言葉]

私の住む東京多摩近郊には、つい三、四十年位前まで
カタクリの自生する野辺があったそうである。自然をこよなく
愛する私の義弟が、保護活動を行っていると聞いていたが、
その後、やはり保護地区ができ、その地区内でのみの自生が
確認されるのみとなったらしい。宅地化が急速に進んだからだろう。

カタクリは、万葉集にも登場する古来からある植物なのだが、
古名を堅香子(カタカゴ)という。

  もののふの八十乙女らがくみまがふ寺井の上の堅香子の花
                 大伴家持(巻19-4143)

家持が越中守として赴任していた国府庁(現在の富山県高岡市)
近くの赤坂谷の泉のほとりで詠まれたとされている歌。
この頃は、きっと美しい紫色のカタクリの花が、蝶のように
花びらを震わせながら、群れをなして咲いていたことだろう。
水を汲む乙女たちに、カタクリの花の群れをダブらせているところが、
ちょっと、無理があるかな、とも思えるのだが。これも短歌的誇張?

ところで、現在はすっかりカタクリ、の呼び名に切り替わっている
かつてのカタカゴ。先日いつものように山形新聞電子版を読んでいたら
今も「カタカゴ」と呼んでいる地域があるとのコラムが目に留まった。
ああ、なんとなんと、私が子供の頃に暮していた山形県南西部の
小国町! でした。ええ、そうなのかあ、と驚く。山形新聞の記者が
驚いて記しているのだから、おそらく山形県内でもこの古名を用いて
いる地域はほとんどない、ということだろう。

子供の頃、そのカタカゴの花を見た事はなかった。その名も知らず
暮してきた。なんとも、もったいないことだった。

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フェルメールの黄 [藝術]

フェルメールの絵は、2012年に渋谷で開かれていた
「フェルメールからのラブレター展」と題された美術展で
かなりまとまった作品群(といってもこの画家の確認されている作品が
全部で30点と、多くはないのだが)を観た記憶がある。その多くはない
彼の作品に「手紙」をテーマにしたものが複数あることから名付けられた
美術展なのだった。手紙を書いている女性がこちらに顔を向けている
「手紙を書く女」では、鮮やかな黄色の上着をまとった若い女性が
描かれている。全体が褐色系にまとめられた色調の中で、浮き上がるような
その黄色は実に鮮やかだった。

絵の中央に横向きに立ったまま手紙を読む女性が描かれた
「手紙を読む青衣の女」という作品もある。こちらは奥の壁にやや
大きめの絵がかかっているが、絵の色調はくすんだ黄土色である。
絵の中の女性はふっくらとしたお腹をしていて、妊娠中なのだろう。
こちらは、美しい明るい青の上着が印象的である。

 絵の中にかかりいる絵もフェルメールの手に違いなし右上を占む
                  永田淳『光の鱗』
そうなのだろう。で、よく見たい、と思うのだけれど、やはりここは
あくまでわき役、何が描かれているのか、よくわからなかったことを
覚えている。ただ、フェルメールは青と黄色が好きなんだろうなあ、
と何より色彩の美しさが強く心に残った。

青といえば、何といっても「青いターバンの少女」あるいは
「真珠の耳飾りの少女」と名付けられた絵が有名である。
「フェルメールからの・・」の美術展には含まれていなかったこの絵、
どこかで実物を見た記憶があるが、いつどこでだったか、全く思い出せない。
ただ、想像していたよりもかなり小さな絵だったこと、
何か訴えかけるような少女の表情が魅力的で
なかなか絵の前を立ち去れなかったことを覚えているのである。

ターバンの青は、まさに「フェルメールの青」で雑味のない爽やかな
初夏の青空のような、透き通るような美しさだった。この絵具は、ラピスラズリを
砕いて作られているらしい。あの光沢は、鉱石の持つ涼やかさだったのかと納得する。

さて、その少女がまとうターバンは頭を水平に覆っている部分と、
その横から垂れ下がる部分から成っていて、垂れのぶぶんはくすんだ
黄土色をしている。これはどのような絵具からできた色か、
私はこれまで、つきつめて考えることはなかったのだけれど。
多分何か岩石、あるいは土中の成分から、と漠然と思い描いていた。

ところが先月、購読している電子版の山形新聞を読んでいて、
このターバンの黄色について言及している記事に出会い、度肝を
抜かれた。この黄色はインディアンイエローと呼ばれているのだが、
牝牛にマンゴーの葉だけを与え、その排尿から作るのだとか。
葉だけ食べさせられた牝牛は、当然ながら栄養不良で死に至る。

凄まじい過程から生まれた色彩と知って、胸が詰まった。
この時代の芸術は、惜しみない犠牲のうちになされたもの、
という実感が湧いてくる。激しい階級格差があって、一握りの
富裕層から生まれた画家、あるいはその才能を見込まれた者が、
ごく一部の富裕層のなかからパトロンを得て、作品を世に残したのだ。
幾頭もの牛もまた、その犠牲となっていた・・・・。
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二つの歌会から [短歌]

一年に二度、大学の同窓会館で開かれる歌会に参加している。
同窓会の愛称を使って「桜楓歌会」と呼んでいるのだけれど、参加者は
毎回十数人。長く歌を詠んできて、歌壇ですでに名を成している人もいれば、
やや暇つぶし的にやってくる人もいる。それで作品の質にかなりの凹凸がある。
でも、批評の質は高い。歌の出来はあまりよくないと思われる人が
かなり的を射た発言をするので、驚かされることは多いのだった。

その欧風歌会、つい先日の三月の下旬に行われたのだが、冒頭、
歌会の発起人であるI・Kさんが、「せっかく集まるので、誰もが出席して
良かった」と思えるような、何か一つでも収穫があった、と思えるような
会にしましょう」と発言された。そのためには、各自が提出してくる
作品に、真摯に向き合い、適切な言葉で鑑賞・批評しなければ、と思った。
この日の「桜楓歌会」は、やはり、作品の質はやや低め、でも批評は
素晴らしく面白い会になった。両立は難しいのでした。

さて、例月の「塔」会員による横浜歌会の方は、第一日曜日なので、
ほんの三日前に行われたのだが。こちらは歌のレベルも批評のレベルも
なかなか高くて、四時間弱の歌会の時間は、気の抜けない真剣勝負になる。

詠草用紙が配られて、読んで選歌するための時間は毎回二十分弱である。
当日の参加者は十四人だったので、詠草には二十八首が並んだ。
一首につき使える時間は平均で数十秒、ということになる。これは
良く考えると、驚異的なことだ。でも、みんな文句も言わず、時間内に
選歌し、当てられれば適切に選歌した理由を述べるのだから、凄い。

恐いのは、ざっと読んだ時に、その歌の真意を摑めず、素通りして
しまうことである。特に作者が力を入れて、新しい表現に切り込もう、
としているとき、その作者の意欲をそぐような、頓珍漢な意見を
吐いてしまう、ということは往々にしてありそうだ。私も以前、
都心で行われていたある歌会に、遠路時間を取って参加しながら、
参加者の批評力があまりにも低くて、バカげた質問や批判、さらに
歌の批評と言えないようなお喋りをされてから、全く足が遠のいたことがあった。

私が参加している横浜歌会にも、途中ぷっつりと参加されなくなった
方もいて、そういう方は、私と同様の経験をされているのかもしれない、
と思うと、何やら背筋が寒くなる。
今回は、そういう点でヒヤリとさせられることがあった。

ある方の作品で、おそらく車の中で行く先を指示しているらしい
会話風の表現があったあと、やっぱり自分は帰るのだ、との
一種の心情吐露が、下の句で述べられる、というものだったが。

短歌は短いので、主語も補語もない上の句は、誰が誰に言っているのか、
どういう場面なのか、が読み取りにくい。私は上の句から下の句への流れを
うまく掴めないままで、選歌には至らなかった。当日の参加者のほとんどが
そうだったように思える。ところが、一人Mさんだけがこの歌に票を入れ、
じつに適切に歌に込められた心情を掬い上げて見せてくれたのである。

主体がどこかから自宅へ帰るとき、おそらくタクシーの運転手に
「その先を〇〇へ」と指示している。それが上の句。下の句では
そう告げた以上、やっぱり自分はいつものところへ帰るんだ、と
自己確認している。でも、かすかな葛藤があるんだと思う。新しい場所、
あるいはどこか遠い場所へ行けたら、行きたい、ってそういう思いもあるんだ、
って、その微妙な心の揺れが出ている、と思って選びました。

歌会の仲間に、こういう繊細な読みをしてくれる人がいて、本当に
よかった、と思えた。短い時間に選歌し、すぐに批評に入る、という
やり方の危ないところを改めて感じさせられた歌会になったのだった。
帰り道、この歌の作者と一緒になった時、
「Mさんがきちんと読んでくれてたんだよね」
というと、彼女は満面の笑みを浮かべてうなづいていた。
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『82年生まれ…』 [文学]

一年に三度、家から一時間ほどかかる大きな病院に通院している。
いつも混むので早めに出かけるのだが、先日は交通の便もよく
早めに着いた。少し早めでも受付の人によってはすっと通して
くれる場合もあるのだが、この日は「11時の予約ですよね、
5分前に来て下さい」と突っ返されてしまった。とほほ・・・。

それで一時間近く時間が空いてしまったので、院内の書店へ行き、
あれこれと眺めていると、文庫本の棚に『82年生まれ、キム・ジョン』
(齋藤真理子訳)を見つけた。少し前に評判になっていて、注目しては
いたのだが、まだ読んでいなかった。それが最近、文庫化されたらしい。

早速購入して、待合室で読み始める。一才の娘を育てている33歳の
女性、キム・ジオンが主人公なのだが。この名前、日本で言えば
鈴木良子さん、みたいな感じで(かなり昭和っぽいが)、ごく普通の
どこにでもいる女性の名らしい。彼女が何やら幽体離脱、みたいな
喋り方をするようになって、夫を驚かせるところから話は始まる。

そして韓国の女性たちの置かれてきた立場がいかに悲惨で、屈辱的な
ものであったのか、が、具体的なエピソードと共にじょじょに
語られ始める。私は1987年2月から4月上旬にかけての二カ月、
韓国に住んでいたことがあるので、日本同様、いやそれ以上に
酷い男尊女卑の状況を見聞きしてはいたのだけれど。
日本の女性に比べて、韓国女性たちは気性が強くて、
周囲の抑圧に唯々諾々と従っている、という感じはしなかったのだが。

驚いたのは90年代に入ってまでもまだ、女児を懐妊したと知ると、
堕胎せざるを得ないような、家族からの圧迫があったということ。
実際、九十年代前半には、特に三番目の子どもの男女比は、
男児が女児の二倍以上だったのだそうだ。女児の出生が抑えられて
いたのだから、現在の韓国で出生率が1未満という驚異的な数値に
なっていたとしても、当然の話ではないか。

検査を挟んで、すぐにまた読み進め、一気に読んでしまったのだが、
色々と考えさせられる、ずしりと重い内容の書だった。

その夜、何となくかけたラジオのNHK第二放送で。「文学の世界」
という番組が流れ、テーマは「弱さから読み解く韓国現代文学」だった。
「あれれ・・」と思う間にこの『82年生まれ・・・」にも触れながら、
話をしているのは、翻訳家の小山内園子氏だった。『82年生まれ・・」の
作者チョ・ナムジュの作品『彼女の名前は』などを翻訳している人である。
ちょっとした偶然に驚きながら、社会的弱者よる韓国の現代文学の実情に
聴き入った。ここでは「弱さ」が積極的に肯定されているようなところが
ちょっと、気になったのだけれど。
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