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ハローウィンと変身願望 [生活]

ハローウイン間近のソウルで、痛ましい事故が起きてしまった。
狭い通りで立ったまま圧死してしまうほどの人出だったとは。
ハローウインはアイルランドに起原を持つお祭りらしいが、
お祭り好き、仮装好きのアメリカ人たちが現在のような形に
定着させるに至ったようだ。それでも、家族や学校、職場など
狭い範囲で集まり、楽しむのが普通で、町に繰り出して大騒ぎする、
なんていうのは日本だけ、と思っていたら韓国もそうだったのか。

人は潜在的に変身願望を抱いているもので、一日だけでも、全くの
別人に生まれ変れるのなら、試してみたい、さらにその姿を多くの人に見て
もらえるのなら、その機会を是非利用したい、と思うもの。
特に若かったらその願望は強まるに違いない。こういう場が
日本や韓国にあると知って、世界中から人が集まるのも無理ない
ことのように思える。その場が不特定多数の人たちが自由に行き交う
町なかであることも、大きな魅力なのだろう。
問題はあまりにも狭い地区に、一時的に人が集中してしまったこと、
そして、危機意識が余りにも薄過ぎたことなどの方ではないか。

実は私も一度だけ、人前で「変身」を試みたことがある。
三十年前のことなので、今よりは若かったのだけれど、十代、二十代、
というわけではありませんな(モゴモゴ)。『魔女図鑑』(金の星社)という
絵本の翻訳を担当したのだが、その絵本が北海道の剣淵町が主催する
「絵本の里大賞」を受賞したので、授賞式への招待状が舞い込んだ。

授賞式では記念の講演もしてほしいと頼まれ、「翻訳苦労話」なら
えんえんとできる自信はあったが、そんな話では面白くないはず。
魔女の話をしよう、そして自分は魔女に扮装して出ることにしよう、
と決めた。服は真っ黒のワンピースがいい、黒い魔女風の帽子も
かぶろう、足元は黒いブーツ・・・。

黒のワンピースは当時の私には高価すぎる服しか見つからず、
結局、自分で縫った! 帽子もとんがり帽子がみつからず、やや大きめの
つばのついた黒い帽子にした(残念だった。今なら幾らでもあるのに)。

完璧さを欠いた、ほんの短い時間の変装だったけれど、超楽しかった。
魔女の話も、会場の人たちに楽しんでもらえた、と思う。
あの時のワクワク感を覚えているから、若い人の一時の「はめはずし」には
できるだけ寛容な社会であってほしい、と思うのである。
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折々の絵本・ぐりとぐら [文学]

絵本の翻訳の仕事に取り掛かり始めた三十年ほど前、絵本の言葉について
知りたくて、ずいぶんたくさんの絵本を手にとったみた。『ぐりとぐら』も
その一冊。評判の絵本とは知っていたが、それまでじっくりと読んだことはなく。

先ず、絵のざっくり感に驚いたことを覚えている。
主人公はネズミ、と知っていたが、よくよく見ると(見ても、というべきか)
ネズミとは見えない。リスのようでも、ウサギとも、ちょっと変わった人間、
みたいにも見える。絵の背景はほとんど描かれず、所々に木が立っているだけだが、
その木も、まるで記号みたいに簡略化されていて・・・。
読んでみる前に、その大胆さには、脱力感さえ覚えたことだった。

今はこのラインが良いのだな、と思える。子供には形が捉えやすく、
物語世界に入り込みやすいのだ。

さて、この絵本の言葉、の方だが。

 「さあ、たまごをわるぞ!」
 ぐりはげんこつでたまごを たたきました。
 「お、いたい! なんて かたいんだろう」
 ぐりはなみだを ながして とびあがりました。
 「いしで たたいてごらんよ」
 と、ぐらが いいました。

ぐりとぐらは、こんな風に、お互いにアイディアを
出しながら、二人力を合わせて、大きなカステラを焼くのである。
食べ物のお話であることも、子供を引き付ける大きな要素に
なっている。飛び切り大きくて、みんなで分け合って食べる、という
ところも。

シンプルな線で描かれた『ぐりとぐら』だが、ところどころに
用いられている色彩は、とても温かみがあって、優しい雰囲気を
醸し出している。絵を担当された大森(山脇)百合子さんの
お人柄が現れているのだろう。

最初はびっくりした絵本だったけれど、手元に置いて何度も
見ているうちに大好きな絵本の一冊になった。初見で飛びついても
見ているうちに飽きてしまう絵本も多いのに、これは素晴らしいこと。

文章を担当された中川李枝子さんと百合子さんは姉妹だった。
お二人の年齢差は六歳で、中川さんが挿絵を依頼した時、
百合子さんはまだ高校生で美術部に所属していたのだそうだ。
どんな気持ちで承諾したのかな、とか考えると楽しくなるのだが
百合子さんは最近、病気で長逝されてしまった。
また、ぐりとぐらを取り出して、このホンワカした世界に
しばらくぼんやりと座り込んでいる。こんなやり方じゃ、
大きなカステラなんか作れないんじゃないの、とか突っ込みながら。
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「塔」百葉集・続 [短歌]

ちょっと事情があって、出かけることも、少々時間のかかりそうなこと
などにも、取り組めないでいる。とめどなく、時間が細切れになる。
その細切れを使い、相棒に頼み込んで「塔」の百葉集を一緒に
読んでいる。一度に十首ずつ。毎月の百葉集の半分、
十首にかける時間は、だいたい十数分程度である。

 強風に裏返る傘なんと言う江戸は御猪口で浪花は松茸
                  加藤紀「塔 2022年2月号」

裏返った傘を、大阪では「松茸」と呼ぶとは! 初めて知った。
大阪で少年時代を過ごした相棒は、途端に元気づいて、そうなんだ、
大阪では松茸なんだよ~。と得意そうだ。
「ええ、何で!? 松茸ってったら、高級品じゃん!」
「大阪じゃ、松茸なんて、シイタケとおんなじ程度の茸だったんだ」
「ええ~っ」
「シイタケの栽培ができるようになったのはそんな昔じゃないし。
産地は、九州のほうだしね。東京は何で、お猪口なんだろう?」
「ふうむ。お猪口みたいに見えるのかな?」
「山形じゃ、どう言ったの? やっぱりお猪口?」
「・・・・? え~と、え~っと・・・。
あれ、思い出せない。お猪口じゃなかったことは確か。だって、
私が東京に来た時、傘が〇〇になった、と言って笑われたことを
覚えているもの。共通語じゃなかったのか、と思ったんだから」

(後で、ネットで調べて「傘がキノコになる」と言っていたことを
思い出した。ふ~む、松茸、とキノコ・・・)

裏返った傘の話を長々と続けながら、この歌、作品としてはどうなの?
そこを討論しなくちゃいけないじゃないか。と思いつつ。
こういう脱線も楽しいかも。大勢の人たちと共に行う歌会の時に、
長々とやられると、参っちゃうんだけれども。
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「塔」百葉集 [短歌]

コロナ禍、私の場合はさらに家庭の事情で、十月に入ってからというもの、
遠出はおろか、近出もかなわなくなっている。

相棒に頼み込んで、一緒に「短歌を読む」時間を取ってもらう
ことにした。毎日ではないが。彼の「その気になった時」に。

色々考えたが、一首ずつ異なる作者の作品が一頁にまとまって
掲載されている、というのが便利で、「塔」の百葉集を
テキストに用いることにした。ちなみに、相棒は自分では
歌を詠まず、また自分から歌集や歌誌を読むこともほとんどない。

先ず私が百葉集の一首を音読し、相棒に感想を聞く。
その後で、私がコメントを述べる、という段取りである。
相棒は、文学に親しみを感じているタイプの人間。一番好きなのは
本格推理小説、らしい。それでも、短歌となると、かなり
理解に手こずっている様子である。

 ないあれどまったく起きぬ吾子なれば揺れやむまでを上から目守る
                    岡本潤「塔 2022年1月号」

「え、この『ないあれど』って何のこと?」
「『ない』って、地震のことだよ。地震がおきたんだけれど、って意味」
「え『ない』なんて普通の人、知らないよね? 漢字で書けよ、なあ」

長明の『方丈記』に出てくるんだけど、と言いそうになって、口を
つぐむ。私だって、『方丈記』は、短歌を始めてから読んだ。学生の時は
あの「行く川の流れは」で有名な冒頭しか知らなかったんだから、
知ったかぶりは良くない。いきなりの「ないあれど」は、難しいかも。
と、「普通の人」目線で、歌について考え直す。これは一つの良い機会。

 まつすぐに雪ふりてゐてあなたなのこの世にひとつわたくしの駅
                   國森久美子「塔 2021年6月号」

「え、どういう意味。なんもわからん」
「ええとねえ、これは良い歌なんだけれど・・・」

たぶん「あなた」なる人は亡くなっていること。「わたくしの駅」とは
心の中の駅、あるいは大切な思い出の中の駅のこと。駅とは、人と
待ち合わせるための場所、あるいは出会いの場所。そんなところに雪が
静かに降っていると、「あなた」が遠い日にそうであったように、私を
待っていてくれている(ように思われる)・・・。

説明しながら、やっぱりいい歌だ、と少しうるうるしている私。
額のあたりにおおきな「?」を載せたままの相棒・・・。
「百葉集」を読む、二人の時間。
もうしばらく続けたいんだけれど、相棒は付き合ってくれるだろうか。 
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「歌を詠む」を詠む [短歌]

短歌を詠み始めてなんと、四十年余りにもなる。
ずっと気ままに作ってきて、詠みたくないときは何か月も
詠まなかったこともあった。作りかけの歌だけが沢山出来て、
所属誌の締め切りが近づくと、慌ててその残骸を組み立て
直して提出したりしていた。もう、まるでごみの再生工場?

これではまずい、と思い直して、自分に負荷をかけるやり方を
してみることに。数年前、一頁に十首書けるノートを買い、一か月に
最低四頁分、つまり四十首は作ろう、と自分に言い聞かせた。
実際、一か月に四十首作れた月は、半分にも満たず・・・。

それなのに、今年から、一頁に十五首書けるノートに変えて、
一か月四ページ分、つまり六十首へと、さらに負荷を上げることに。
ノルマは達成しきれていないものの、作歌数は上がったのだが、
駄作が増えるだけのようにも思え、来年はどうしたものか・・・。

ところで、歌人という人種(?)は不思議な人たちが多いように思える。
自分が歌を詠んでいる歌を詠む、ということが多いのもその理由の
ひとつである。河野裕子さんは、その筆頭かもしれない。
自分の作歌場面を多く詠み、時に他の人たちの作歌場面を想像した
歌まで詠まれている。以前は軽く詠み過して来たのだが。
最近はこの種の歌に大いに惹かれ、かつ励まされる。

河野さんが「歌詠みの歌」を多く詠み始めたのも、作歌活動の
後半、第六歌集『歳月』あたりから、という印象がある。

 歌書きて歌書きてしかも寂しさよ今朝は見出でつ蕗の薹二つ
 このひとも鉛筆の芯とがらせて歌を書きしか「原牛」を読む
                    河野裕子『歳月』

 ひるひなか作りためゐる一首一首玉葱袋の玉葱に似る
                    河野裕子『家』

自分の歌を玉葱に例えるとは! とちょっと驚いた歌。

 雨の日は歌の出来る日、首を越え頭のてつぺんまでアンメルツ塗る
 雪の日は歌を作るによき日なり雪の生垣を烏が渡る
                    河野裕子『歩く』
晴れていなければ、歌ができた人だったんだろうなあ。

 青葉梟(あをばづく)ほつほーほつほーと鳴く夜に紙に現れる歌を待ちゐる
                    河野裕子『葦舟』
歌は作ろうとしてもできないときがあって、何かしながらその時を待つ、
ってこと、確かにありそう。うちの辺りに梟はいないのが残念だが。

 ドクダミの生茎(なまくき)齧りて歌つくる可笑しくなりぬ河野裕子を
 泣いてゐる場合ぢやないでしよ天草への飛行機の中で幾首か作る
                    河野裕子『母系』

歌詠みの執念のような作品。こんな舞台裏が視られる、
短歌は本当に不思議な、ちょっと涙ぐましい世界です。
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越後のお酒 [食文化]

「塔」十月号を読んでいたら、連載されている「私のコレクション」の
コラムに目が留まった。中野功一さんの「日本酒の歌③」である。
題名は「酒蔵と歴史」冒頭に吉川宏志主宰の作品が引かれている。

 くちゅくちゅと輪切りの海鼠噛みながら<吉之川>とう酒に親しむ
                   吉川宏志『海雨』

中野氏はこのお酒は新潟県長岡市にある蔵元のお酒<吉乃川>の
ことではないか、と説かれている。途端に、懐かしい記憶が蘇った。
子ども頃に住んでいた山形県南西部の町では、民放は新潟放送しか
受信できなかったのだが、このお酒のコマーシャルが頻繁に流れて
いたことを覚えているのである。実にシンプルなCMで、
  うまいお酒は吉乃川
という女性の声が聞こえてくるだけ。画面には勿論そのお酒の瓶が
写し出されていたはずだが(映像は全く記憶にない)。

大学卒業後、私は横浜市に入職したが、同僚に新潟県三島町出身の男性がいた。
三島町は長岡のすぐ近くで、私の父と同じ、長岡高校の卒業生だった。
彼が「断然うまい酒だから」と紹介してくれたのが「朝日山」。
一度職場の懇親会の時に「朝日山」の一升瓶を持ち込んできて
皆にふるまってくれたこともあった。そう、コメどころである越後の
お酒はおいしいのである。

最近はどこの店にも置いてある「菊水」は、子供の頃ご近所だった
Mさんの奥さんの実家のお酒。菊水は全国展開していなかった頃は
実に美味なお酒だったのだけれど・・・。今は、ちょっと(モゴモゴ)。
どんな食べ物もそうだけれど、やはり製造された地域で、その風土や
気候そのものと共に味わう時、一番美味なものかもしれない。

ところで、私の祖母の実家・牧江家は糸魚川市奴奈川に蔵を構える
造り酒屋だった。屋号を泉屋といい、「玉ノ井」が主力商品だった。
だが、大正の前期に廃業してしまっている。長く続いた泉屋を潰したのは、
祖母の父、牧江敬六らしい。
祖母の曽祖父(靖齋)と祖母の祖父の弟(礼助)が糸魚川市の文人として
知られていたため、磯野繁雄著『小城下文人伝』に二人の業績に
ついての小文が載っているのだが、
礼助の項の末尾に、私の祖母の父・敬六についての記述もある。
 
 敬六は物にこだわらない磊落な人物だったが・・・花柳の巷や
 妾宅に放蕩を重ね、さしもの泉屋をそれから二十年足らずで
 没落させてしまった・・・。

「泉屋っていったら、大した蔵だったがのう」
生前の祖父の、やや皮肉に満ちた口調を思い出す。
玉ノ井はどんなお酒だったのだろう。残念なことだ。
ちなみに、父が亡くなった時、父の文箱に古い除籍簿を見つけたのだが、
敬六の子は長女の祖母の他に十人。だが、庶子(お妾さんの子?)
として、ほかに十人の子も載っていた。親族の話だと、敬六はすべての
子どもたちを分け隔てなく育て、高等教育も授けたという。
むむむ・・・。なんとも・・・。ほろ苦い話ではある。
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梨のはなし [食文化]

子供の頃、山形県南西部で暮していたが、九月の中旬を過ぎると、
新潟県新発田市近辺からトラックで「梨売り」がよくやってきた。
我家ではまとめて10個ほども購入するのだが、母親に
「少し寝かせてやらないと食べられないのよ」
と言われていた。そして
「米櫃に入れておくと、早く食べごろが来るわよ」とも聞かされた。

お米の力が、梨を美味しくするのかな、と思っていた。
それから3~4日すると、食卓に並ぶようになる。歯に吸い付くように
ねっとりと甘く、香りも良く、梨の季節が楽しみだったことを覚えている。

中学卒業後、東京へ引っ越したのだが、秋口に果実店に並んでいる
「梨」を見て驚いた。形が違う、色がちがう、味が違う、歯応えが違う!
概して、じゃりじゃりして美味しくない、ああ、あの美味な梨は、
東京にはないのか! と残念至極に思ったのだったが。

まもなく、私が食べていた梨は、東京では「洋梨」と呼ばれていて、
普通に呼ばれている「梨」とは品種が異なるのだ、と知った。
子供の頃私が食べていたのはバートレット種の洋梨で、
しずく形をしている。収穫後しばらく追熟させてから食べ頃に
なる、という点でも、和梨とは大きく異なる。

バートレット種の梨は東京ではなかなか見つけられずにいるうちに
山形産のラ・フランスが登場するようになり、洋梨といえば
一時はこちらだけを指す、というような時期も多かった。

最近スーパーで、プレコースという新たな品種の洋梨をみつけて
購入してきた(まだ追熟中で、食べ頃を待っているところ)。

三年余り前、施設の母を訪問し、おしゃべりしていた時、新潟の
洋梨の話になった。いつも、追熟を待たされたよね、ということになり。
「米櫃に入れると早く美味しくなる、って言ってたでしょ。
私も時々やってみてるよ」
というと、母が笑い出した。
「子供は食べたい食べたいって、せがんでくるからね。
見えないところに隠していただけよ」
と言われ、大笑いすることになった。ああ、半世紀も
騙されていたんだった・・・。
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栗木京子歌集・続 [短歌]

先月刊行された栗木京子第11歌集『新しき過去』について、
先回はこの歌集の最も大きなテーマだった「母」の歌を
採り上げたが、もう一つ、「山」を詠んだ歌について書いてみたい。

栗木さんには海の歌も多いのだが、私はどちらかというと彼女の
山の歌が好きなのだった。本人が特に普段から登山や山歩きを
する、そういう趣味があるというより、おそらく山の裾野あたりで
過ごした時間を多く持っているのではないだろうか。その記憶が、
彼女の山の歌に何か懐かしい、童話のような、或いは短編小説のような
味わいを醸し出している理由となっているのではないだろうか。
第五歌集『夏のうしろ』に

 「カルピスが薄い」といつも汗拭きつつ父が怒りし山荘の夏
 山荘は磁石のくるふ丘にあり戸をあけて夜の客人(まらうど)迎ふ

という作品がある。幼少の頃に家族と、山荘で夏を過ごした記憶から
生まれた歌のようだ。
第七歌集『しらまゆみ』も山の歌が多く詠まれている歌集だが

 山荘の夜の卓上にトランプをすすすッと並べし人の指恋ふ

という作品があって、少しばかり妖しい雰囲気も感じられる。
ごく初期の作品にも

 ひたむきに孤独を鍛へゐるならむ 冬山の歌君より届く
栗木京子『水惑星』

という作品から始まる、恋を詠まれた一連があったことを思い出す。

清々しい高空の気を浴びながら、天空にひとすじの思いを捧げ続けるような
山の姿は、ある意味、栗木さんにとっての「生き方の指標」とも
なってきたのではないだろうか。
まさに山の気がピン、と張りつめているような、以下の作品に
私は強く惹かれてきた。

 山の気が天に吸はるる雨あがり 鎌倉五山の一の寺澄む
 もののふが城つくらむと決したるこころこそ美(は)し鯖雲流る
                 栗木京子『けむり水晶』

『新しき過去』で詠まれている「山」には、ゆとりも生まれていて、
読者もまた、山歩きにお供させてもらっている楽しさを感じる。

 瓢(ふくべ)より酒注(つ)がむかな山奥のそのまた奥にもみぢ照り映ゆ
 山道にアケビの大き実のあれば聖火を受くるごとく手のばす
 熊の毛にしばし貼り付き山をゆく盗人萩の種子こそ楽し
 憧れの彼方にとほく空晴れて山岳写真家は雲に住む人
               栗木京子『新しき過去』

長く歌を詠み続けて来て、ひとつ、何かから解放されたような、
安堵感もあるのだろう。これからどこへどう向かうのか。
とりあえず、読者でいられることに感謝してこの項を終えたい。

 散る前に芯赤くなるさくらばな言葉を発してゆかむ私は
               栗木京子『新しき過去』            
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栗木京子歌集 [短歌]

栗木京子さんの第十一歌集『新しき過去』(短歌研究社)が刊行された。
私は何度も書いているように、栗木さんのあの観覧車の歌に一読で
魅せられ、短歌を詠み始めた者である。その縁から、ずっと栗木さんの
作品を読み続けてきた。

『新しき過去』は、2017年から22年に詠まれた作品を収めており、
中心になっているのは、19年6月に亡くなられた母への挽歌である。

栗木さんは第四歌集『万葉の月』あたりから母を詠んだ作品が増え、
その後の歌集にも必ずと言っていいほど、ご自身の母らしき人を
登場させていた。続けて作品を読んできた者には、作者の、母への
想い、その変遷がよくわかり、こうした形で作品に触れられる、という
ことも、読者冥利に尽きるところ、と言っていい。

『万葉の月』から拾っていってみよう。この歌集には、急死された
父を詠んだ歌が収められているのだが。

 震へる母を支へ飲ませし一碗のあれは素水(さみづ)か湯なりしか覚えず

父の死に面して母を支える歌が詠まれているが、母なる人は強い女性だった
ようである。
 「泣いちゃだめ」母の声のみ身に残り骸の父と病院を出づ

『万葉の月』の巻末近くにはこんな作品もある。
 少しづつ母が親友になりてゆく葡萄色のスカーフ借りて返して

第五歌集『夏のうしろ』では
 バルコンに布の帽子を干してゐる母の薄着のまぶしかりけり

第六歌集『けむり水晶』にくると
 短歌やめよ、資格を取れといふ母に付き添ひあゆむレントゲン室まで

こうした歌が記憶に残っているからだろう、『新しき過去』に登場する
母を詠んだ歌には、これまでは直接的に詠われなかった、たぶん彼女が生前の
母を気遣って踏み込めなかったのだろうと思われる、母への本音が
現れるのを見て取れる。

 子どもらが泣くこと許さざりし母 みづからも涙見せしことなし
 苦しいと言はず必死に呼吸して必死の尽きしとき母逝けり
 このやうに必死に育てられしこと長く恨みき今なほ少し
 歯は大切 母が最期に教へたることは母らしく実利的なり

私は、お兄さんと二人きょうだい、という栗木さんを正直なところ
ずっと羨ましく思ってきた。いつもなにかにくるまれるように、
大切に育てられてきたのだろう、と想像してきた。それはその通りの
ようだが・・。お母さんの必死の子育てが、かなり息苦しくも
感じられていたようだ。親子の距離感とは、ほとほと難しいものではある。

 夜目といふやさしき距離に山法師しろく咲きをりわが母は亡し
               栗木京子『新しき過去』

次回は栗木さんの他のテーマの作品を読んでみることにしよう。
 
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母の言葉・再び [生活]

どこの家でもそうだと思うのだが、長女と母親、という関係はかなり
微妙なものである。特に若い頃の母は、長女の私に対し、とても厳しく
時に剣呑だった。私は、母との暮しに耐えがたく、大学卒業と同時に
結婚を決めたのだが、「早すぎる」と異を唱え、酷い罵声を浴びせた母が、
私の結婚後は「貴女が出て行ってくれて、家の中が平和になった」とのたまった。

その後も、信じられないようなひどい言葉を何度も浴びせかけられた。
正直なところ、私は「自分には優れた反面教師がいる」と考えることで
何とか切り抜けてきたようなものである。

でも、人というのは変わるものだ。六年前、足の骨折を機に施設へ
入所した母は、こちらが驚くほど和やかな表情を見せるようになった。
もともと人との交際は苦手な母だったが、入所後は徹底して
個室の部屋に閉じこもりきりで、ホールで行われる様々な催し物や
趣味の会にも加わろうとしない。ただ私が訪れるのを楽しみにしている、
そんな様子だった。いったい何をして一人の時間を過ごしているのだろう、
と、不思議だった。テレビも部屋に運んであげたのに、ほとんど見ていない。

私が行くと、昔の話を始める。私の子供の頃のことではない。
私がかつて聞いたこともないような、母自身の子供の頃の話が多いのだ。
父親が乱暴で、よく物差しなどで打たれたこと。理由がわからないことも
あって、悔しかったこと。努力家ではあったが、人に雇われるのを嫌い、
自営に徹し、お金儲けは苦手だったこと。
母の父は、母の母(私の祖母)と結婚する前に
裕福な家に婿入りしたが、奥さんがお産を機になくなり、乳飲み子と共に
婿入り先を追い出された。途方に暮れた祖父を救ってくれたのが祖母で、
自分たちの子供と同様に、母の異母姉を育てたのだそうだ。

母は祖母にとっての第一子だったのだ、とこの話で初めて知った。
そう言われると、母の姉なる人は、母の実家では少々浮いた存在だったこと
を思い出す。母にはほかに弟と妹が二人ずついた。彼らとの感情的齟齬も、母は
こまごまと話してくれた。
「両親は私達姉弟を、平等に扱ってくれた。だけど、
長男(私の叔父のことだろう)がしっかりしていなかった。次男の方(もう一人
の叔父)がずっと何でもできて・・。
上の子がしっかりしていない家はだめなのよ」

「あなたにはAちゃん(私の妹)より、厳しく育ててしまったわね。
でも、そういうことを考えたからなのよ・・・。」
「あなたには子供がいないけれど、子供のいない人生っていうのも
いいもの、だったかもしれないわね」
(これには驚きの余り、声が出なかった。子供のいないことを責められ
つづけてきたのに)

いずれも母が長い過去の時間を、何度も何度も、ひとりで反芻し、
出てきた言葉に違いない。母が長生きしてくれたからこそ、
聞けた言葉ではあった、と感謝したい気持ちになった。

コロナで面会がかなわないうちに、母の認知症も急速に進んでしまった。
九月下旬に体調を崩し、今は入院中である。施設からの入院は
これが三度目。母の生命力の強さを感じつつ、祈るような日々を送っている。
最後は苦しまないでほしい。百年以上も頑張ったのだから、
「ご苦労様」と、静かに見送りたい。
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