SSブログ

母の言葉・再び [生活]

どこの家でもそうだと思うのだが、長女と母親、という関係はかなり
微妙なものである。特に若い頃の母は、長女の私に対し、とても厳しく
時に剣呑だった。私は、母との暮しに耐えがたく、大学卒業と同時に
結婚を決めたのだが、「早すぎる」と異を唱え、酷い罵声を浴びせた母が、
私の結婚後は「貴女が出て行ってくれて、家の中が平和になった」とのたまった。

その後も、信じられないようなひどい言葉を何度も浴びせかけられた。
正直なところ、私は「自分には優れた反面教師がいる」と考えることで
何とか切り抜けてきたようなものである。

でも、人というのは変わるものだ。六年前、足の骨折を機に施設へ
入所した母は、こちらが驚くほど和やかな表情を見せるようになった。
もともと人との交際は苦手な母だったが、入所後は徹底して
個室の部屋に閉じこもりきりで、ホールで行われる様々な催し物や
趣味の会にも加わろうとしない。ただ私が訪れるのを楽しみにしている、
そんな様子だった。いったい何をして一人の時間を過ごしているのだろう、
と、不思議だった。テレビも部屋に運んであげたのに、ほとんど見ていない。

私が行くと、昔の話を始める。私の子供の頃のことではない。
私がかつて聞いたこともないような、母自身の子供の頃の話が多いのだ。
父親が乱暴で、よく物差しなどで打たれたこと。理由がわからないことも
あって、悔しかったこと。努力家ではあったが、人に雇われるのを嫌い、
自営に徹し、お金儲けは苦手だったこと。
母の父は、母の母(私の祖母)と結婚する前に
裕福な家に婿入りしたが、奥さんがお産を機になくなり、乳飲み子と共に
婿入り先を追い出された。途方に暮れた祖父を救ってくれたのが祖母で、
自分たちの子供と同様に、母の異母姉を育てたのだそうだ。

母は祖母にとっての第一子だったのだ、とこの話で初めて知った。
そう言われると、母の姉なる人は、母の実家では少々浮いた存在だったこと
を思い出す。母にはほかに弟と妹が二人ずついた。彼らとの感情的齟齬も、母は
こまごまと話してくれた。
「両親は私達姉弟を、平等に扱ってくれた。だけど、
長男(私の叔父のことだろう)がしっかりしていなかった。次男の方(もう一人
の叔父)がずっと何でもできて・・。
上の子がしっかりしていない家はだめなのよ」

「あなたにはAちゃん(私の妹)より、厳しく育ててしまったわね。
でも、そういうことを考えたからなのよ・・・。」
「あなたには子供がいないけれど、子供のいない人生っていうのも
いいもの、だったかもしれないわね」
(これには驚きの余り、声が出なかった。子供のいないことを責められ
つづけてきたのに)

いずれも母が長い過去の時間を、何度も何度も、ひとりで反芻し、
出てきた言葉に違いない。母が長生きしてくれたからこそ、
聞けた言葉ではあった、と感謝したい気持ちになった。

コロナで面会がかなわないうちに、母の認知症も急速に進んでしまった。
九月下旬に体調を崩し、今は入院中である。施設からの入院は
これが三度目。母の生命力の強さを感じつつ、祈るような日々を送っている。
最後は苦しまないでほしい。百年以上も頑張ったのだから、
「ご苦労様」と、静かに見送りたい。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0