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七光と個性と [藝術]

普段、「なんでも鑑定団」「お魚が食べたい」「プレバト」など、
幾つかのTV番組を自動録画に設定している。ところが、お正月で
特別番組が流れていた時も、設定時間そのままに録画されていて・・。
あれれ、とビックリするような番組が録画されておりました。
バラエティがほとんどなので、即削除したのですが、一つだけ、
音楽番組が入っていたので、時間が空いた時のために取って置き、
二日ほど前に、見てみました。

実際の番組ははるかに長いらしいが、録画予約していた番組の一時間分だけ、
録画され、何やら中途半端なところから始まる。昭和期の歌謡曲番組で
布施明とかが、昭和後期の他の歌手のヒット曲を二、三曲歌ったところで、
「親子共演」とかいうコーナーになった。
登場するのは四組の親子で、親の方は昭和歌謡に馴染んだ人には
懐かしい有名歌手ばかり。伊東ゆかり、鳥羽一郎、菅原洋一、そして
野口五郎である。でも、彼らの子供たちが歌手を目指していた(すでに
デビューしている人もいる)とは、全く知らなかった、というか、へえ、
子ども、いたんだ、というくらいに何も知らなかった。

鳥羽一郎だけは、子供二人をはべらせるだけで、全部ひとりで歌っていたが
(何のために出したんだろう)、菅原洋一と伊東ゆかりは、親子共演、
一緒に歌を歌う部分もあった。野口五郎の娘さんは音大の学生とか。
野口の歌に、ピアノ伴奏をしていた(声は一言も聞けなかった)。

大物歌手の子供って立場も、大変だろうなあ、と思ってしまう。まあ、
芸能界で成功するのはもともとが大変なこと。七光り、に頼ってやって
いけるほど甘いものではないはず。何より、個性が大事な世界だから。
親の優れた音感を受け継ぎ、音楽をいつも身近に聴き、業界に知人は多く
・・・・というスタート前から恵まれた環境にあったとしても、
親と同じように一線で活躍し続ける、ということは難しいだろう。

昨日、八代亜紀さんの訃報が流れ、ちょっと驚いた。療養中ということも
知らないでいたので。テレビから流れる、懐かしいヒット曲の数々を
耳にしながら、彼女の歌声の個性的だったことをしみじみと思い返した。
あの「せきす~い はうすぅ~」 なんていうCMだって、八代亜紀そのもの
だったことに驚嘆したことを思い出す。
そして、自分の短歌についても思いを巡らしてしまう。

 わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる 
                    葛原妙子『橙黄』
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日本のポルカ? [藝術]

新年早々、悲惨な天災、大事故が相次ぎ、心ふたぐ日々ですね。
被災地の人々のことを思いつつ、何とか気持ちを取り直していこう、
と、考えています。そんな昨夜、ちょっと楽しいことがありました。
午後七時過ぎ、いつもは相棒とWOWOW等から録画しておいた映画を
見ている時間なのだが。昨夜、相棒が選んだ映画はとてもついていけなくて。
(原作はアメリカのコミック。アクション+ファンタージ―っぽいが、
何ともお子様向きの、ばたばた映画である)

それで、そばでイアフォンを使いラジオを聴くことに。
すると、NHK FMから、聞きなれた音楽が流れていて。ウイーンフイルによる
新年のコンサート、それもポルカだ、とわかりました。片山杜秀氏が担当する
「クラシックの迷宮」を放送中でした。年頭はいきなりの大地震で、
ウイーンフイルのライブ聞かなかったなあ、と思いつつ、それが続くのか、
と思いきや、ここからの展開が凄い! ポルカやワルツ、ギャロップが、
西洋ではちょっと庶民的な音楽であること、日本でならどんな種類のそれに
当たるか、というと・・・。片山氏は、音頭、なのでは、と仰られる。

それで、勿論、かかりましたよ、東京音頭(あれ、ここは神宮球場?)
それから、河内音頭(歌詞がおもしろい)、残念、花笠音頭は聞けなかったが。

さらにさらに。音頭という音楽は、意外にお子様向きアニメの主題歌に
多く使われていて、その元祖はたぶん、このあたり・・と、登場してきたのが
オバQ音頭! ああ、懐かし、と声を上げながら、一緒に歌いたくなり・・。
そこは、相棒がそばで映画を見ているので、聞くだけにとどめました。

片山氏は、よほど子供向けのアニソンファンらしく、その後も続々!
はぜどん音頭(知らんわ)、ロボコン音頭、あられちゃん音頭、
アンパンマン音頭・・・。

ときいたことはあるような、ないような音頭が相次いで登場、
感動したのはキン肉マン音頭! これは名曲じゃないか!
と驚いていると、片山氏も「優れた楽曲」と持ち上げておられて・・。

さらに登場した「電線マン音頭」には、もう、脱帽でした。こんな凄い・・・。
音頭という音楽、やっぱどこかで、「みな似たようなメロディとリズム」
「なんとなく下品な感じ」「あまりに脳天気」と、見下げる気持ちが
無きにしも非ずだったが。
なんとも、賞すべき、さらに愛すべきばかばかしさ、の優れものであった。
感動しました!
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ラインの黄金 [藝術]

英国ロイヤル・オペラ・ハウスの23~24年の
シネマシーズンが開幕。先日、「ラインの黄金」が上映されて
いたので、横浜の映画館へ観に行った。いわゆるライブビューイング。

幕は最初から上がっていて、舞台上には、大きなごつごつとした
張りぼて状の塊が置いてある。ラインの川岸をイメージしているらしいが。
音楽が流れだすと、年老いた女性が一糸まとわずに現れ、度肝を抜かれる。
女性はしずしずと右手から左手へと歩み、中央を少し過ぎたところで、
やはりゆっくりとだが、くるくると回転を始める。壇上にそうした
装置があり、そこに立っているだけらしいが・・・。

上映前にもらった解説によると、これは大地の女神エルダで、人間が
エゴの限りを尽くし、大地の恵みを奪い続けた結果、枯れ果ててしまった
地球を象徴している、ということらしいが。う~む、む、む。

ワグナーの「ニーベルングの指輪」は、社会の縮図のような作品で、
上演は時代ごとの問題を鋭く反映しながら企画されてきた、ということは
理解できるのだけれど。そして、今回のこのロイヤルハウス版も、
オペラのもつ、重厚な空間の再現、というより、現代劇的風に
演出し、先鋭的な解釈に基づく演出を行った、ということはわかるが。

この老女の姿がどうにも気になって、集中を欠いてしまったのは、
私だけだっただろうか。また、前半は、ストーリーの展開に起伏もなく、
やや退屈だった。後半、ラインの黄金と指輪をめぐって、アルベルヒと
ヴォータンが奪い合いを展開するあたりから、音楽にも迫力を感じ、
舞台に集中できるようになったのだけれど・・・。

オペラとは、現代において、どんな形で上演されるべきなのか、
そのことを鋭く考えさせる内容ではあったと思う。
メトロポリタンオペラだったら、どう演出するかなあ・・・。
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ヨネヤマママコさん [藝術]

先月下旬、ヨネヤマママコ氏の訃報を新聞で読んだ。
この名前、とても懐かしくて、しばらく回想に浸った。
私が小学校二年生の時だから、もう六十年余りも前のことになる。
NHKで、彼女が主演する番組が始まり、私はたちまち夢中になった。
月曜日の夕方だったと思う。それで私は、番組名を「月曜日のパック」と
覚えていたのだが、訃報によると、正しくは「わたしはパック」らしい。

薄暗い空間に、一人ライトを浴びて、パックは現れる。顔には
真っ白い白粉を塗り、やはり真っ白いパジャマのような服を着ている。
そして、身振りだけで、何かとても不思議な世界を描き始めるのだ。
その動きはしなやかで、ときにすばやく、時にうっとりするほど優雅。

空中に何か見えないものを探り出し、そっと渡されるときのときめき。
それは蝶のようなもの、開き始めた花のようなもの、遠い場所への憧れ。

すっかり魅入られて、夢中で見たのは、だが、二週ほどである。
さあようやくパックの日が来た、とテレビをつけた途端、そばにいた
四歳の妹がわめき始めたのだ。
「ハックル、ハックル見る~」とか言い出して。どうもその時の裏番組が
人気の出始めた「珍犬ハックル」というアニメらしい。妹はどこからか
その評判を聞きつけて来て、チャンネルを変えようとするのだ。
私は一週間じっと待っていた大好きな番組を取られたくなくて、妹を
テレビの前から除けようとした。妹はぐわ~んと声を上げて泣き出す。

すると台所から母が出て来た。すごい剣幕である。
「あんたが見ている、その気味の悪いの、何!」
パックのことを言っているらしい。母は普段はNHKを偏重する傾向があり
NHKというだけで、視聴を許してくれることもあった。そんな母が民放の漫画に
肩入れしようとすることに、愕然とした。それ以上に、あの素敵なパントマイムを
そんなふうに貶められたことが、私には限りない衝撃だった。
私はそれ以来、大好きだった番組をあきらめらせられることになってしまったのだ。

だが、声には出さず、身体だけで表現する行為に、私はずっと惹かれてきた。
パックは見られなくなったが、私はその後、バレエ漫画に夢中になり、
図書館でバレエに関する物語などを見つけては読んでいた。

私が初めての翻訳書として刊行した書も『はだしのバレリーナ』(ポプラ社)。
イサドラ・ダンカン、ミハイル・フォーキン、アンナ・パブロア、
マーゴット・フォンティーンら、バレエに貢献した人たちの、少年・少女時代を
中心にした伝記である。訳しているときは本当に楽しかった。
身体の動きによる表現のすばらしさを、映像で見せてくれた最初の
人が、私にとってはヨネヤマママコさんだったのでは、と思うのである。
ご冥福をお祈りします。
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モネの睡蓮 [藝術]

九月第一日曜。八月はお休みだったので、二カ月ぶりの横浜歌会に出席。
今回は、フランスのオランジェリー美術館を訪れた時の歌を一首入れた。

  水あかりたどり地下へと降りゆけば揺れさんざめくモネの睡蓮

オランジェリーは良く知られているように、モネの睡蓮を展示するために
建設された美術館である。もちろん、マティスとか他に有名な絵もあるけれど、
さほど大きな美術館ではなく、展示に大きく割かれているのは、モネの睡蓮。

と聞いて、私は期待して出かけたのだったが。
入り口から入って、館内の絵を鑑賞しながら、モネの絵はどこだろう、
と思い続けることになった。フランス語は大学の二国でやったけれど、
もう覚えている単語すら少なく・・・。きっとどこかに表示があるんだろうが、
みつけられない・・・・・。

もしかしたら、どこかほかの美術館に貸し出されているのかな、と
思いそうになった。いや、この美術館の成り立ちを思うと、そういうことは
なさそう。そう思いつつ、あきらめかけて、出口の方へ向かった時。

ふっと、水明かり、のようなものを感じたのである。建物の中に、
水明かりが、入るはずがない、と言われればそれまでなんだけれど。

その水明かりを辿るように左折すると、地下への階段が開いていて、
そこへ何人かの人が降りていくのが見えた。私もその後ろについて降りていく。
すると大きな空間があり、空間を取り囲む壁全体に、モネの睡蓮が、
掛けめぐらされていたのである! 水連は、ようやく見つけた私に、
まるで「ようこそ、いらっしゃい」と挨拶するように、揺れているように
見えた。視界ほぼ360度を占める、モネの睡蓮! ほんとうにさんざめくように
私には見えたのである。

この感じは、写真やテレビの映像などでは分らないと思う。
絵とはもともと平面なのだし、写真はその平面性を強調する。
でも、実際に見ると違うのだ。水を渡る風と共に、睡蓮は呼吸している。

絵を詠むことは難しい。歌会での皆からの批判を聴きながら、
もう少し、詠みかたを考えようと思った。

ところで、オランジェリーとは、仏語でオレンジ、の意味。
この美術館はもと、チェイルリー宮殿にオレンジを供するために建てられた
温室だったそうです。
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折々の絵本・かがくいひろし [藝術]

先日のEテレ「日曜美術館」で、絵本作家のかがくいひろしを
特集していた。私も大好きな作家。最初は半分しか見る時間を取れず、
再放送まで見てしまった。五十歳で教員を退職、絵本作家として活動し始めて
わずか四年程で、癌で急逝されてしまった。その間に刊行された絵本、十数冊、
いずれも再版を続けている、ということも凄い。

何といってもだるまさんシリーズが有名で、小さな子供たちが、たちまち
とりこになる様子が、テレビでも繰り返し流されていた。その魅力は、
どんなところにあるんだろう。なんとなくわかる。でも、言語化して
しっかりと認識しているような状態ではなく。日曜美術館を見て、一か月ほど、
頭のどこかにぼんやりと、かがくい作品が残ったままだったのだが。

昨日、余りの暑さに何もできず『谷崎潤一郎犯罪小説集』をぱらぱらと
読んでいたのだが。集中の「柳湯の事件」という作品で、はっとした。
この事件の主人公は、あまり売れていない画家。彼が通りがかりに入った銭湯、
「柳湯」で、混雑した湯船の下に、なにやらぬらぬらした、うなぎのような、
蛙の死骸のような、海の藻のようなものが存在することに気がつき、
足の裏でなんども確かめ、踏みつけ、両手で引き揚げようとまでする。
その奇怪な悪戦苦闘の様子が、微に入り細に入り描写されるのである。
(ちなみに、これは主人公の幻覚、らしい)

  僕の画いた静物を見ればお分かりになるだろうと思いますが、何でも
  溝泥のようにどろどろした物体や、飴のようにぬらぬらした物体を
  画くことだけが上手で、そのために友達からヌラヌラ派という名称さえ
  もらっているくらいなんです。
              谷崎潤一郎『柳湯の事件』

ここを読んだ時、かがくいひろし作品のだるまさんシリーズの絵が、
ぱっと浮かんだ。あのだるまさんの曲線。だら~りと垂れたり、
ぬらーりと地面に伏したりするポーズが、思い出されたのである。

かがくい作品のあの曲線はとても魅力的だ。子供は、ごつごつしたものは
基本的に受け付けない。あのゆったり、だらーり、ほどよい湿度も感じられる
柔らかい線にまず引き付けられる。もちろん、かがくい作品にはほかにも
多くの魅力がある。でも、基本はあの、ゆるやかな曲線なのではないか。

『柳湯の事件』で、谷崎は、これでもか、これでもか、とばかりに、
わけのわからないぬらぬらとした感触を描き出す。きっと彼も、ただひたすら、
曲線の感触が好きだったんだろうなあ、と思われてくる。この短編に、犯罪の
匂いはしない。ただ作者がこだわった、不定形の物体の表現、その筆致に
圧倒されるのみである。

そしてかがくい作品に思いが及ぶ。まだまだ、絵本を作り続けたかったことだろう。
ぬらぬら、どろーり、くねくね、もくもく、には不思議な生命力が詰まっているから。  
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オペラ・魔笛 [藝術]

メトのライブビューイング「魔笛」を観てきました!
「魔笛」は、メトのビューイングで初めて観た演目で、2017年12月、
席の予約もせず、いきなり映画館へ出かけてしまったのでしたが、
なんと、ほぼ満席に近く、一列目しか空いていなかったのでした。

画面を見上げるような位置に、戸惑ったのでしたが、それでもたちまち
素晴らしい音と映像世界に没入してしまい・・・。以来、メトの
ビューイングは、全部とはいかないまでも、かなり見ているのです。

今回の魔笛は、先先週、メトの「ドン・ジョバンニ」を観た際、
予告が流れていたので、大体の傾向は分かっていたのでした。
つまり、音楽は素晴らしい。出演者たちは、役者としても堂々たる演技ぶりで。
そこは相変わらずのメトで、きっと、期待できる。でも、でも、
演出のほうはどうなんだろう・・・、一抹の危惧が。

案の定、演出には、かなり「?」が付きました。舞台装置は、
今時の環境配慮型? とでもいうべきでしょうか。
舞台上に登場する装置は、基本的に、大きな木製の台一枚のみ。
四隅にロープが取り付けられていて、上下、前後に稼働させながら、
板は、空になったり、洞窟の入り口になったり、舞台上の
舞台にまでなったり、時に幕代わりもして。

場面の展開を導くのは、舞台の袖に、まるで紙芝居屋さんのように
陣取った一人の男性。彼はボードに字や絵を書いたり、影絵の人形を
動かしたりして、その様子はそのまま、プロジェクターで、舞台の
奥の幕に大写しされる。つまり、舞台装置の代わりをしているのでした。

これは、かなりの省力化、経費の節約につながっているはずです。
これまでのメトでいえば、大掛かりの舞台装置を、係りの男性たちが
何人も、幕が下りるたびに、舞台裏で動かしていたのですから。

効果音の係の人も、舞台の袖に登場していました。ワインの空き瓶に
水を入れて、棒で叩いたり、蛇腹状の紙を揺らしたり、ポリ袋を
くしゃくしゃさせたりしながら、舞台の音を作っているさまが、
観客に見えるのは、それなりに面白かったけれども・・・。

魔笛の主役は、その名の通り、魔法の笛。これまでの演出だと、
王子のタミーノがこの魔法の笛を与えられ、ところどころで、吹く、
というか、吹くふりをすると、オーケストラのフルート担当の奏者が
その身ぶりに合わせて演奏する、というのが普通でした。

でも、今回の場合は、フルート奏者自身が舞台に登場して、
必要な場面ごとに、タミーノから笛を受け取って、吹く、という演出。
(そういえば、今回はオケ全体が、舞台上にあるような作りでした)

これは違うんじゃないの、と一番違和感をもったところ。
それに悲しいかな、タミーノを演じる男性、歌唱力は素晴らしいものの、
ルックスは、体型は・・・。一方のフルート奏者の、なんという美男子ぶり!

観終わって、エレベータに乗っていると、乗り合わせたどこぞのおばさまが
「フルート吹いていた人、すてきだったわねえ~」と
うっとりしながら、お連れの人に話しかけていた。mmm、こういう
ところがものすごく強い印象に残ってしまうのって、どうだろう?

メトはいろいろ挑戦している。その強い意志には感服するが。
オペラはひとときの夢の世界であってほしいんだよね・・・。
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折々のオペラ・フィガロの結婚 [藝術]

このところ、雑用が続いて忙しい。尋常ではない酷暑も続き、
いささかバテ気味なのだけれど・・・。今月は見たい映画が
目白押し。劇場公演のライブビューイングで、NYのメトでの
作品が二つ(ドン・ジョバンニ、魔笛)、さらにロンドンの
ロイヤル・オペラが一つ(フィガロの結婚)。特にフィガロは
相棒が、「メトでの演目にずっと入っていないから、是非、
ロンドン版で見たい」というので、時間のやりくりをしてでかけることに。

映画の興行期日は一週間、と決まっていて、最終日の13日に、
ようやく見に行けました。フィガロといえば、私たちが初めて
生の公演でみたオペラの演目(ウイーンで1989年に鑑賞)であった。
ウイーンでは二泊しただけで、切符が取れたオペラはこれだけだった。

その後、1996年に中欧を旅行した際に、チェコの歌劇場でも
フィガロを見たのだった。この時も、劇場に足を運べる日は限られていた。
何れも、偶然に導かれたようなもの。ストーリーは良く知らなかったが、
音楽のすばらしさに酔いしれた記憶は残っている。
その後は、LDやDVDで歌劇を観るようになっていった。

モーツアルトの歌劇というと、「魔笛」と「ドン・ジョバンニ」が双璧、
そして音楽通には、特に「ドン・・」の方が人気が高い、という印象が
あるのだけれど。モーツアルトらしい、明るさ、軽快さ、人間愛に溢れ、
登場人物の多彩さなどの点からいっても、フィガロはとりわけ
楽しいオペラだと私は思っている。

というわけで期待に胸震わせながら劇場へ向かったのでした。
そして、本当に、期待通りの素晴らしい公演でした!
私は、フィガロを演じたリッカルド・ファッシが素晴らしい、
と思ったのだけれど。相棒はケルビーノ役のハンナ・ヒップが良かった、
と言っていた。とにかく、色々な性格の人物が登場し、互いの個性が
ぶつかり合い、争い、そして和解へと導かれている過程がとても魅力的。

初めて見たときは自分も三十代、と若く、結婚間近のフィガロの恋人、
スザンナに心寄せながら観た記憶があるが。
今回は、夫に裏切られ続けている伯爵夫人の、愁いを含んだ歌声に
心を奪われたり・・・。演出が変わり、歌い手も変わると、作品自体が
がらり、と違ったものになるのも、オペラの魅力だろう。
特にモーツアルトの音楽は、大きな万華鏡のようで、覗くたびに違う世界が
展開していくよう。また、どこかで「フィガロ・・・」に会えますように。
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九相図 [藝術]

「九相」とは仏教の言葉で、人間の死骸が腐敗し、白骨化するまでの
九つの段階について観想すること、らしい。でも、単に思い描くのみ
ならず、実際にその過程を九枚の絵に描き出す、という作業も行われていた。
九相図と呼ばれ、何種類か残っていると知ったのは、ほんの数年前である。

放送大学の授業を偶々見たからで、そこでは実際の絵も映し出されていた。
中世~近世期京都の町はずれにあった死体置き場に通って描かれた、
という説明もあったが・・・。
仏教の修行中、色事に迷わされないよう、肉体のむなしさを僧徒に
解くために描かれた、とも聞いた。何だか凄惨な印象に、ぞっとしたのだが。

担当した者は最初は、吐き気をこらえるような思いで描き始めたにちがいない。
だが、描きながら、やがては、その実態に迫れることに、何か
心震えるような思いも味わったのではないか、という気もしてくる。
極端だが、例えば、芥川龍之介が『地獄変』に登場させた絵師のように。

ピーターラビットの作者、ビアトリクス・ポターも、身近な動物が
亡くなると、骨を取り出して、絵に描く、という作業をしていたらしい。
衝撃的だけれど、あのリアルな動物の姿態を描けたのは、そのおかげなのかも。

  姪の朋子は絵を描く
 死に顔を三時間おきに描きしとふ皮膚が骨に張りつく過程
                    河野裕子『葦舟』

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フェルメールの黄 [藝術]

フェルメールの絵は、2012年に渋谷で開かれていた
「フェルメールからのラブレター展」と題された美術展で
かなりまとまった作品群(といってもこの画家の確認されている作品が
全部で30点と、多くはないのだが)を観た記憶がある。その多くはない
彼の作品に「手紙」をテーマにしたものが複数あることから名付けられた
美術展なのだった。手紙を書いている女性がこちらに顔を向けている
「手紙を書く女」では、鮮やかな黄色の上着をまとった若い女性が
描かれている。全体が褐色系にまとめられた色調の中で、浮き上がるような
その黄色は実に鮮やかだった。

絵の中央に横向きに立ったまま手紙を読む女性が描かれた
「手紙を読む青衣の女」という作品もある。こちらは奥の壁にやや
大きめの絵がかかっているが、絵の色調はくすんだ黄土色である。
絵の中の女性はふっくらとしたお腹をしていて、妊娠中なのだろう。
こちらは、美しい明るい青の上着が印象的である。

 絵の中にかかりいる絵もフェルメールの手に違いなし右上を占む
                  永田淳『光の鱗』
そうなのだろう。で、よく見たい、と思うのだけれど、やはりここは
あくまでわき役、何が描かれているのか、よくわからなかったことを
覚えている。ただ、フェルメールは青と黄色が好きなんだろうなあ、
と何より色彩の美しさが強く心に残った。

青といえば、何といっても「青いターバンの少女」あるいは
「真珠の耳飾りの少女」と名付けられた絵が有名である。
「フェルメールからの・・」の美術展には含まれていなかったこの絵、
どこかで実物を見た記憶があるが、いつどこでだったか、全く思い出せない。
ただ、想像していたよりもかなり小さな絵だったこと、
何か訴えかけるような少女の表情が魅力的で
なかなか絵の前を立ち去れなかったことを覚えているのである。

ターバンの青は、まさに「フェルメールの青」で雑味のない爽やかな
初夏の青空のような、透き通るような美しさだった。この絵具は、ラピスラズリを
砕いて作られているらしい。あの光沢は、鉱石の持つ涼やかさだったのかと納得する。

さて、その少女がまとうターバンは頭を水平に覆っている部分と、
その横から垂れ下がる部分から成っていて、垂れのぶぶんはくすんだ
黄土色をしている。これはどのような絵具からできた色か、
私はこれまで、つきつめて考えることはなかったのだけれど。
多分何か岩石、あるいは土中の成分から、と漠然と思い描いていた。

ところが先月、購読している電子版の山形新聞を読んでいて、
このターバンの黄色について言及している記事に出会い、度肝を
抜かれた。この黄色はインディアンイエローと呼ばれているのだが、
牝牛にマンゴーの葉だけを与え、その排尿から作るのだとか。
葉だけ食べさせられた牝牛は、当然ながら栄養不良で死に至る。

凄まじい過程から生まれた色彩と知って、胸が詰まった。
この時代の芸術は、惜しみない犠牲のうちになされたもの、
という実感が湧いてくる。激しい階級格差があって、一握りの
富裕層から生まれた画家、あるいはその才能を見込まれた者が、
ごく一部の富裕層のなかからパトロンを得て、作品を世に残したのだ。
幾頭もの牛もまた、その犠牲となっていた・・・・。
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