SSブログ

赤い薔薇ソースの伝説 [藝術]

メキシコの作家ラウラ・エスキヴェルによる小説
『赤い薔薇ソースの伝説』は、1990年代前半に映画化されて
日本でも評判になり、その後に小説の方が訳されて人気を博していた。
そのことは知っていたが、映画を観ることも小説を手にとることも
なく過ぎていた。この小説がバレエとなってロンドンで、新作バレエ
として上演され、その舞台が映画化されたという。

我家からほど近い横浜ららぽーと内の映画館で上映されると聞き、
早速出かけることにした。ここではコロナが下火になり始めた昨年頃から
またロンドンでのオペラとバレエの公演が再開されるようになって、
シネマビューイングが復活したのだけれど。

映画の開始時間が遅すぎるということもあって、観たい演目も
いけないでいたのだが、この「赤い~」は、上演時間三時間弱だが
夕方の六時には終わるという。それで、相棒を誘って見に行くことに。
「え、バレエ? オペラじゃないの?」と、少々臆した風だったが、
ショッピングセンターの中で夕食摂ろうよ、と誘うと乗ってきた。

出掛ける前に小説版の『赤い~』を図書館から借りて、ざっと
読んでおこうと思っていたが、半分ほど読んだところで、予定の日に
なってしまったのだったが。

実際に見たところの感想を一言で言うと、かなり迫力のある舞台で
感動した。ストーリーは、中南米らしい、現実と幻想が綯い混じった
ような、魅惑的な展開で。それだけで私の好みなのだけれど。
亡くなった母親が柩から立ち上がり、嫉妬と憎悪に燃え、巨大な
姿となって、主人公のティタたちの前に立ちふさがるさまには
ぎょっとしながらも、目を離せないシーンになった。

ここが一つの山場で、舞台はこの後、ハッピーエンドに向かうのだが。
母の狂気のシーンで終幕としても良かったかな、とも思えた。
とはいえ、最後のティタと、ペドロが恋の勝利を互いにたたえ合うような
しっとりとした踊りもとても魅力的で、見ごたえたっぷりだった。

新作バレエとあって、認知度が低いせいだろう、観客がとても少なくて、
それが残念だった。以前から、このロイヤルオペラとバレエのシリーズは
メトのそれに比べても観客数が少なくて、ひやひやする。とてもいい
プログラムを組んでいるのに、この観客数では中止になってしまうのでは、
と、危惧するからである。バレエにはあまり縁のない相棒も、
「新作って聞いて、あんまり期待できないと思ってたけれど、
良かったよな。特に音楽が良かった。メキシコの伝統的な楽器が色々
使われていただろ? 雰囲気をぐっと盛り上げたよね」と言っていた。

この後、ロイヤルオペラの、「セビリアの理髪師」、バレエの
「シンデレラ」なども上演されます。興味のある方は是非、映画館の
上映予定を確認してみて下さいね。



nice!(0)  コメント(0) 

歳末のユーミン [藝術]

大晦日の定番「紅白歌合戦」は、ここ何年も見たり、見なかったり。
見るという年も、途中から、ちょこちょこ、拾い見する感じで。
昨晩の紅白もまた。八時過ぎにNHKにチャンネルを合わせ、何か
しながら、時々覗く。で、じっくり見たのは藤井風(ピアノ演奏、凄!)。
それから、大好きなユーミン! AIを駆使して、荒井由実と松任谷由実が
デュエットするという、乙な演出もあったし・・・。今の音楽シーンの、
世代間格差を埋めようとしたら、頼れるのはサザンか、ユーミンか、
ってテレビ局側の事情もあったんだよね。

そして選ばれた曲は「卒業写真」でした。うん、それは固い線だなあ、
と思いつつ、口ずさみながらじっくり聞きました。

ユーミンには少ないながら「学園もの」と呼べそうな作品があって、
「卒業写真」のほかに、「最後の春休み」という歌もある。
私は当初「最後の・・」の方が好きだったんだけれど。

三十代の初めころ、まだお勤めしていたのだが、同僚の人と
同じ車で仕事へ向かっていた時、カーラジオから「卒業写真」が流れ
(三月の繁忙期で、もう、くたくただった私。車の中でウトウト、
していたんだけれど、同僚(私より数歳年下の男性)が、ラジオに
合わせて歌い出し、はっとしたんだった。私は今、まさに
「ひとごみにながされて かわっていく・・」って感じだ、と。

一方の「最後の・・」の方は、憧れている相手の男性の様子が、
かなり具体的に出て来て、学生時代の淡い恋、って感じがアリアリ
だけれど、「卒業写真」に、相手への恋心は、表現されていない。
その雰囲気は「優しい目をしている」の一言だけ。

学生時代の「誰か」は、たぶん、特定の誰か、ではないのだ。
学生時代に抱いていた、未来への思い、すがすがしい心意気、
若いときめきそのもの、その象徴が「卒業写真のあの人」なのだろう。
ここに、この歌が歌い継がれていく、理由が、つまり普遍性が
あるんだよね。

年末の話題から書き始めた今年のブログ、でも、「卒業写真」を
胸に秘めながら、今年も新しいことに挑戦していけたらいいな、
と思っています。今年もよろしくお願いします。
nice!(0)  コメント(0) 

リリー・フランキー [藝術]

リリー・フランキーという人物を初めて知ったのは、たぶんTVで
放映され、何となく録画しておいて観た映画で、だったと思う。
何だか胡散臭い、ふにゃふにゃした役柄だったこともあり、
不思議な雰囲気をまとった人だな、という印象を抱いたが。
特に興味がなく(ほんの少しばかりの、嫌悪もあった)映画の
題名も忘れてしまっていた。

その後、彼の自伝的な小説『東京タワー オカンとボクと、
時々オトン』が大ヒットした時は、あの「ふにゃふにゃ」が?
と、大きな違和感を抱いた。
この書名の印象は、どうしたって「三丁目の夕日」的、ノスタルジーだ。
昭和期に田舎から出てきた人間が、東京に抱く、夢と憧れ、その幻想が
たっぷり詰まっているに決まっている。
あの、何か、常識を逸脱したような、人を食ったようなリリーという人物と、
どうしてもイメージが結びつかず、映画化もされて、さらに話題になったが、
全く食指が伸びなかった。のだが・・・。

先日WOWOWの番組表をチェックしていたのだが、見過ぎたせいか、
録画すべき映画がみつからない・・・。そこで、ああ、これ、
ずっと前にヒットしたこのリリーのでもみようか、となった。
リリー・フランキーは、その後見た何本かの映画によって、私の中では
けっこう注目する俳優に、変わってきていたし。

映画の中で、リリーらしき人物を演じるのは、オダギリ・ジョーだ。
片仮名繋がりかよ。オダギリじゃ、いい男過ぎるじゃないか、とも思ったが。

う~ん、見てみて、なかなかの映画だった。
それで、図書館から借りてきて読みました、原作の方も。
こちらもちょっと、リリーさんのイメージを逸脱する、かなり
緻密な文体の小説だった。う~ん、これは嬉しい裏切り。

 東京には、街を歩いていると何度も踏みつけてしまうくらいに、
 自由が落ちている。‥故郷を煩わしく思い、親の監視の目を逃れて、
 その自由という素晴らしいはずのものを求めてやってくるけれど、
 あまりにも簡単に見つかる自由のひとつひとつに拍子抜けして
 それを弄ぶようになる。・・・自らを戒めることのできない者のもつ
 程度の低い自由は、思考と感情を麻痺させて、その者を身体ごと
 道路わきのドブへ導く。
 ・・・自由めかした場所には、本当の自由などない。自由らしき幻想が
 あるだけだ。       リリー・フランキー『東京タワー・・・』

その後、他の本も読んでみようと、書店でぱらぱらと見てみたが・・。
いずれも、最初のリリーさんのイメージが貫徹しているような書ばかり。
購入はやめました。
でも、『東京タワー・・』はやっぱりすごい一冊だったと思う。
ドラマ以上の人生が、あの個性を作り上げていたんだな、と思うのである。
nice!(0)  コメント(0) 

折々の画家・マネ・続 [藝術]

しばらくの間、マネの画集(『現代世界美術全集1マネ』集英社)を
側において、ことあるごとに眺めていたら、これまで目につかなかった
幾つかが、気になるようになった。

マネは闘牛士がすきだったようで、闘牛士の絵を複数描いているのだが。
たとえば「エスパダの衣装をつけたヴィクトリーヌ」という絵がある。
エスパダとは、剣で闘牛を刺す闘牛士が身に着ける衣装らしい。ヴィクトリーヌは
マネのモデルを務めていた女性なので、これはいかにも、モデルに
それなりの服を着せて、アトリエで描いた、と想像できるのだが。

面白いのは、背景に闘牛場のような場面を描きいれていること。
とはいえ、闘牛士のような男性がまたがろうとしているのは
馬のようだが・・・。それに、主役たる女性との位置関係も
狂っているようで、なんのためにこんな背景を入れたのか、
よくわからない。

ほかに「死せる闘牛士」という絵もある。これは若い闘牛士が、
床にあおむけに横たわっている絵で、右側に頭をこちら向けにし、
左奥に両足を投げ出している姿勢だが、観るたびに目を奪われてしまう。
横たわった角度に対するパースの正確さ。身につけている衣装の、
質感が手にとるように伝わる、その描写の美しさ、つまりは
リアリティに溢れているという点で、素晴らしいと思う。

ただ、この絵の背景は、いかにも室内の、床の上らしく濃茶系の
濃淡で占められていて、闘牛士が亡くなる、その理由であるだろう、
闘牛の場面の空気感からは遮断されているのである。
ここにこそ、闘牛場の臨場感を配するべきだったのでは、と思うのだが。

「闘牛」といういかにも臨場感に満ちた絵もあるが、こちらは
細部が雑な感じで、おそらく実際に闘牛場で見た光景をスケッチして
アトリエで仕上げる、という形をとったものだろうが、なんとも
物足りない感じがするのだ。

マネという画家は室内でこそ、その力を発揮した人なのだろう。
たぶん、「草上の昼餐」も、モデルをアトリエで描写してから
屋外の背景を入れたのではないか、と思えてくる。では、何のために
わざわざ、草の上で食事をする、という場面にしたのか。
奥に描かれた女性(服を着ている)は、何をしているのだろう、
絵の全体からは浮いた感じが否定できない、この女性は・・・。
不思議さは深まり、そのことがさらに
マネという画家に引き付けられる要因ともなる。
厄介なことだ、と思いながら、私はまたマネの画帳を繰ってしまう。
nice!(0)  コメント(0) 

折々の画家・マネ [藝術]

中学生の頃、学習雑誌を毎月購入していたのだが
(正直、こんな雑誌より、「女学生の友」が読みたかったが
母がどうしても購入を認めてくれなかった)。いやいや手に
取っていた雑誌だったが、唯一楽しみだったのが
世界の名画が印刷された「名画カード」というとじ込み付録が
あったこと。毎月、一枚ずつ、綺麗な多色刷りで印刷された
カードは、特に中二の頃に入るとさらに技術が進んで美しくなり、
私は綺麗に切り取って保管してきた。今も手元にある。

画家・マネもこの付録で知ったのだが、作品は「笛を吹く少年」。
少年の身に着けている服、特にズボンの臙脂色に目を奪われて
居たことを覚えている。

  草上昼餐はるかなりにき若者ら不時着陸の機体のごとく
                葛原妙子『原牛』

葛原のこの歌を始めて目にした時、「ああ、マネのあの絵のことだ」
と気付きつつ、自分の持つマネの画風との間にギャップを感じたことを
覚えている。というか、「草上昼餐」という絵に抱いていた違和感を
短歌によって指摘されたような感じだった。そうだ、マネはあんな
絵も描いていたんだった、とあらためて思ったのである。

画集を開いてみると、マネには人物画が多く、得意としていたことは
よくわかる。でも、裸婦を描いた絵はむしろ少ないのである。
それだから、「草上昼餐」の異様さは際立つ。何しろ、草の上に、
ピクニックのように食べ物を広げ、そのそばで一人の若い女性と、
二人の青年が輪を作るように向き合って腰かけている。男性たちは
きちんとした身なりをしていて、上流階級らしい雰囲気をまとう。
女性だけが、素裸で、ゆったりとした表情をこちらに向けている。
右膝を立て、左膝は草の上に倒しているので、足の裏がこちら向き。

何ともしどけない姿態なのである。でもそれだけに、女性の四肢の
美しさが際立つ。屋外の草上だからこそ、素裸の命の輝きが際立つのだ。

葛原の歌もすごい。草上のピクニックの様相を「不時着陸の機体」
などと比喩するなんて。何かやむを得ぬ事態が起きて、とりあえず
草の上で昼食を済ませることになった、そんな場面に近いものは、
確かに感じられる絵ではあるが。事故を起こした機体は、やむを得ず
一糸もまとわずに食事をすることになった女性から生まれた比喩か。

マネの画集を開くとき、私はいつもこの歌を口ずさんでしまう。
「不時着陸の・・・」そしていつか、この場所は富士山麓かもね、
なんて感覚にも陥る。言葉から絵へ、絵から言葉へ。心はめぐる。
nice!(0)  コメント(0) 

female [藝術]

栗木京子さんの自選歌集『二十五時』(沖積舎)の巻末に
「お針娘志願」というエッセイが掲載されている。それによると
栗木さんは二十代前半に、いわゆる縫製教室のようなところに一年ほど
通われていたらしい。週に4日、午前十時から午後三時まで、というから
かなり本格的! なんだかイメージと違って、その落差に萌えそうに
なった私でした。私にも服作りをしていた時期(二十代~四十代)が
あったが、何処かに通ってまで、というほど熱心でもなく。ただ、
簡便な夏服くらいが縫えればいい、という程度で。

私の指南役をしてくれたのは、もっぱら本だった。特に利用したのは
「female」(ブティック社)という月刊雑誌である。

このブログの「ハローウインと変身願望」という記事で書いたことが
あるが、魔女に変装しようと志して、黒のワンピースを購入しようと
したところ、イメージ通りの品となると、高級品しか見当たらず。
それで、自分で縫ったという記憶があった。もう三十年近く前のことに
なり、詳細を忘れていたのだが、最近「female」のことを思い出し、
そして、この雑誌に毎回連載されていた「手作り自慢大集合」という頁に
応募したことを思い出し、本棚から引っ張り出してみると、
なんと作っていたのは、ワンピースではなく、袖をつけるのが面倒で、
ジャンバースカートに変更していたんだった!

その時の写真、ちょっぴり恥ずかしいけれど、掲載します(1994年7月号)。

IMG_20221124_080106.jpg

手に持っているのが、魔女に変装を促してくれた『魔女図鑑』。
私は十数冊の絵本を翻訳出版してきたけれど、現時点で絶版を
まぬかれているのは、この『魔女図鑑』と『どうぶつがいっぱい!』だけ。
どちらも図鑑的で、何か調べるのに適している、というところが支持されて
いる理由だろうか。

  ハロウィンが近づいたからま女図かんかりに二階のママ図書館へ
                         山添聡介

11月20日の朝日歌壇、馬場あき子氏と高野公彦氏との共選をうけた
小学生の作品である。高野氏の選評に「ハロウィンが近づき、魔女
図鑑で勉強する小学生」とある。勉強、というか、調べものするんだよね。
お料理、縫物、編み物、占い、ことわざ、薬草、などなど、魔女に関する
あらゆるノウハウが詰まっているこの本、翻訳はとても大変だったので、
刊行から三十年経っていても、利用されているのがとても嬉しい。
nice!(0)  コメント(0) 

プレバト [藝術]

プレバトというテレビ番組があると知ったのは、
二年ほど前のこと。月に二度ほど通っているアトリエの
主宰者が「いつも見ているの、面白いよ」と言い出すと、
仲間たちの多くが「私も」「先回の〇〇は・・」と続き、
知らないのは私だけだった。プレバトがプレッシャー・
バトル、の意味だということもその時に知った。

初めて見たのはそれからしばらく後のこと。
壁にペンキで描く絵と、俳句の二種目だったように
覚えている。手掛けるのは芸人さんたちだけれど
みんなかなりうまくて、唸ってしまった。

それから、思いつくと録画予約して、時間のある時にCMと、
司会者のお喋りを飛ばして作品部分と、先生のコメントの
場面だけ見る。それだけだと、20分ほどで見終わるんだから、
水増しもいいところ。これだから、バラエティ番組は
見るのがかったるいんだった、まあ、仕方ないけど。

水彩画編はやはり気合を入れて見る。自分も下手ながら
描いているので、教えられる部分もあって。
さらに俳句は、かなり面白い。というのも、作者が芸人
さんたちなので、彼らなりの経験が詠まれている場合が多くて。
一般の人たちには詠めない、と言う場面が切り取られていて。
たとえば、今年の初めころに放映された回の

  冬天よ母を泣かせて来る街か

誰が詠んだのだったか、おぼえていないんだけれど、
地方出身の芸人さんが、売れなかった時代を思い出して
詠まれた作品だった。ほんと、ちょっとジンと来た。

 縫い初めの楽屋朝日は母に刺す

これも芸人さんが、初舞台に立つ直前、舞台衣装を
徹夜で手直ししてくれた母親を詠んだ句だそうである。
あまり売れない時代は、家族が支えてくれる、そういう
楽屋裏が浮かんでくる句である。

華やかそうなステージの陰に、どんなことが展開してきたか。
俳句を通して知ることになった。プレバト、また見ます。
nice!(0)  コメント(0) 

オペラ・リゴレット [藝術]

ほぼ二年ぶりに、メトロポリタンオペラのビューイングを
見に行った。NYでもパンデミックでしばらく中止されていた
メトのオペラが再開され、そのフィルムを見ることができるように
なったのである。ようやく、という思いが強く、さらに
大好きなリゴレット、とあれば、万難を排し、見にゆかん、と心高鳴る。

リゴレットはLDを持っているのだが、デッキは製造中止になっているので、
故障して以来、ずっと鑑賞できずにいて。ストーリーも朧になっていたが。

リゴレットは宮廷の道化師。背中にコブがあり容姿が醜い。そのため
世を恨んでいる。道化師という職業柄、舌鋒鋭い彼には敵も多い。
彼には美しい一人娘ジルダがあり、自分に敵が多いことを意識している彼は、
ひたすら娘を隠し、彼女にも教会以外への外出を厳禁しているのだが。

ジルダは教会への帰途、自分の後をつけてくる若い男に恋している。
その男は宮廷でも有名な女たらし、マントヴァ公爵だった!
そこから悲劇が始まる。

演目の題からいくと、主役はリゴレットのはずなのだが・・・。
物語を中心となって引っ張っていくのは、あきらかにマントヴァ公爵である。
音楽的にも、華やかなテノールを担当するし、なにより超有名なアリア、
「女心の歌」を歌うのは、リゴレットではなく、公爵の方なのだから。
私が持っているLDでも、表紙に登場するのは公爵役を務めた
バヴァロッティで、リゴレットは誰が担当したか、印象が薄い。

でも、物語の基本となっているのは、リゴレットの生まれついての
身体的なハンディであり、そこから導き出される悲哀であり、怨恨
なのではないだろうか。そこがもう少し強調されてもよかったのでは、
と思ってしまう。娘の遺体に取りすがって号泣するリゴレットに
かぶさるように高らかに鳴り響く、女心の歌の旋律を
複雑な気持ちで聞いた。まさに惡の華、のような歌声がいつまでも耳に残った。
nice!(0)  コメント(0) 

古裂 [藝術]

第四歌集を出そうと思い立った、昨年の八月。
これまで作った歌でPCに入っていなかった分を打ち込み、
あれこれと入れ替えたり、改作したり、新たに作ったり・・・。

そのかたわらで、装丁のことをぼんやり考えていた。
これまで、三冊歌集をだしているけれど、装丁はほとんど
出版社にお任せしてきていた。その結果は・・・。
正直、あまり満足できたものではなかった。

装丁なんて、中身と関係ないんじゃない、と思われる方も
いるかもしれないが。そしてかつての私も、けっこう
軽く考えていたところもあったのだが。実際には、そういう
もんじゃない、やはり、自分の満足のいくものにしたい、
と、強く思っていた。歌集の出版社の中には、作者に色校も
見せず、そのまま印刷する、という場合も多かった。

私は、今回の歌集にはプロの方に装丁を頼まず、自分が
撮影した写真を使えたら、と思っていたが、それが通るのか。
出版社にその写真を送るときは、ちょっとびくびくした。
でも、杞憂だった。今回の出版社は、とても親切で、こちらの希望に
最大限、耳を傾けてくれた、と思う。

私が撮影して、装丁に使いたかったのは、三十年ほど前に
入手した藍染の綿の古裂である。

IMG_20210929_083818_BURST002.jpg

40センチ×80センチくらいの小さな布で、
写真を見てもらうとわかる通り、真ん中で接ぎ合せてある。
一部はとても薄くなっていて、裏から丁寧に当て布がしてある。
産地がどこか、詳しいことはわからなかったのが残念だが、
エキゾチックな雰囲気が気に入っていて、歌集題『海の琥珀』とも
合うのではないか、と密かに思っていた。

装丁に加工してもらう段階で、何度も見本をだしてもらい、
訂正を重ねてもらえたことも嬉しかったのだが。

歌集が出版されると、この装丁について触れてくる方も多くて。
何かまた一つ、自分を取り巻く世界が広がったような気がしている。
nice!(0)  コメント(0) 

折々の漫画家・こうの史代 [藝術]

こうの史代という漫画家をアニメ「この世界の片隅に」で
知った、という方は多いのではないか。私もそのひとり。
広島出身の漫画家であり、「セカスミ」以外にも原爆に
絡む作品として「夕凪の街・桜の国」がある、となると・・・。
イメージとしては、社会派なのかなあ、とも思ってしまうが。

漠然とそんな風に思い、そこそこの興味の対象でしかなかったのだが、
偶然古書店で彼女の初期の漫画を見つけて購入、読み始めて、
思わずのけぞってしまった。むむむ、こんなにイメージが覆された
という経験は、最近したことがなかった。

手にした作品は、『長い道』である。かっこばかり付けている
ダメ男と、ひょんなことから結婚することになってしまった女。
相手がああなら、こっちもこう、みたいな? ふわふわととりとめのない
生活していて、その味わいがなんとも面白く・・。

例えば、男の方は女が子供を欲しがることを怖れている。同居の家政婦
くらいにしか考えていず、宝くじにでも当たったら、すぐに離縁して
自分好みの我儘でカッコいい女を捕まえよう、とか思っている。
だから女が「やっぱり、何か生き物を育てたい」と言い出すと「すわ」と身構える。
で、ペットでいいと聞き、胸をなでおろすのだが。
なんと、女が育て出すのは、カビ、とか細菌みたいなもの・・・。

男の態度や素行は、いかにも、ありそうだ、と思える。だが、
そういう男に対峙する女の受け方が普通じゃない。
そこがこの漫画の面白いところで、私はたちまちのめり込んでしまった。

さらに「ぴっぴら帳」「こっこさん」などのペットモノ、といっても
いずれも鳥だが(セキセイインコと鶏)などを読んだ。「長い道」に
共通する意外性と、人を食ったようなお惚けに充ちている。
絵も、決してうまくはなく、でも、内容に合った、ほよほよ系?

「セカスミ」からはかなりかけ離れた世界が広がっていて、
これが何とも楽しかったのだった。

こうの史代は、広島大理学部を中退していて(だから、菌を
ペットにするなんて発想もあったのか?)、「長い道」系統の
ギャグマンガ系で出発。でも広島出身なんだから、と編集者に
勧められて、原爆を題材にした作品を手掛けるようになったらしい。

このことが、漫画家としての彼女の名声を高めることになったわけだが。
「こっこさん」や「ピッピラ帳」もいいよ、というか、
ぜひ多くの人に味わってほしい、そして癒されてほしい、と思える
作品である。
nice!(0)  コメント(0)