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ゴジラ、再び [短歌]

先回この欄で触れた、永久保さんの作品について、その後も考えてみた。

 ゴジラでもふいに浮上しくるような海面は薄き雲の色して
                  永久保英敏「塔 2024年4月号」

初句の「でも」に違和感を持ち、英語の「GODZILLA」だったならどうか、
と提案してみたわけだけれども。初っ端から「がっずぃーら」では、短歌の
リズムから見た場合、あるいは語感を考えた場合どうだろう。

短歌は基本、四拍子のリズムを内在している定型詩だと思っている。
初句で「がっ ずぃー ら が」と始まるのは何とも武骨で、
四拍子ののどかさを壊してしまうだろう。永久保さんの作品のように
「ゴジラでも」と始まるのは、短歌の生理に合っているといえるだろう。

あえて語感が強く、猛々しい「がっずぃーら」を採用しようとするなら、
三句とか四句目あたりなら、収まるのかな、とも考えてみた。特に四句目。
ここは一首がぐっと盛り上がる場面なので、四句目に入れると比較的
無理なく収まるかも。とも思いながら。

日本語は言葉のひとつひとつが、四拍子を取りやすい形にできている。
たとえば、長い言葉は大抵、四つの音に収まるように縮められることからも
分かる通り。マザーコンプレックスがマザコン、になったり、やたら
就活、婚活、妊活、などという造語が次々できることなども一例といえるだろう。

でも英語は基本的に三拍子なのではないだろうか。「がっずぃーら」も
三拍子で発音されていて、しかもアクセントが中央にある。こういう
言葉は短歌にはなじみにくいよなあ、とあらためて思ったのだった。

短歌が描き出す映像としては、「ごじらでも」より「がっずぃーらが」の
強さ、猛々しさ、そしてきっぱりとした断定が欲しいところだけれど、
音、響きとしては、妙にごつごつとしてそぐわないことは確かだろう。
残念な気がするのだけれど、短歌は結局のところ、しらべだから。
一首の歌から、そんなことを考えたのでした。

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