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「近代」とはなにか [言葉]

私は大学は史学科卒、ということになっている。
いよいよ大学受験に向き合わなくてはならなくなった高三のとき、
何を専攻すべきか、迷っていた。とりあえず文科系。
史学科に決めたのは、大学に入ってからやりたいことを決めたい、
それにはいかにも何でもアリ、な学科がいいと思ったからである。
これは正解だったと思う。
史学を勉強するふりをして、あるいはそれを通して、語学をやることも、
哲学とか、経済学をやることもできるし。「歴史」なんて、見方次第、
「これが歴史だ」といえば、それらしく見えて来るもの。

私が大学入学した七十年代初頭は、学生運動の全盛期を過ぎていて、
内ゲバの時代を迎えていたが。史学科の仲間たちの間でちょっとした
流行になっていたのが、「近代化とは何か」をめぐる話し合い。
「日本の近代をいつと捉えるか」「アジアに『近代』は始まっているのか」
「そもそも何を指標に近代とするか」
などなど、今思えば、論争のための論争か、とも思えそうなことが、
断続的に繰り広げられていた。滑稽ではあるが、みんな真剣だった。
そして、懐かしい。青春そのもののように思えるくらいに。
「近代化よ、永遠に!」と叫びたいくらいに。

大学の友人たちの多くが地方からの上京組。私だって、高校入学時に
上京しているわけだから、たった三年早いだけの上京組である。
(両親と生活していたし、18歳で首都で一人暮しを始める人からみたら、
かなり「違う」とは思われたかもしれないのだが。)

半世紀前の日本ではまだまだ、地方と東京の格差は大きかった。
私もそうだが、上京組は「東京」という「近代」の象徴のような、
巨大な消費都市の荒波に放りこまれて、否応なく、「近代」に
ついて、考えざるを得なくなったのではないか、と思える。

数年前、WOWOWで放映されていた映画。十年くらい前に
制作された映画だったと思うが、登場していた二人の若い女性が
自転車で東京の町を走りながら「ねえ、私たちって、東京に
搾取されているよね」と語っていたのが忘れられない。
彼女たちは「近代」という捉え方はしていなかったが、そもそも、
そういうことだよな、と妙に納得したことを覚えているのだ。

「近代」の捉え方は、人それぞれ、千差万別で、でも、
この言葉を口にする時、人は自分が抱える葛藤や、社会の
不公平感と向き合っているような気がする。

 澤田君が転校してきたとき、私ははじめて東京ことばを話す人に
 出逢った。沢田君は目の光りが強い、才気が目から鼻へと抜ける
 利発な少年だった。

 あの澤田君の家へはじめて行った日、恐らく私は生まれてはじめて
 「近代」の洗礼をうけたのだった。私は、私のような田舎者が
 慶応義塾へ入って、それを思い知らされた。私もまた「言葉」という
 「権力」を所有したくて、慶応へ入ったに相違なかった。
                      車谷長吉『金輪際』
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ゴジラ、再び [短歌]

先回この欄で触れた、永久保さんの作品について、その後も考えてみた。

 ゴジラでもふいに浮上しくるような海面は薄き雲の色して
                  永久保英敏「塔 2024年4月号」

初句の「でも」に違和感を持ち、英語の「GODZILLA」だったならどうか、
と提案してみたわけだけれども。初っ端から「がっずぃーら」では、短歌の
リズムから見た場合、あるいは語感を考えた場合どうだろう。

短歌は基本、四拍子のリズムを内在している定型詩だと思っている。
初句で「がっ ずぃー ら が」と始まるのは何とも武骨で、
四拍子ののどかさを壊してしまうだろう。永久保さんの作品のように
「ゴジラでも」と始まるのは、短歌の生理に合っているといえるだろう。

あえて語感が強く、猛々しい「がっずぃーら」を採用しようとするなら、
三句とか四句目あたりなら、収まるのかな、とも考えてみた。特に四句目。
ここは一首がぐっと盛り上がる場面なので、四句目に入れると比較的
無理なく収まるかも。とも思いながら。

日本語は言葉のひとつひとつが、四拍子を取りやすい形にできている。
たとえば、長い言葉は大抵、四つの音に収まるように縮められることからも
分かる通り。マザーコンプレックスがマザコン、になったり、やたら
就活、婚活、妊活、などという造語が次々できることなども一例といえるだろう。

でも英語は基本的に三拍子なのではないだろうか。「がっずぃーら」も
三拍子で発音されていて、しかもアクセントが中央にある。こういう
言葉は短歌にはなじみにくいよなあ、とあらためて思ったのだった。

短歌が描き出す映像としては、「ごじらでも」より「がっずぃーらが」の
強さ、猛々しさ、そしてきっぱりとした断定が欲しいところだけれど、
音、響きとしては、妙にごつごつとしてそぐわないことは確かだろう。
残念な気がするのだけれど、短歌は結局のところ、しらべだから。
一首の歌から、そんなことを考えたのでした。

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ゴジラとGODZILLA [短歌]

私が所属する「塔短歌会」の会誌4月号。今月は「塔」創刊70周年記念号と
あり、大冊(約360頁)である。半端ない読み応えで、例月作品の方は、
あちこち拾い読みにとどまっているのだけれど(まあ、毎月そうなのだが)。

  ゴジラでもふいに浮上しくるような海面は薄き雲の色して
                    永久保英敏

なみの亜子さんの選歌欄の最初の方の頁に見つけた歌。どんよりとした
空に広がる、鈍色の雲のような海面を見ていて、なにやら得体のしれない
生きものが浮き上がってくるのでは、という幻想に捉われたのだろう。
ゴジラ、といえばちょうど最新作がアカデミー賞の視覚効果賞を受賞して
話題にもなっているし、あの迫力ある怪獣を幻視してしまう、そんな
怪しい色の海だったのかも、と思わされ、なかなか面白い作品だな、
と思ったのだが。初句の「ゴジラでも」の「でも」は惜しいな、と思った。

「でも」は、沢山選択肢があるうちの、任意の一つ、という感覚がある。
「パンでも、ごはんでもいい」とか「先生にでもなるか」とか。
消極的選択の意味が強く出てしまう気がするのである。「ゴジラ」こそが
出てきそうな海、と、断定した方が、映像性も強まるのではないか。

ここに「でも」を挿入したのは、音を五音に合わせたかったからだろうか。
他に理由は考えられない。となると・・・。そこで思い出したのが、
1984年制作の映画「ゴジラ」だった。私は85年から86年にかけて
アメリカで生活していて、この映画は86年の春頃、現地のTVで
放映されていたのを観たのだった。がっかりするような駄作だった。

放映されていた映画は吹き替えだった記憶がある。それであらためて
きがついたのだが、ゴジラは、日本風には発音されていないということ。
英語版のゴジラは「GODZILLA」と表記され、発音は「がっずぃーら」と
聞こえる。「ず」の音にアクセントがあり、なかなか迫力のある固有名詞で、
日本語で聞くゴジラより、はるかに巨大な怪獣を思わせる発音になっているのだ。

その迫力の理由をさらに細かく考えてみると、最初の音の「がっ」がまず
何かをまさに「がっ」と掴むような激しい音であること、さらに「ずぃー」の音が、
現在の日本語ではほとんど発音されない「Z音」を含んでいることである。
「Z」は、いわゆる東北の「ずーずー弁」という言葉の理由になった音。
奥歯をかみ合わせ、そこでできた口腔内の空間で舌を跳ねらす音だ。
東北弁が絶滅危惧種化している現在、ほとんど国内では耳にすることが
なくなったのだが、英語にはあって、たとえば郵便番号でもある「Zip code」
とか、零の意の「zero」などなど、日本風にゼロ、ジップコードなどと
発音しては通じない。英語のg音、z音の力強さが、ゴジラという
生きものをさらに凶暴にしているといえそうだ。

永久保さんの先述の歌も初句が「GODZILLA(ガッズィーラ)が」だったらなあ、
と考えてしまった。
続けて、英語という言葉の持つ、発音の激しさ、というかエネルギッシュな
部分にも思いが及んだ。日本語の発音の凹凸のなさとは対照的な。
日本人は、何かを語りたくて、語っているだろうか。語りたくなくて、
それでもやむを得ず語っている、という場面が多すぎやしないだろうか。
そんなことまで、思いが及んでしまった。
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『処刑前夜』 [文学]

昨日の朝日新聞の天声人語を読んで、はっとした。
処刑囚への告知運用について、違憲であると訴えていた裁判への
判決が大阪地裁で行われた件に関する内容だったが。

1960年に初版発行された『処刑前夜』という句集があり、
51年に大阪拘置所で執行された死刑囚が、告知後の二日間で詠んだ十句が
掲載されているとして、その一部が紹介されていたのである。

  春寒し思う事涸れて動悸うつ
  絞首台のぼりてみればあたたかき
              不光

句集『処刑前夜』の編者は、北山河と北さとり。
北山河が58年に急逝した後、娘のさとりが後を継いで『処刑前夜』を
完成させたらしい。十三年前に亡くなった私の義母が所属していた俳誌
「大樹」の主宰者が北さとりだった。義母は1997年にその俳誌が
設けている山河賞を受賞しているが、受賞の言葉にこんなことを書いている。

 私が俳句の道を歩むことを決定的にしたのは『処刑前夜』との
 出会いだったといえます。漠然と芭蕉、一茶、子規などの
 作品しか読んだことのなかった私は、俳句の真実とはこれか、
 と感動し、・・・この道を選びました。
            岡部ひさ子「大樹 1997年5月号」

「大樹」には「ひこばえ抄」「わたぬき抄」「いずみ抄」などという
欄があり、これらは大阪拘置所などに収監されている人たちの作品から
大樹の選者たちが選んで掲載している作品集だった。

義母もそうした人たちと作品を詠み合う会に参加した経験を
話してくれたこともあったことを思い出す。
ちょっとした好奇心で参加する人たちもいただろうが、
一部の人たちは本当に熱心に句作に打ち込んでいたらしい。

  寒梅の香りに溶ける鉄格子
  月冴ゆる鉄路の悲鳴こだまして
            流清

  春待つや日々1行の獄日記
  春暁や囚らの寝息それぞれに
           勝川昭夫

  あかぎれの手に息吹いて台車押す
  面会の肩ぬれて来る梅雨の父
           山海
        俳誌「大樹」より

処刑の告知日が当日になる、とはどういうことか、と考える。
「自殺者が出たから」とは、理由にならない気がする。
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折々の俳人・神野紗希 [文学]

句集はかなり持っている方だと思う。「現代俳句の世界」全16巻、
等の他、橋本多佳子全句集、山頭火句集、寺山修司全句集、
勿論、芭蕉、蕪村などもいろいろと身近に置いている。
のだが、のめり込むように読む、ということはこれまで
なかった。歌集なら一冊読み始めたら、読み終るまで
手放せない、ということは多々あるが、句集にはなかった。
少し読んで、置いておく。また気が向くと読む、という感じ。

いつだったか、栗木京子さんが「歌ができなかったとき、
句集から題材を拾ったりしていた」と、どこかで話されていたので、
私もやってみようと試みたこともあった。
だが、これまで手に取った句集から創作的な感情が刺激されると
いうこともほとんど起きなかったのである、不幸なことに。

ところが。半年ほど前、図書館で見つけた句集『すみれそよぐ』。
作者は神野紗希氏。奥付の略歴によると、1983年松山市の生まれ。
俳句甲子園をきっかけに句作に携わるようになり、お若いのに
この『すみれ‥』が第三句集なのだそうだ。と、思い出した。
この句集を手に取る時、何となく名前に見覚えがあったような気がしたが。
先月まで電子購読していた山形新聞の、詩歌の時評を担当されていた
方だった。なかなか面白い文章を書かれていた、と思い出したのだ。

詠み始め、そして初めて一冊の歌集を一気読みすることになった。
面白い、感覚が合う、という気がした。先行の第一、第二句集も
読んでみたい、と思い、ネットで探してみたのだが、もう入手不能、
になっているみたいだった。

ぴたり、と心に添ってくるような作風に感動しながら、印をつけた作品
は次のような句である。

  摘む駆ける吹く寝転がる水温む
  おーいつばめ切株に置く旅かばん
  女子大やTシャツめくり臍扇ぐ
  ひかりからかたちへもどる独楽ひとつ
  花筏光になりたくて急ぐ
  汝にわれ樹に囀のある限り
  新妻が風ごと振り返る 虹よ
     神野紗希『すみれそよぐ』


他にもひかれた作品がたくさんあった。
なぜこんなに魅力的に思えたんだろう、と思うと同時に、
読んできた句集にさほど惹かれなかったのはなぜなんだろう、
と考えている。
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春の日の記憶 [生活]

大学卒業後、首都圏の某地方自治体に就職した私。大きな自治体で、
当時も二万人を超える職員がいた。私は広報課とか市史編纂室へ
配属を望んだが叶わず。市民課系がせいぜいで、八年目の配転希望で
一番嫌だった税務課へとまわされることになってしまった!
首都近郊で爆発的人口増が続き、職員増が追いついていなかった時期。
税務は申告時期が年度末のため、春先は特に繁忙を極めていた。

当時はパソコンなど夢の夢。本庁舎に大型コンピュータがたった一台あるきり。
各個人の情報を数字化して打ち込んだカードを作ると、そのコンピュータが
各人の課税額を計算し、納付書にしてくれる、という仕組みだった。

それでも、コンピュータに任せられない件が必ずあった。
桁数が決まっているので、飛び切り収入の多い課税者分。
文筆家や作曲家などが利用する、平均課税の申し出があった分。
申告時期に少しばかり遅れて出された件、などである。
これらは、自分で計算して納付書を手書きしていた。

こうした手書き計算も終え、繁忙期もそろそろ終わり、やれやれと
思っていたある年の春。そう、桜もすっかり散って、走り梅雨、
というような、ややじめじめした気候に移ってきたころのこと。

納税課の女性が私のところに来て、
「この納付書、切ったの岡部さん? 帳簿と納付額が
合わないんだけれど」
調べてみると、申告遅れ分の中の一件だった。納付すべき額は
53万数千円、だったが。私は5万3千数百円、という桁違いの納付書を
手書きで送ってしまっていた! 受け取った人は、すぐに払い込んだ
らしい。納付書を送付して間がない分だった。思ったより安い、とばかり
すぐさま振り込んだのだろう。しまった! と私は蒼くなった。

間違えた理由は、自分でもすぐにわかってしまった。納税者の住所が
〇〇荘△号室となっていた。調査で歩いたことがあり、知っているのだが
そのアパートは場末にある、古い木造二階建てで、トイレも共同。
とにかく、こんな納税額を課す対象にはならないはず、という先入観を
持ってしまい、それが、金額の転記ミスにつながってしまっていた。

兎に角、差額を払ってもらわなければならない。でもきっとゴネられるだろう。
「間違えた方が悪い、お前が払え!」
「公務員してんだろ? 俺たちの税金で食っているくせに、たるんでるな」
「そんな額、とても払えん。上司を出せ! お前なんか首だ!」

とかなんとか。これまでだって、特に自分にミスがなくても、
何度も浴びてきた罵声である。さらに激しいものになっても、
今回は完全な私のミス。弁解の余地はない。どうしよう。足元が震えた。
とりあえず、事情を話して、平身低頭謝るしかない。

まずは連絡しなければ・・。重い気持ちで受話器を持ち上げる。
留守かも。その可能性高い。職場の住所の申告はなかった。
何か自分で事業をしている人らしかった。

すると電話は通じた。相手は五十歳くらいの独身で暮す男性。
まずは、納付の礼を言い、間違いを伝え、追加の額を伝え、謝ろうとすると。
その相手の人は遮るように、言った。
「ああ、そう。足りない分も払うから、納付書送って」
何事でもないように淡々と言うのである。何という寛容な態度!
まるで、神の声のように聞こえたことを覚えている。

ほっとするあまり、涙がにじんだ。長く忘れないでおこう、と思った。
その後も、件のアパート近くに調査に出る用事があり、その前に
立ってみた。くすんだ板塀の、いつ倒れてもおかしくないような建物だった。
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ペルー旅物語(その11) [旅]

ガハマルカ(カハマルカ、と表記されることもあるようだ)という
ペルー北部の町は、インカ帝国の最後の王、アタワルパの終焉の地である。
スペインからの侵略者たちは、わずかな兵と宗教関係者だけからなる
小隊であったという。彼らは王に対し、キリスト教への帰依を強制しようとし、
うまく理解できなかったアタワルパに苛立つ。部屋一杯の金細工の供与を
条件に、王はスペイン兵の撤退を求める。インカの優れた工芸品の価値を
理解できなかったスペイン人たちは、この細工物を全部溶かして本国へ
持ち帰ることにし、約束も反故にして、王を処刑した。1533年のことである。

その後、この地域に起きたことを想像すると本当に痛ましい。
スペイン人とケチュアとの混合が進む一方で、原住民の人たちへの差別や
弾圧も進んだのではないだろうか。この地域が今も格差に苦しみ、テロが
絶えないのも、こんな歴史のもたらすところではないか、という思いが拭えない。

ガハマルカの町を発つ朝がきた。同じバスでリマを目指すのだが、標高のやや
高いガハマルカの町は、その日、霧に覆われていた。バスは真っ白い霧の中を
進んでいく。私はなんだかとても胸元が息苦しかった。途中で、吐いてしまうのでは、
という怖れが兆したのだけれど。なんとか、無事に山間部を抜け、バスの動きが
安定してきて、ほっとしたことを覚えている。それにしても、何とも
過酷な旅だった。あれからあちこちへ旅してきたけれど、あんなに
強烈な印象深い旅はなかった。歌も何首か詠んだが、あの旅から受けた
様々な感情は、とても表現できなかった。

 土壁をとかげ這うごと人動き町に廃墟のしずもりありき
 くらぐらと微光はなちて山すその町に錨をおろす僧院
 インディオの語気あらき人の売りくるは目くらむまでの緋を織りし布
 山の黙ふかきを告げて馬鈴薯の花群くだる白き風あり
 ひとすじの予感を醒まし山の神すぎたりとおき尾根の輝き
                   岡部史『コットンドリーム』

(とりあえず、「ペルー旅物語」はここにて終了です。
お読みいただき、ありがとうございました。)
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ペルー旅物語(その10) [旅]

ガハマルカに到着したのは午前八時頃。バスターミナルに、ソフィアの
弟が迎えに来てくれていて、彼らは走り寄って抱き合い、交互に頬にキスし合って
いて、ちょっと驚く。ラテン系の家族は、日本人にはちょっと照れくさいくらいの
親密さを保っているのだった。

ソフイアの弟が伯父さん一家と暮らす家は、中庭を囲む大きな家で、
伯父さん夫婦は公務員で共働きだそうで、若いお手伝いの女性も同居していた。
夫婦は朝早く出勤するが、お昼には帰宅して家族で昼食を取り、お昼寝(シェスタ)
時間の後、二時半頃にもう一度出勤する。ソフイアの従姉に当たる、二十歳前後の
娘さん二人がいるが、学生なんだろうか、定時に出かけるということはなかった。

泊めてくれたお礼に家族みんなを食事に誘おうとしたのだが、これは
伯父さんからきっぱりと断られた。するとしっかり者とみえる伯母さんから
「クイをご馳走したい。その代金をそちらでもってくれたらいい」との
提案があった。クイはペルー北部に特有の食糧で、実は日本で言う、
モルモットである(ちなみに、英語ではモルモットは別の動物。誤訳のまま
日本語化してしまっていて、英語で正しくはguinea pig という)。つまり、
ねずみの一種を食べるということになる(最初はちょっとぞっとした)。

町はずれでクイの市が立つ日があるという。その日は伯父さんを除く全家族で
市場へでかけた。先住民らしい人たちが大きな布袋を背負ってきている。
彼らと一対一で交渉する。袋の中の個体を確認し、値段の交渉をするのは
伯母さん。小型の兎くらいで、見た目は耳のない兎、みたいな雰囲気の動物。

値段は一匹25ドルだったから、当時の日本円では2匹で一万円近くもする。
ペルーの人には高級料理なのだった。伯母さんが調理してくれたが、クイの
可食部分は少なく、少しずつ分け合うような感じになった。でも、
みんな「今日はクイの日!」と目を輝かせていて、ソフイアの従姉たちが
骨を長くしゃぶり続けていたことを覚えているのである。
クイは、少し皮の硬い鶏肉、といった食感と味だった。
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