春の日の記憶 [生活]
大学卒業後、首都圏の某地方自治体に就職した私。大きな自治体で、
当時も二万人を超える職員がいた。私は広報課とか市史編纂室へ
配属を望んだが叶わず。市民課系がせいぜいで、八年目の配転希望で
一番嫌だった税務課へとまわされることになってしまった!
首都近郊で爆発的人口増が続き、職員増が追いついていなかった時期。
税務は申告時期が年度末のため、春先は特に繁忙を極めていた。
当時はパソコンなど夢の夢。本庁舎に大型コンピュータがたった一台あるきり。
各個人の情報を数字化して打ち込んだカードを作ると、そのコンピュータが
各人の課税額を計算し、納付書にしてくれる、という仕組みだった。
それでも、コンピュータに任せられない件が必ずあった。
桁数が決まっているので、飛び切り収入の多い課税者分。
文筆家や作曲家などが利用する、平均課税の申し出があった分。
申告時期に少しばかり遅れて出された件、などである。
これらは、自分で計算して納付書を手書きしていた。
こうした手書き計算も終え、繁忙期もそろそろ終わり、やれやれと
思っていたある年の春。そう、桜もすっかり散って、走り梅雨、
というような、ややじめじめした気候に移ってきたころのこと。
納税課の女性が私のところに来て、
「この納付書、切ったの岡部さん? 帳簿と納付額が
合わないんだけれど」
調べてみると、申告遅れ分の中の一件だった。納付すべき額は
53万数千円、だったが。私は5万3千数百円、という桁違いの納付書を
手書きで送ってしまっていた! 受け取った人は、すぐに払い込んだ
らしい。納付書を送付して間がない分だった。思ったより安い、とばかり
すぐさま振り込んだのだろう。しまった! と私は蒼くなった。
間違えた理由は、自分でもすぐにわかってしまった。納税者の住所が
〇〇荘△号室となっていた。調査で歩いたことがあり、知っているのだが
そのアパートは場末にある、古い木造二階建てで、トイレも共同。
とにかく、こんな納税額を課す対象にはならないはず、という先入観を
持ってしまい、それが、金額の転記ミスにつながってしまっていた。
兎に角、差額を払ってもらわなければならない。でもきっとゴネられるだろう。
「間違えた方が悪い、お前が払え!」
「公務員してんだろ? 俺たちの税金で食っているくせに、たるんでるな」
「そんな額、とても払えん。上司を出せ! お前なんか首だ!」
とかなんとか。これまでだって、特に自分にミスがなくても、
何度も浴びてきた罵声である。さらに激しいものになっても、
今回は完全な私のミス。弁解の余地はない。どうしよう。足元が震えた。
とりあえず、事情を話して、平身低頭謝るしかない。
まずは連絡しなければ・・。重い気持ちで受話器を持ち上げる。
留守かも。その可能性高い。職場の住所の申告はなかった。
何か自分で事業をしている人らしかった。
すると電話は通じた。相手は五十歳くらいの独身で暮す男性。
まずは、納付の礼を言い、間違いを伝え、追加の額を伝え、謝ろうとすると。
その相手の人は遮るように、言った。
「ああ、そう。足りない分も払うから、納付書送って」
何事でもないように淡々と言うのである。何という寛容な態度!
まるで、神の声のように聞こえたことを覚えている。
ほっとするあまり、涙がにじんだ。長く忘れないでおこう、と思った。
その後も、件のアパート近くに調査に出る用事があり、その前に
立ってみた。くすんだ板塀の、いつ倒れてもおかしくないような建物だった。
当時も二万人を超える職員がいた。私は広報課とか市史編纂室へ
配属を望んだが叶わず。市民課系がせいぜいで、八年目の配転希望で
一番嫌だった税務課へとまわされることになってしまった!
首都近郊で爆発的人口増が続き、職員増が追いついていなかった時期。
税務は申告時期が年度末のため、春先は特に繁忙を極めていた。
当時はパソコンなど夢の夢。本庁舎に大型コンピュータがたった一台あるきり。
各個人の情報を数字化して打ち込んだカードを作ると、そのコンピュータが
各人の課税額を計算し、納付書にしてくれる、という仕組みだった。
それでも、コンピュータに任せられない件が必ずあった。
桁数が決まっているので、飛び切り収入の多い課税者分。
文筆家や作曲家などが利用する、平均課税の申し出があった分。
申告時期に少しばかり遅れて出された件、などである。
これらは、自分で計算して納付書を手書きしていた。
こうした手書き計算も終え、繁忙期もそろそろ終わり、やれやれと
思っていたある年の春。そう、桜もすっかり散って、走り梅雨、
というような、ややじめじめした気候に移ってきたころのこと。
納税課の女性が私のところに来て、
「この納付書、切ったの岡部さん? 帳簿と納付額が
合わないんだけれど」
調べてみると、申告遅れ分の中の一件だった。納付すべき額は
53万数千円、だったが。私は5万3千数百円、という桁違いの納付書を
手書きで送ってしまっていた! 受け取った人は、すぐに払い込んだ
らしい。納付書を送付して間がない分だった。思ったより安い、とばかり
すぐさま振り込んだのだろう。しまった! と私は蒼くなった。
間違えた理由は、自分でもすぐにわかってしまった。納税者の住所が
〇〇荘△号室となっていた。調査で歩いたことがあり、知っているのだが
そのアパートは場末にある、古い木造二階建てで、トイレも共同。
とにかく、こんな納税額を課す対象にはならないはず、という先入観を
持ってしまい、それが、金額の転記ミスにつながってしまっていた。
兎に角、差額を払ってもらわなければならない。でもきっとゴネられるだろう。
「間違えた方が悪い、お前が払え!」
「公務員してんだろ? 俺たちの税金で食っているくせに、たるんでるな」
「そんな額、とても払えん。上司を出せ! お前なんか首だ!」
とかなんとか。これまでだって、特に自分にミスがなくても、
何度も浴びてきた罵声である。さらに激しいものになっても、
今回は完全な私のミス。弁解の余地はない。どうしよう。足元が震えた。
とりあえず、事情を話して、平身低頭謝るしかない。
まずは連絡しなければ・・。重い気持ちで受話器を持ち上げる。
留守かも。その可能性高い。職場の住所の申告はなかった。
何か自分で事業をしている人らしかった。
すると電話は通じた。相手は五十歳くらいの独身で暮す男性。
まずは、納付の礼を言い、間違いを伝え、追加の額を伝え、謝ろうとすると。
その相手の人は遮るように、言った。
「ああ、そう。足りない分も払うから、納付書送って」
何事でもないように淡々と言うのである。何という寛容な態度!
まるで、神の声のように聞こえたことを覚えている。
ほっとするあまり、涙がにじんだ。長く忘れないでおこう、と思った。
その後も、件のアパート近くに調査に出る用事があり、その前に
立ってみた。くすんだ板塀の、いつ倒れてもおかしくないような建物だった。