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『処刑前夜』 [文学]

昨日の朝日新聞の天声人語を読んで、はっとした。
処刑囚への告知運用について、違憲であると訴えていた裁判への
判決が大阪地裁で行われた件に関する内容だったが。

1960年に初版発行された『処刑前夜』という句集があり、
51年に大阪拘置所で執行された死刑囚が、告知後の二日間で詠んだ十句が
掲載されているとして、その一部が紹介されていたのである。

  春寒し思う事涸れて動悸うつ
  絞首台のぼりてみればあたたかき
              不光

句集『処刑前夜』の編者は、北山河と北さとり。
北山河が58年に急逝した後、娘のさとりが後を継いで『処刑前夜』を
完成させたらしい。十三年前に亡くなった私の義母が所属していた俳誌
「大樹」の主宰者が北さとりだった。義母は1997年にその俳誌が
設けている山河賞を受賞しているが、受賞の言葉にこんなことを書いている。

 私が俳句の道を歩むことを決定的にしたのは『処刑前夜』との
 出会いだったといえます。漠然と芭蕉、一茶、子規などの
 作品しか読んだことのなかった私は、俳句の真実とはこれか、
 と感動し、・・・この道を選びました。
            岡部ひさ子「大樹 1997年5月号」

「大樹」には「ひこばえ抄」「わたぬき抄」「いずみ抄」などという
欄があり、これらは大阪拘置所などに収監されている人たちの作品から
大樹の選者たちが選んで掲載している作品集だった。

義母もそうした人たちと作品を詠み合う会に参加した経験を
話してくれたこともあったことを思い出す。
ちょっとした好奇心で参加する人たちもいただろうが、
一部の人たちは本当に熱心に句作に打ち込んでいたらしい。

  寒梅の香りに溶ける鉄格子
  月冴ゆる鉄路の悲鳴こだまして
            流清

  春待つや日々1行の獄日記
  春暁や囚らの寝息それぞれに
           勝川昭夫

  あかぎれの手に息吹いて台車押す
  面会の肩ぬれて来る梅雨の父
           山海
        俳誌「大樹」より

処刑の告知日が当日になる、とはどういうことか、と考える。
「自殺者が出たから」とは、理由にならない気がする。
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折々の俳人・神野紗希 [文学]

句集はかなり持っている方だと思う。「現代俳句の世界」全16巻、
等の他、橋本多佳子全句集、山頭火句集、寺山修司全句集、
勿論、芭蕉、蕪村などもいろいろと身近に置いている。
のだが、のめり込むように読む、ということはこれまで
なかった。歌集なら一冊読み始めたら、読み終るまで
手放せない、ということは多々あるが、句集にはなかった。
少し読んで、置いておく。また気が向くと読む、という感じ。

いつだったか、栗木京子さんが「歌ができなかったとき、
句集から題材を拾ったりしていた」と、どこかで話されていたので、
私もやってみようと試みたこともあった。
だが、これまで手に取った句集から創作的な感情が刺激されると
いうこともほとんど起きなかったのである、不幸なことに。

ところが。半年ほど前、図書館で見つけた句集『すみれそよぐ』。
作者は神野紗希氏。奥付の略歴によると、1983年松山市の生まれ。
俳句甲子園をきっかけに句作に携わるようになり、お若いのに
この『すみれ‥』が第三句集なのだそうだ。と、思い出した。
この句集を手に取る時、何となく名前に見覚えがあったような気がしたが。
先月まで電子購読していた山形新聞の、詩歌の時評を担当されていた
方だった。なかなか面白い文章を書かれていた、と思い出したのだ。

詠み始め、そして初めて一冊の歌集を一気読みすることになった。
面白い、感覚が合う、という気がした。先行の第一、第二句集も
読んでみたい、と思い、ネットで探してみたのだが、もう入手不能、
になっているみたいだった。

ぴたり、と心に添ってくるような作風に感動しながら、印をつけた作品
は次のような句である。

  摘む駆ける吹く寝転がる水温む
  おーいつばめ切株に置く旅かばん
  女子大やTシャツめくり臍扇ぐ
  ひかりからかたちへもどる独楽ひとつ
  花筏光になりたくて急ぐ
  汝にわれ樹に囀のある限り
  新妻が風ごと振り返る 虹よ
     神野紗希『すみれそよぐ』


他にもひかれた作品がたくさんあった。
なぜこんなに魅力的に思えたんだろう、と思うと同時に、
読んできた句集にさほど惹かれなかったのはなぜなんだろう、
と考えている。
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原書で読む児童書(その3) [文学]

滞米時に入手して、帰国後にすでに翻訳済みと知った
Helen Cresswell 『The secret world of polly Flint』、最近
本棚を片付けようとして、改めて手に取り、読みなおしてみた私。
英国の児童書の世界の奥深さに改めて感じ入ったところだが。

翻訳版、つまり岡本浜江訳『ポリーの秘密の世界』の方は
どうだろう、と興味を持ち、調べてみることに。かなり以前に
絶版になっているが、市立図書館の書庫に所蔵されていると知り、
リクエストして借りることにした。

手にしてみると、立派なハードカバーで、訳者による丁寧な解説、
四ページ分もついている。あかね世界の文学シリーズ中の一冊らしい。
当時の値段は1200円。この種の児童書に、出版社がかなり
力を入れていたことがよくわかる。ちょっと今では考えられない。
他に全34巻のあかね世界の児童文学34巻についての広告が巻末に
ついている。どの書もあまり耳馴染のない書ばかりだが・・・。

借り出してきた本に、読まれた痕跡は全く、といっていいほど
見当たらなかった。挟まれている栞紐や、読者アンケートの葉書も
まっさらなままで、そのことが痛々しいくらいだったのである。

岡本浜江さんは、児童書の翻訳者としてとても活躍された方で、
訳文は原文にかなり忠実ながら、読みやすい。それでも、
子どもたちの関心を得る、というには遠かったようだ。

一つには、挿絵もよくないのではないか、と思える。
この書の挿絵は原書版を使わず、日本の画家がオリジナルな
絵をつけているのだが・・・。原書の挿絵の、シャープな線描画を
見てしまった者(私が当初関心を持ったのも、この絵のすばらしさが
かなり大きかった)には、なんとも雑駁で投げやりな絵、という印象が
してならない。日本の児童書の挿絵は、かなりいい加減なものも
多い、という印象は以前からあったけれども。子供の関心を引く、
その最も大きな入り口は、表紙の絵や本文中の挿絵にあるだろうと
思うと、ちょっと残念な絵なのだった。

他には、やはり文化の違いということが大きいだろう。
うっそうとした森、その中に開く野生の花々、静かな湖。
そうした身近な自然に日常的に接しながら暮らす子供たちが
とても少なくなっていること、また、イギリスでは冬季が長い。
寒さが厳しく陰鬱な冬がようやく終わって、
やがて明るい春、初夏へと向かう季節には、多くの人が外に出て
あたたかい日差しを楽しむ。その象徴となる五月の柱
(May pole)やその柱の回りで踊る、五月の踊り、などへの
知識がなく、雰囲気もわからないことなどがあるだろう。

出版されたイギリスと同様、日本でも小学校高学年向き、と
されているが、その年ごろにはかなり難しい本だったかもしれない。
特に、世界の国々からの情報が今よりずっと少なかった八十年代前半では。

対比しながら読んでみて、いろいろなことを考えさせられた一冊だった。
                  (この項、終ります)
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原書で読む児童書((その2) [文学]

英国には児童受けの幻想的文学の流れが脈々とあって、例えば、
『ピーターパン』『不思議な国のアリス』『くまのプーさん』
『ピーターラビット』『秘密の花園』『メリーポピンズ』などなど、
枚挙にいとまのないほどである。その根幹には、『マザーグース』
という、何とも豊かな詩歌の世界があるように思われる。すべてが
この膨大は詩の世界の影響を受けていると言えないのは勿論ではあるが。

Helen Cresswell 『The secret world of polly Flint』もまた、
詩を愛する少女が登場し、彼女が折々に詠む詩が、物語を動かす
一つの歯車になっているあたりは、イギリスらしさを感じるのだが。
他の幻想文学との違いは、かなり現実に根差した描写が多いこと。

夢見がちながらも、活発なポリーは、家事のやり手である母からいつも
「Polly, do’nt!」と叫ばれ続けている。ポリーがドアを勢いよく音を立てて閉めたり、
テーブルの底を蹴り上げたりするからだが、ポリーは自分の名前は
「Polly Flint」ではなく「Polly do’nt」なのではないか、と嘆くほど。
(このあたり、発音の類似性が面白いのだが、訳すと「ポリー、やめて」
になってしまって、面白みがなくなってしまう、残念なところ)

ポリーの空想癖に対し理解を示す父親は、炭鉱に勤めていて、ある夜、
落盤事故にあい、大けがを負う。そのために一家は一時、ポリーの
母の、十歳年上の姉、エムおばさん宅に身を寄せることになる。
おばさんの家の近くの森の中で、ポリーは次々に不思議な体験を
することになる。ポリーはこの森と近くの湖一帯を「ポリーの王国」
と名付け、自分をその国の女王と自称して、探検を続けていく。

ざっと紹介すると、こんな話になる。
本文中の、王国の挿絵を見ながら、ポリーと一緒に不思議の世界に
分け入っていくことは、なかなか楽しいのだが。

物語は先述したように、現実的な部分も相当挟み込まれていて。
特にエムおばさんの、異常なほどの清潔好き、たくましい生活力は、
幻想性との対極にあり、ちょっと、驚かされる。ファンタジーを
読んでいる、という感覚に埋没していると、肩透かしを食らうのだ。

その点で言うと、jumbleという言葉の意味がうまく理解できなくて
困ったことだった。前後の流れから、どうもjumbleとは、蚤の市、
のような、不用品販売会のような雰囲気のイベントのようなのだが、
買う、とか、売る、に相当する単語は一度も出て来ず、必ず
collecttという動詞しか現れない。イギリスには不用品を家の前に
並べて置いて、「必要な方はどうぞ」と譲り合う日があるようなのだ。
それがJumble(がらくた)の日、らしい。

生活力に富んだエムおばさんは、子供の頃に自分が乗っていたという
(そうとう古いはず)大きな乳母車を引っ張り出してきて、これに
必要なものを積んで帰る、と言い出すくらいだから。

ファンタジーと思っていると、なんだか驚くような現実的な
描写が出て来て、ほんと、驚かされる。でもこういう面も、いかにも
イギリスっぽくて(かなり物を大切にする人たち)、納得できる。
(この項、続きます)
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原書で読む児童書 [文学]

最近、増えすぎた本を捨てようとして、少々躊躇する場面があり。
それは、滞米時に購入した児童書、何冊か。当時は気に入った
本を、あまり吟味せずに購入していた。いずれ読むだろう、
そしてあわよくば、日本で翻訳して出版したい、という夢もあり。

帰国してから、すでに訳出されていると知ったり、自分でざっと
読み、梗概を作成して出版社へ持ち込んでも「ボツ」となったり。
そういう本がそのまま残っていたのだった。捨てる前に、あらためて
読んでみようと思った本を何冊か取り除けておくことにした。

そのうちの一冊が、Helen Cresswell 『The secret world of polly Flint』
帰国後に、『ポリーの秘密の世界』と題して出版されていた、と知った。
訳者は岡本浜江氏。1983年11月にあかね書房から刊行されている。
なんと、私が渡米する一年半ほど前のことになる。当時はぎりぎりまで
勤めていて、退職したのは渡米間際。時間もなくて、あまり新刊書に
眼を通す時間もなかったんだけれど。
ヘレン・クレスウエルは、『村は大きなパイつくり』(岩波書店刊)
という児童書で日本でも知られた作家なので、まあ、訳出されている
可能性は高い、とは思っていた。でも、美しい線描画の挿絵に惹かれ。

今ならスマホがあるので、訳出の有無など、すぐにわかることなのだけれど、
当時はこんなこと一つ、調べるのも大変なことだった。
久しぶりに原書で読んでみて、色々と発見があった。
そのことについて、何度かに分けて書いてみたいと思う(続きます)。
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砂の家 [文学]

山形新聞には「気炎」という八百字足らずの小さなコラムが
あって、数人の筆者が回り持ちで書いている。昨日のこの欄は
「『砂の女』の家」と題して、安部公房の『砂の女』が一枚の写真から
着想を得て書かれた小説であることを紹介している。
その写真とは、日本海に面した庄内砂丘の、飛砂被害の激しい地区に
建てられた家が撮影されたもので、砂の間から屋根だけが出ている
モノクロ写真、というから、何ともシュールなのだが・・・。

筆者の森山海人氏は、その写真の撮影された酒田市浜中の出身で、
昭和四十年代半ばに建て替えられる前までは、まさに小説に登場するような、
「砂底の家」で生活していた、とあって、驚かされた。
家全体が路面から1,5mほど下の低地に立てられていて、路肩から土の
階段を降りて、小さな庭を通って家に入る、とある。

私が『砂の女』を読んだのは三十代の終りころ、と思い出し、書庫を
探って件の書を引っ張り出してみると、昭和五十六年発刊の新潮文庫の
平成元年に刊行された第二十七刷版だった。ちなみにこの書の書き下ろしが
発刊されたのは、昭和三十七年、1962年のことである。

初めて読んだ時、まるでホラーだ、と心底恐ろしくなったことを覚えている。
勿論、純文学として高い評価を得て、刊行間もない1964年には英訳され、
さらにチェコ語やフィンランド語など、二十数か国語へ訳されて、世界的な
評価を得たことはよく知られている。でも、私にはほとんどホラー小説として
強く印象に残っていた。

昨日、山新の「気炎」を読んで、その砂の家の実在を具体的に知ってから、
私がなぜこの書が心底恐ろしかったのかが、ようやく腑に落ちた。あの砂の家は、
子供の頃に暮した豪雪地で暮した家に酷似するからだと・・・。
掻き出しても掻き出しても降り積もってくる雪。降り続け、すべてを
覆い尽くそうとする雪に、窒息しそうになったあの日々が、『砂の女』の家で
展開される日々と相似する、と感じたのだ。

森山氏の文章は
 彫られた土地に鎮座する幾つもの家の佇まいは、自分たちは気が
 つかなかったが、とても珍しい風景だったかもしれない。

と結ばれている。その景色から、あの一編の小説を構想した、
作家の力量を思うのである。
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折々の作家・フィッツジェラルド [文学]

フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』は、先ず
映画を観てから小説を手にしたような記憶がある。映画製作は1974年。
日本公開後まもなく見に行った当時の同僚が「良かった!」と感動して
いたのを覚えている。私はそれから十年近く後、たぶん、レンタルビデオで
見たのではなかっただろうか。それから野崎孝訳の新潮文庫版を購入した。
奥付を見ると、初版は1974年、つまり映画公開に合わせて発刊されたようだ。
私の手にした本は1984年刊の第二十五刷版で、かなり売れたことがわかる。

でも読み始めて、すぐに躓いたことを覚えている。なんだか意味不明の
部分がかなりあるのだ。訳文はだいたい読みにくいが、この本も例外でなく。
そのまま書棚に放り込みっぱなしにしてあったが。あれから二十年余り後。
村上春樹が新訳を出版した。それを読みたいと思いつつ、だいぶ日が経って
しまったのだが。先ごろ、ふっと思い出して、村上訳と野崎訳、そして
アメリカで購入していた原書の三冊を並べて、読み比べてみた。

ちなみに、原書も購入した当時読みかけた記憶があるのだが、
かなり含みのある、読み取りにくい文章で、たちまち挫折したのだった。

たとえば、冒頭近くのこの文章、

 ひとつには、読むべきものがたくさんあり、それに溢れるばかりの健康は、
 無理にも引き止めなければ、若々しくもかぐわしい外気の中に飛び出して
 行こうとする。僕は、銀行業務や・・・に関する本をいっぱい買い込んだが、
 ・・・・・・結局のところ人生は、一つの窓から眺めた方が、はるかによく
 見えるのである。        野崎訳


このあたり、おおまかにはわかるものの、うまく気持ちの流れが掴めない
文章である。読書に集中したいのか、それとも? 原文の方は、

 There was so much to read, for one thing,and so much fine health to be
pulled down out of the young breath-giving air. I bought a dozen volumes
on banking ・・・・ life is more successfully looked at from a single window,
after all.

村上訳の方は、

 まずだいいちに、僕には読むべき書物がやまほどあったし、溌溂とした
 若々しい空気から、はちきれんばかりの健康をもぎとらなくてはならな
 かった。銀行業と・・・・ 人生というものは詰まるところ、単一の窓から
 眺めた時の方が、遥かにすっきりして見えるものなのだ。  
                  村上春樹訳(中央公論新社)

村上の訳文の方が、登場人物の気持ちの流れに沿っている、といえるだろうか。
でも、「若々しい空気から、はちきれんばかりの健康をもぎとる」という言い回しも、
日本語としてこなれている、とは言えない気がする。

 読むべき本がたくさんあり、さらに、初夏の若々しい空気から健やかな気力も
 得ることができた。

あたりが、矛盾なく収まるのではないだろうか。ちなみに「初夏」は、その前段の
内容から季節が分るので、加えてみたのだが、どうだろう・・。

翻訳は難しい。でも逐語訳的に、正確を期そうとすると、流れを見失う。
読者は、話者(作者)の気持ちに寄り添い、話者に成り代わって、書物の
世界を追体験するものなのだ。そんな読者のための翻訳こそが求められる
ものではないだろうか。ちょっと、偉そうになってしまいました(苦笑)。
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はるかなる児童書 [文学]

もう三十年くらいも前の話になる。相棒がいきなり
「『揚子江の少年』っていうお話、知らない?」と
訊いてきた。私は全く聞いたことのない題名だった。
「面白くて、大好きだった。確か、文学全集の中の一冊で」
彼はその後、中国からの留学生たちに尋ねまわっていたが
誰からも「知らない」と言われ、落胆していた。翻訳書だろうし、
作家名を忘れてしまっていては、手掛かりがないのだった。

私たちは知り合った頃から、子供の頃に読んだ物語について話をする、
ということは多かった。例えば私が
「『魔の913号室』って、あったよね?」
と訊いたときは、相棒も知っていて、ストーリーについて
あれこれと批評し合ったこともあるが、図書館で探して再読しようとしても
題名が少し違っているのか、そういう本は見つからない。

インターネットが普及してくると、検索が驚くほど簡単になり。
相棒が探し続けていた『揚子江の少年』については、詳細が判明した。
エリザベス・ルウィスという西洋人が、1933年に著した書で、日本では
講談社の世界文学全集の一冊として、1954年に発刊されていた。
揚子江の上流、重慶市近くに住む貧しい少年が、銅細工師の徒弟となり、
成功していく、というストーリーらしい。

私が子供の頃、確かに読んで、心に残っている小説のなかに、いまだ
作者名や発行先のわからない書がいくつかある。先回のこのブログでも
触れた『鼻ききマーチン』もその一つ。赤い表紙で、確か学研の翻訳書
ばかりを集めた全集の中のひとつだったと記憶するのだけれど。
調べても、みつからない。他にも『鉛筆の秘密』という推理小説も
読んだ記憶があるのだが。

『鉛筆の…』は、主人公(英語が母語だったと思う)が麻薬の密売人を追いかけて、
フランスへ行く、といった話だった。内容はもうほとんど覚えていないのだが、
フランスに来たからには「コニャック」を呑まなければ、とバーに入って
注文しようとするが、なかなか通じない。「コンニャク」みたいな発音で
ようやく通じた、という箇所だけ、覚えているのだった。蒟蒻によく似た名前の
お酒って、どんな味だろう、と思った。小学三年くらいの時のことである。

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宇治拾遺物語 [文学]

高校生の頃は、古文は苦手な方だった。源氏物語、更級日記、
土佐日記、平家物語・・・。冒頭の数十行を読んでみて、素晴らしい!
と感動することは確かにあったが、いずれも読了した記憶はない。
古語の言い回しが理解できず、まどろっこしく感じ、興味が持続しなかった。
分らなくなったら、現代語訳を読んで、内容を理解してから原文に戻る、
というやり方をしておけばよかったのだった。後悔すれど、時すでに遅し。

この暑い夏、もうゾンビ状態になってしまって、頭が動かない。
図書館に出かけるのさえ億劫になってしまい、自分の書棚を漁って、
積読のままになっている本や、中学生の頃に読んでいた本を読み返している。
谷崎潤一郎と芥川龍之介を拾い読みしたところで、彼らの作品に
元ネタを提供したらしい、『宇治拾遺物語』にも目を通すことにした。

すると、これがなかなか面白い。私が持っているのは、短歌を始めた頃に
購入した中島悦次校註の角川文庫版で、現代語訳はついていない。

高校生の時はほとんど理解できなかったと思うのだが、今読んでみると
結構わかる! まあ、短歌を四十年もやっているのだから、それとなく
文語的な言い回しに慣れてきている、ということはあると思われるが・・・。

分らないところはざっと飛ばし読みして、あとからネットで調べることにした。
現代語訳が読めるサイトあるんだよね。ほんと、便利な世の中になったんだ。

宇治拾遺は民話風な説話も多いのだが、下世話な内容に驚かされることしばしば。
汚らしかったり、いやらしかったり、こんなアホな話をわざわざ、と呆れたり。
当時の「三文週刊誌」的な存在だったのかなあ、なんて想像しながら読んでいる。
その間は、ちょっぴり、暑さを忘れられるし。
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アルプスの少女ハイジ [文学]

『アルプスの少女ハイジ』は、小学生の頃に読んだ記憶がある。
その頃は、女の子の名前に関心が高かったころで、この書の一番の記憶も、
「クララは可愛いけど、肝心の主人公の名は可愛くない」だった(苦笑)。
ストーリーも特に惹かれるところがなく。当時は山沿いの盆地に住んでいたので、
アルプスなんか、全くあこがれの対象でもなんでもなく。近くにいると
ありがたみって、薄いもんなんですよね。

アメリカで暮らし始めた三十余年前、まずは図書館で子供の本を
読み始めたのだが、ちょっと変わった題名の本だな、と手にとったのが
『Heidi 』。ヘイディ? ぱらぱらとめくってみて、これが
『アルプスの少女ハイジ』のことだった、と気付くまで少々間があった。
ハイジって、こう綴るんだったのか!? と驚いたのである。

舞台はスイスのドイツ語圏に属するデルフリ村、原書はドイツ語で書かれ、
私が手にしたのは、英語への翻訳版だった。ちなみに日本での初登場版は
英語からの重訳だったらしい。

2005年にイギリスで映画化された実写版の「アルプス・・」が、
先日テレビで放映されていたので、録画して観た。内容はほとんど
忘れていたので、新鮮な気持ちで見れた。ハイジが足の悪いクララの
世話をしていたのは、こういう事情からだったのか、と改めて気づいたりして。

そしてストーリーの流れが、先日見た「ザリガニの鳴くところ」と似ている、
と感じた。自然のなかに棲み、世捨て人のような暮らしをし、学校へ行かず
文字も読めない子供。あることをきっかけに、文字に触れるすばらしさを知り、
自分の住まいのある地の特殊性を生かして、生きていこうと決意する。

「ザリガニ・・・」とは異なり、「アルプス・・」の方の少女は、
「作家になりたい」と希望を公言することで、将来を暗示するにとどまるが。
はたから見て、大きな障害に見えることを逆転させて生きる、ということが
主題になっているように思われたのである。きちんと、「読みどころ」を
捉えていなかったんだ、と残念に思うと同時に。

子供の頃を振り返ると、主人公の名前が、もう少し愛らしかったら、
もっと気合入れて読んでいたかも、なんて考えたりしたのでした。
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