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米坂線(その2) [旅]

初めて米坂線に乗ったのは、生後十か月のこと、になりそうだ。
母が初めての女孫を父母(私の祖父母)に見せるため、実家がある
天童市へ出かけたと言っていたから。祖父はその三年後、私が
四才になる直前に、脳卒中で亡くなっているので、記憶はとても
かすかなのだが、とても可愛がってもらったようだ。

天童へは、まず米坂線の今泉まで行き、ここで長井線(現在の
フラワー長井線)に乗り換えて、終点の赤湯まで行く。赤湯からは
奥羽本線で山形へ。子供の頃、直接天童へ行くことはほとんどなかった。
母の妹がカリエスを患い入院していたため、見舞いに寄っていたからである。

米坂線の一番の記憶は、蒸気機関車の記憶ということになる。
とにかく、煤がひどい。子供の頃、旅行はあまり好きでなかったが、
米坂線の煤が、余りにも強烈だったことが大きな理由の一つだった気がする。

ところで、稀代の鉄道作家だった宮脇俊三氏は、終戦時の玉音放送を
今泉駅前で聞いた、という話は有名である。私は氏の『時刻表昭和史』
で読んだ記憶があり、書棚を調べてみたのだが、みつからなかった。
『時刻表2万キロ』の方にそれに関する記述があったので引いてみよう。

  今泉駅前で車を降りた瞬間、さすがに私の胸が熱くなった。・・・
  所用で山形に出かけるという父にねだってついてゆき、新潟県の
  村上に抜ける途中、正午に重大な放送があるというので、今泉で
  下車したのであった。・・・駅舎からコードが伸びていて机の上の
  ラジオにつながっていた。それを数十人が半円形に囲み、放送が
  始まるとラジオが天皇であるかのように、直立不動で頭を垂れた。
               宮脇俊三『時刻表2万キロ』

ここに述べられている通り、玉音放送を聴いた後で、宮脇氏は米坂線に
乗り換え、坂町経由で村上へと向かわれるのだが、そこにも、米坂線の
煤のすさまじさがしっかりと記述されていて、つい笑ってしまう。

  石炭の質が悪いのか、熟練した機関士が兵隊にとられて釜焚きの腕が
  下がったのか、手の子の先の上り坂のトンネルの中で、力が尽きて
  停車し、機関の圧力を上げなおしたときは、車内に濃い煙が充満して
  手拭で鼻をおさえていても噎せた。  宮脇俊三『同』

手の子という駅は、宇津峠の手前にあり、ここから沼沢に至るまでが
米坂線の難所、なのだった。手の子を過ぎると、いつも母が、窓を
閉めていたことを思い出す。窓の外を見るのが楽しい私達子供は、
いつも「あ、何で閉めちゃうの」と思うのだが、すぐにその理由が
わかる。石炭が沢山くべられるのだろう、煙がすさまじくなり、そして
列車はトンネルに入ってしまう。煙はたちまち車内に入り込み、
目も鼻も、煤で真っ黒になるのである。私は蒸気機関車に対する
ノスタルジーなど、まるでない。わざわざ乗りに行く人の気が知れない。
                    (続きます)
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