SSブログ

「歌を詠む」を詠む [短歌]

短歌を詠み始めてなんと、四十年余りにもなる。
ずっと気ままに作ってきて、詠みたくないときは何か月も
詠まなかったこともあった。作りかけの歌だけが沢山出来て、
所属誌の締め切りが近づくと、慌ててその残骸を組み立て
直して提出したりしていた。もう、まるでごみの再生工場?

これではまずい、と思い直して、自分に負荷をかけるやり方を
してみることに。数年前、一頁に十首書けるノートを買い、一か月に
最低四頁分、つまり四十首は作ろう、と自分に言い聞かせた。
実際、一か月に四十首作れた月は、半分にも満たず・・・。

それなのに、今年から、一頁に十五首書けるノートに変えて、
一か月四ページ分、つまり六十首へと、さらに負荷を上げることに。
ノルマは達成しきれていないものの、作歌数は上がったのだが、
駄作が増えるだけのようにも思え、来年はどうしたものか・・・。

ところで、歌人という人種(?)は不思議な人たちが多いように思える。
自分が歌を詠んでいる歌を詠む、ということが多いのもその理由の
ひとつである。河野裕子さんは、その筆頭かもしれない。
自分の作歌場面を多く詠み、時に他の人たちの作歌場面を想像した
歌まで詠まれている。以前は軽く詠み過して来たのだが。
最近はこの種の歌に大いに惹かれ、かつ励まされる。

河野さんが「歌詠みの歌」を多く詠み始めたのも、作歌活動の
後半、第六歌集『歳月』あたりから、という印象がある。

 歌書きて歌書きてしかも寂しさよ今朝は見出でつ蕗の薹二つ
 このひとも鉛筆の芯とがらせて歌を書きしか「原牛」を読む
                    河野裕子『歳月』

 ひるひなか作りためゐる一首一首玉葱袋の玉葱に似る
                    河野裕子『家』

自分の歌を玉葱に例えるとは! とちょっと驚いた歌。

 雨の日は歌の出来る日、首を越え頭のてつぺんまでアンメルツ塗る
 雪の日は歌を作るによき日なり雪の生垣を烏が渡る
                    河野裕子『歩く』
晴れていなければ、歌ができた人だったんだろうなあ。

 青葉梟(あをばづく)ほつほーほつほーと鳴く夜に紙に現れる歌を待ちゐる
                    河野裕子『葦舟』
歌は作ろうとしてもできないときがあって、何かしながらその時を待つ、
ってこと、確かにありそう。うちの辺りに梟はいないのが残念だが。

 ドクダミの生茎(なまくき)齧りて歌つくる可笑しくなりぬ河野裕子を
 泣いてゐる場合ぢやないでしよ天草への飛行機の中で幾首か作る
                    河野裕子『母系』

歌詠みの執念のような作品。こんな舞台裏が視られる、
短歌は本当に不思議な、ちょっと涙ぐましい世界です。
nice!(0)  コメント(0)