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二つの歌会から [短歌]

一年に二度、大学の同窓会館で開かれる歌会に参加している。
同窓会の愛称を使って「桜楓歌会」と呼んでいるのだけれど、参加者は
毎回十数人。長く歌を詠んできて、歌壇ですでに名を成している人もいれば、
やや暇つぶし的にやってくる人もいる。それで作品の質にかなりの凹凸がある。
でも、批評の質は高い。歌の出来はあまりよくないと思われる人が
かなり的を射た発言をするので、驚かされることは多いのだった。

その欧風歌会、つい先日の三月の下旬に行われたのだが、冒頭、
歌会の発起人であるI・Kさんが、「せっかく集まるので、誰もが出席して
良かった」と思えるような、何か一つでも収穫があった、と思えるような
会にしましょう」と発言された。そのためには、各自が提出してくる
作品に、真摯に向き合い、適切な言葉で鑑賞・批評しなければ、と思った。
この日の「桜楓歌会」は、やはり、作品の質はやや低め、でも批評は
素晴らしく面白い会になった。両立は難しいのでした。

さて、例月の「塔」会員による横浜歌会の方は、第一日曜日なので、
ほんの三日前に行われたのだが。こちらは歌のレベルも批評のレベルも
なかなか高くて、四時間弱の歌会の時間は、気の抜けない真剣勝負になる。

詠草用紙が配られて、読んで選歌するための時間は毎回二十分弱である。
当日の参加者は十四人だったので、詠草には二十八首が並んだ。
一首につき使える時間は平均で数十秒、ということになる。これは
良く考えると、驚異的なことだ。でも、みんな文句も言わず、時間内に
選歌し、当てられれば適切に選歌した理由を述べるのだから、凄い。

恐いのは、ざっと読んだ時に、その歌の真意を摑めず、素通りして
しまうことである。特に作者が力を入れて、新しい表現に切り込もう、
としているとき、その作者の意欲をそぐような、頓珍漢な意見を
吐いてしまう、ということは往々にしてありそうだ。私も以前、
都心で行われていたある歌会に、遠路時間を取って参加しながら、
参加者の批評力があまりにも低くて、バカげた質問や批判、さらに
歌の批評と言えないようなお喋りをされてから、全く足が遠のいたことがあった。

私が参加している横浜歌会にも、途中ぷっつりと参加されなくなった
方もいて、そういう方は、私と同様の経験をされているのかもしれない、
と思うと、何やら背筋が寒くなる。
今回は、そういう点でヒヤリとさせられることがあった。

ある方の作品で、おそらく車の中で行く先を指示しているらしい
会話風の表現があったあと、やっぱり自分は帰るのだ、との
一種の心情吐露が、下の句で述べられる、というものだったが。

短歌は短いので、主語も補語もない上の句は、誰が誰に言っているのか、
どういう場面なのか、が読み取りにくい。私は上の句から下の句への流れを
うまく掴めないままで、選歌には至らなかった。当日の参加者のほとんどが
そうだったように思える。ところが、一人Mさんだけがこの歌に票を入れ、
じつに適切に歌に込められた心情を掬い上げて見せてくれたのである。

主体がどこかから自宅へ帰るとき、おそらくタクシーの運転手に
「その先を〇〇へ」と指示している。それが上の句。下の句では
そう告げた以上、やっぱり自分はいつものところへ帰るんだ、と
自己確認している。でも、かすかな葛藤があるんだと思う。新しい場所、
あるいはどこか遠い場所へ行けたら、行きたい、ってそういう思いもあるんだ、
って、その微妙な心の揺れが出ている、と思って選びました。

歌会の仲間に、こういう繊細な読みをしてくれる人がいて、本当に
よかった、と思えた。短い時間に選歌し、すぐに批評に入る、という
やり方の危ないところを改めて感じさせられた歌会になったのだった。
帰り道、この歌の作者と一緒になった時、
「Mさんがきちんと読んでくれてたんだよね」
というと、彼女は満面の笑みを浮かべてうなづいていた。
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