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四度目のワクチン接種 [生活]

七月の中旬、市役所からワクチン接種券が届いた。
三月の上旬に三度目を摂取している私たち夫婦。今度は
四度目になる。ああ、いつまで続くのか、このワクチン行脚。
と、心がズシリと重くなるが。とりあえず予約を、とネットで
調べてみると・・・。

これまで利用していたた地域センターでの集団接種の
開催日が、今回から極端に少なくなっていて、九月下旬にならないと
空きがないことがわかる。私は九月十、十一日に京都で行われる
「塔短歌会」のシンポジウムに参加する予定があるので、その前、
少なくとも十日くらい前までに接種を済ませたい。

いつも利用している近くの内科と整形外科でも接種を行っている、
とあったが、いずれも八月中は空きがないことがわかった。
しまった、どうしよう。とりあえず、どこでもいい、八月中に
接種できる病院を、と探してみると、徒歩十数分のところにある
〇〇医院に空きがあるのがみつかった。この医院は、私が学生時代
からある、とても古い医院なのだが、一度も利用したことはない。

住宅地内にある小さな医院で、駐車場もないようなところなので
(実際は、敷地内に二~三台分あった)、利用しにくい、という
こともあったが。とりあえず、もう選択の余地がないので、ここに
予約を入れることにした。当日は先ず、車で近くのスーパーへ。
駐車場に入れて、そこから徒歩で行くことにした。

見かけはほとんど普通の民家で、小さな看板が無ければ、間違いなく
見落とすような医院である。入り口もよくわからず、ちょっと
うろたえた。ドアを押すと、ややかび臭い匂いが・・・。
昭和の雰囲気たっぷりの、小さな待合室。壁に貼ってある、ポスターも
かなり年季が入っている様子。なんだか、古い映画の中に
紛れ込んだような気持ち。

予約時間の11時に、まだ15分ほどあるが、受付を済ませる。
私たちの前に客は一人もなく・・・。その後二人の客が
きたが、いずれもコロナのワクチン接種の人だった。

医師は、七十代半ばくらいの、柔和な男性。
絶えず温かい笑顔を浮かべていて、とても親切。
丁寧に説明してくれ、接種後15分して、また診察室に呼ばれ、
副反応についての説明を受けてから帰宅した。
一時、なんだか別の国に出かけていたような不思議な気分。

こんな医院がまだあったんだね。
ふんわりした気分で帰途につきました。
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折々の歌人・大森静佳 [短歌]

大森静佳さんの第三歌集『ヘクタール』が発刊された。
大森さんの作歌力の旺盛さに、目がくらむ。
眩めく目をこすりながら読む。

私はきっと、大森さんの良き読者ではないだろうなあ、と
想いながら読む。好きな歌はたくさんある、でもわからない
歌が同じくらいあるからだ。わからない、ということを
どうとらえたらいいのか、と思いながら、悩みながら、読む。

たぶん、これは、大森さんが仕掛けている罠、なのだ、と
想いながら読む。人の心を捉える、しなやかな罠。

まず、「風」をキーワードに読んでみることにする。
冒頭近く
  
 からだのなかを暗いとおもったことがない 風に痙攣する白木蓮
 風というものがこの世にありながらどうしてひとに血ののぼる頬

歌意は? と突き詰めようとするとはぐらかされるような二首。
だが、風の軽やかさが、命あるものの、重さ、痛々しさを
慰撫していくような感覚を受ける。なにより、映像が鮮やかだ。
一首目は、モノクロの映像のなかに、際やかに浮き上がる白、
二首目は、美しい鮮血の赤。巧みな罠仕掛人の手腕を感じる。

 風という民族のため立ちつくす今日のわたしは耳そよがせて
 風の夜 ときおりシベリア鉄道を祖先のような陰翳とおもう

不思議な歌である。一首目には、風の時間を共に生きている感覚、
二首目には、風が持つ距離感を共有している感覚がある。

『ヘクタール』を読み始めて、三週間以上は経つ。
一首一首に厚みがあって、なかなか進まない。読みながら、
考えている時間がとても長くなる。罠にかかっていることを
自ら感じ、快感さえ生まれ・・・。罪作りの大森さん・・・・。




  
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雑草からの妄想? [生活]

敷地面積はたぶん、六十坪強。我が家からほど近くのその地に
古い二階建ての家が建っていたが、今年の春、家は庭木もろとも
綺麗に撤去され、更地になった。新築工事はなかなか始まらず。

その間に、見る間に雑草が伸び始め、今は小高い緑の丘、のよう。
ああ、日本の雑草繁殖力って凄いなあ、と通る度に感心する。

以前は、嫌だな、雑草だらけなのは、と嫌悪感が先立った。
でも、世界のあちこちを旅してみると、この雑草への思いも
かなり変わった。世界には、いわゆる「ぺんぺん草さえ生えない」
という地が多いのである。地味が痩せている、あるいは降水量が
少ない、などの理由から。日本は放って置いても雑草の生える、
豊かな地なのだ。有難いことである。

私が住む地域は、半世紀ほど前に開発された住宅地で、
世代交代が進んでいる。住人が年老い、やがて空家になり、そして
古い家屋が壊され、新家屋が建ち、若い世代が入居する、という例が
多くなっている。かつては広めに庭を確保して、庭木を植えて
いる家が多かったが、新しい世代はまず例外なく、庭に木を
植えない。駐車場を二、三台分確保し、家の周りには砂利など
を敷く。人工芝を敷いているお宅も見かける。みんな、庭木の
手入れや雑草の処理に追われるのが嫌なのだろう。

その気持ちはよくわかるけれど。ちょっと寂しい気持ちもする。
庭に砂利を敷き詰めては、虫たちが生息できなくなるだろうと
いうのが一つ。我が家の庭も、私ができるだけ草取りをしている。
大変ではあるけれど、沢山の虫、そして蜥蜴などが生息している
のを見るのも楽しみだからだ。ちなみに、我が家の庭に普通に
棲み付いているニホンカナヘビは、二十三区内ではもう、
絶滅危惧種になっているという。草地が減っているからだろう。

植栽が減って、砂利ばかりになると、温暖化もさらに
進みそうな気がする。木が一本ある、というだけで、日陰ができ、
風も柔らかくなり、涼しさも増す、というもの。

ウクライナへのロシアの侵攻以来、エネルギー危機が
にわかに問題になってきているけれど。みんなが少しずつ、
生活の仕方を変えていく、というかたちで対応していける余地は
ないのかな、と思ってしまう。甘い妄想、と言われそうだが。
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砂糖をめぐる旅 [旅]

二十年ほど前、製糖が行われている地域を訪ねる旅を
始めました。お菓子の文化について調べたり、書いたり
していたので、その一環として、です。その紀行文を
精糖工業会発行の季刊誌「糖業資報」に不定期に寄稿して
いたのですが、昨年、コロナ籠りをしていた時にふと
思い付き、まとめて出版することにし、このほど無事
刊行にこぎつけることができました。

IMG_20220819_144627.jpg

訪れた国は、カリブ海のキューバ、バルバドス、インド洋の
モーリシャス、イタリアのシチリア島、カンボジア、ジャワ島、
などなど。製糖工場を訪ねたり、甘蔗畑で作業する様子を
取材させてもらったり。また、糖蜜から製造されるラム酒や
黒糖焼酎などのお酒や、砂糖を用いて作られる、各地の
お菓子についても言及しています。

旅の写真もふんだんに挿入しましたので、きっと楽しんで
もらえるはず。キューバの頁をちらっとご覧下さい。

IMG_20220819_144713.jpg

アマゾンに販売委託しているので、興味のある方は
そちらも覗いてみて下さい。
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文章を書いてきて(その7) [文学]

みじかい雑文ならいくらでも書ける。でも、その域を
超えた文章を、となるとなかなか容易ではなかった。
当初は、何も考えずに書ける、と過信して書き始めては
行き詰まる、ということも多くあり。何度も頭を抱えた。

私に、それとなくノウハウを与えてくれたのは、ほかならぬ
相棒だった。彼も大学院時代にあれこれと試行錯誤しながら
身に着けてきていたものらしいのだが。面白いのは、折々の
お喋りのなかに登場する、箴言、のような、警句のようなもの。
曰く

 一晩で四十枚書けないやつは、一生四十枚書けない
 文章は寝ながら書く
 慣れれば最終の頁から最初へ、逆に書くことだってできる

などなど、である。彼は関西人だから、何かということが大仰で、
言葉のままは受け取れないところがあるのだが。

私が最も納得できたことは「寝ながら書く」という一点だった。
長い文章を書くときは、書く前に十分に考えなければならない。
文章全体の設計図のようなものを作り上げる必要があるのだ。
このことが本当に理解できるまで、結構時間がかかったのだけれど。

その設計図を組み立てるには、何もPCの前で呻吟する必要はない。
それよりも、身体を動かして何か別の作業中に並行してやる、
ということの方がはるかに効率的だし、良いアイディアも湧きやすい。

寝ながら書く、というのも、あるアイディアが見つかった場合、
その展開方法をあれこれ考え、そしていったんはそこから離れて
別のことをする、あるいは考える時間を置く。そしてしばらく
経ってから、なんとなくうつらうつらと覚醒しているかどうか
危うい淵にいるような時に、ふっと全体像を思い浮かべてみる、
そういうプロセスを経た方がいい、ということのようである。

文章を書くという場面では、まだまだ、試行錯誤は続いている。
でも、苦行だったことは過去、今は楽しい迷いの場になっている。
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文章を書いてきて(その6) [文学]

村上春樹『騎士団長殺し』の主人公は画家で、「食べていく」
ために肖像画を書く仕事をしている、という設定になっている。
本来は抽象画を描きたい、という望みを持っているのだが、
とにかく、絵を描くという場面、絵について何か語る場面が
多々登場して、この分野に興味がある私には極めて楽しい書。

 「絵に描ける?」と彼女は尋ねた。
 「似顔絵のようなもの?」
 「そう。だって画家なんでしょう?」 
 私はポケットからメモ帳を取りだし、シャープペンシルを
 使ってその男の顔を素早く描いた。陰翳までつけた。・・
 男の方をちらちらと見る必要もなかった。私には人の
 顔を一目で素早く捉え、脳裏に焼き付ける能力が具わっている。
            村上春樹『騎士団長殺し』

絵を描くノウハウは、文章を書くそれと、かなり共通性があると
感じる。私も何か書こう、と志すとまもなく、文章の全体が
頭の中に浮かび上がって、かなり素早く写し取ることができる。
ただし、短い文章である。せいぜい、600字くらいまでの。

それ以上の文章はどのように書けばいいのか。たとえば、原稿用紙
20枚以上の文章。文章の種類によっても書き方は変わるだろう、
評論、書評、紀行文・・・。

自信はなかった。将来の見通しなんか、とても立たなかった。
でも、挑戦してみたい、という気持ちは十分にあった。
難しい公務員試験を受けて、安定した職業についてはいたのだが、
私は退職することにした。周囲の人の九割以上が反対した。

なにするつもり。子供もいないのに。退屈するだけでしょ。
アメリカに行くから? そんなところに行ったって、英語が
身に着くと限らないだろう。それどころか、日本語の方を
忘れちゃったりして・・・。帰国したら、夜間に職場を清掃
する仕事、紹介してやるよ・・・。

不安はいっぱいだった。でも、新しいことに挑戦する
ワクワクする気持ちの方が、ちょっとだけ勝っていた。

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文章を書いてきて(その5) [文学]

大学時代は、このブログでも書いたことがあるが、
社会科学系のサークルに所属していて、ある地域を取り上げ、
町の生い立ちの歴史を調べたり、地域振興政策などについて
検討したりする活動をしていた。一年に一度、報告書を書いて
みんなで討論する、という場もあり。ここでだいぶ
「客観的な」文章を書く訓練はしたはずなのだけれど。

毎回、四苦八苦したことを覚えている。でもおかげで、
地方自治体の職員採用試験には合格できたのだから、
(試験には、提示された複数の課題から一つテーマを選んで
論述する、項目が含まれていた)多少は成果があったといえる。

配属先は、広報課、あるいは市史編纂室のある教育委員会などを
希望したのだが。国民健康保険とか戸籍とかを扱う市民課系だった。
四年後には配転希望を出せたのだが、なんと
第五希望(こんなの希望、って言わないよね)としてやむを得ず
書いた市民税課に回されてしまった!

毎日、泣きたいほど憂鬱な日々だったが、
同期の友人の友人が福利厚生課にいて、その関係から、
「職員報に何か書いて」と頼まれたのが、一つの契機になった。

ちょうど短歌に興味を持ち始めたときだったので、与謝野晶子と
山川登美子について書いた。原稿用紙二枚程度の分量だった。
その文章を読んでくれた広報課の人から、「市民グラフ」に
書いてほしい、と依頼がきたのである。正式には「市民グラフ
ヨコハマ」という季刊誌で、「横浜市内を走る電車(列車)特集」
という企画を立てている、私には「横浜線」を担当して
ほしい、とのことだった。分量は八枚。これまで、書いたことの
ない長さで、ちょっと武者震い(大げさだね)したのを覚えている。

広報課の依頼は、あくまで、本来の職務外、とみなされるものだった
ので、取材や調査は休日を使って、交通費は自腹。でも、自分の
書いた文章が、商業誌(市民グラフは、市内の書店で200円くらい
で販売されていた)に載る、ということはそれだけでワクワクする
ことだった。しかも、写真がふんだんに入る。

発刊されたグラフを見ると、東海道線や東急東横線をおしのけ、
当時はボロいローカル線だった横浜線が、冒頭に置かれていた。
美しいカラー写真付きで。嬉しかった。私はやっぱ、何かモノを
書く人になりたい。と、強く思った瞬間だった。
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文章を書いてきて(その4) [文学]

中学、高校と、さほど読書もせず、文章を書くことも少なく、
小学生の頃に抱いた「何かモノを書く人になりたい」という
淡い願望も忘れて過ごしていた。十代半ばというのは、
親とも何かともめ事が多く、友人などとのゴタゴタもありで、
精神的に不安定な時期だった。何か好きなことに集中できて
いたら、かなり楽に過ごせただろうに、と思うのだが。

大学生になると、全く異なった形で文章を書く、という
場面が増えて来て、私は大いに戸惑った。
授業の課題の「レポート」である。当時は一般教養が
必修科目としてあり、その一つにわたしは地理学を
採ったのだが、提出を求められたレポートの課題が
「ソ連の地誌について」だった。こういう課題は、
そのたぐいの本をみつけて、「写す」しかないのでは・・・。

そんなことはかなり無意味な感じがする。では、どう書けば
いいのだろう。一般教養の経済学の夏休みの課題は
「『サルが人間になるにあたっての労働の役割』を読んで
矛盾点を指摘せよ」というもの。「写す」必要はないが、
これはこれでかなり難しい課題だった。

私は、レポートの文章が書けない、課題図書を読みこなせない、
という二つの難題の前に途方に暮れた。そして初めて、
好きなように読み、好きなように書いてきた自分は、
何の方法論も身に着けていなかったことに気づいたのである。
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文章を書いてきて(その3) [文学]

五年生になると担任が変わったが、やはり女性のK先生。
母の世代で、てきぱきとことを運ぶ気持ちのいい先生だった。
K先生宛に出した暑中見舞いが山形新聞主催の「おたよりコンクール」
で、山形郵便局長賞を受賞する、ということもあった。当時
私は、江戸川乱歩に狂っていて、「夏の暑さに、怖いお話が
もってこいです」などと書いた記憶がある。
思い返すに、小学校時代はとにかく好きで書き散らしていたのだから、
文章と私の蜜月時代だった、といえそうだ。

中学に入ると、状況は一変した。中学校の図書室は普通教室を
図書室代わりにしつらえただけ。おまけに開架式ではなかった。
父の会社に併設されている図書室にも相変わらず出かけていたが、
読みたい本が中々見いだせないようになっていた。

歌人で翻訳家でもある井辻朱美さんは詩集『エルフランドの
角笛』のあとがきに

 ラング童話集やロビン・フッド、アーサー王伝説などが私の書架を
 飾っていた頃、そして、中学生ともなれば、そうした「万能」の物語
 空間を捨て、現実の社会や日常性そのものに目を向けることを期待
 され・・・る頃であったが・・・

その頃にワグナーを聞き始め、詩を書き始めることになった、と
告白されている。ラングの〇色の童話集のシリーズは、私も夢中に
なって読んだ記憶があるが、ワグナーなんて、別世界だった。
童話の世界から追放された私は、父が購入してくれた日本文学全集を
(やむを得ず)読み始めたが、井辻さんが書かれているとおりの
「日常性そのもの」の色濃い世界に、何度も中断することになった。

中学生活は、部活(テニス部)の方が面白く、文章を書くことは
だんだん稀になっていった。小学校の時の文章書きは、ただだらだらと
書き流していただけ。あんなやり方で、なにかモノになる、と
一瞬でも思ったことが恥ずかしい、と感じるようになっていった。

大人の入り口でもある中学生の頃に、好きなものをみつけ、
幼少期からの興味を育てていく方向性を発見された井辻さんが羨ましい。
私は、中学校を境に、ある意味、大きな混迷期に入っていって
しまっていたのだ。振り返って、そう思うのである。

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文章を書いてきて(その2) [文学]

一、二年生の時の担任だったT先生は、どんな文章を
書いても褒めてくれて、こまめにコメントもつけてくれる。
それが楽しみで、私は毎日のように何か書いては、せっせと見せに行った。
一年生の終り頃、「日記を書いてみてはどうかしら」と
提案されたので、早速日記帳を買ってもらって書き始め、
それも週一くらいの割合で先生に見てもらった。日記帳はもう
捨ててしまったが、毎日の日記の終りに、赤ペンによる
先生の感想が入る、ということになった。

年度の終りには、クラス全員が一年間の作文帳を一冊にまとめ、
名前も付けて、一冊の本のように仕上げることになった。
私の作文帳は七、八冊。クラスでは断トツの厚さだった。
最近まで家にあったと思うのだが、捨ててしまったかもしれない。
題もつけたが、少女趣味丸出しで、恥ずかしすぎるので
ここには書かない。

大好きだったT先生は、三年生になったとき、ほかの地区の
学校に転任されて行ってしまった。まもなく結婚された、
という噂も聞いた。新しい担任はやはり若い女性のA先生だったが、
T先生とはまるで違うタイプ。日記帳を見せに行くと
「日記は、人に見せるために書くものではないですよ」
と言いながら、それでも読んでくれて、
「何か一つのことに絞ってかいてもいいかもしれないわね」
とおっしゃった。それ以外コメントもお褒めの言葉もなし。
私はそれから先生に見せに行くのをやめた。

文章は相変わらず書いて、時々見てもらっていたが
「感想文にあらすじはいらないです」
「二、三メートルいくと・・って、本当?
二、三メートルはそこのドアくらいまでの距離ですよ」
と、次々に指摘される。まもなく山形新聞の置賜板に
小学生の作文の掲載欄ができて、先生は誰かの文章を推薦する
当番にでもあたったのか、私に何か書きなさい、と言ってきた。

私は喜んで、ちょうど通学路の橋の改修工事が行われることに
ついて書いたのだけれど。先生はざっと読むと、何か考え込む様子。
「う~ん、まあ、これでもしょうがないか、時間もないし」
私は気に入ってもらえなかったことに落胆した。

その文章はそのまま山形新聞に掲載されて、当時は我が家は
他の新聞をとっていたので、近所の友人に頼んで、
記事の切り抜きをもらってきたことを覚えている。
友人も友人のお母さんも褒めてくれたけれど、私は先生の
あの曇った表情を思い出して、ちっとも嬉しくなかったことを
覚えている。何がいけなかったんだろう、とずっと心に留めながら、
それでも私は今まで同様、文章を書き続けていた。
田舎の町に住んでいて、特に冬は大雪が積もり、外出できない。
私には文章を書くことが、楽しいお遊びだった。

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