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文章を書いてきて(その2) [文学]

一、二年生の時の担任だったT先生は、どんな文章を
書いても褒めてくれて、こまめにコメントもつけてくれる。
それが楽しみで、私は毎日のように何か書いては、せっせと見せに行った。
一年生の終り頃、「日記を書いてみてはどうかしら」と
提案されたので、早速日記帳を買ってもらって書き始め、
それも週一くらいの割合で先生に見てもらった。日記帳はもう
捨ててしまったが、毎日の日記の終りに、赤ペンによる
先生の感想が入る、ということになった。

年度の終りには、クラス全員が一年間の作文帳を一冊にまとめ、
名前も付けて、一冊の本のように仕上げることになった。
私の作文帳は七、八冊。クラスでは断トツの厚さだった。
最近まで家にあったと思うのだが、捨ててしまったかもしれない。
題もつけたが、少女趣味丸出しで、恥ずかしすぎるので
ここには書かない。

大好きだったT先生は、三年生になったとき、ほかの地区の
学校に転任されて行ってしまった。まもなく結婚された、
という噂も聞いた。新しい担任はやはり若い女性のA先生だったが、
T先生とはまるで違うタイプ。日記帳を見せに行くと
「日記は、人に見せるために書くものではないですよ」
と言いながら、それでも読んでくれて、
「何か一つのことに絞ってかいてもいいかもしれないわね」
とおっしゃった。それ以外コメントもお褒めの言葉もなし。
私はそれから先生に見せに行くのをやめた。

文章は相変わらず書いて、時々見てもらっていたが
「感想文にあらすじはいらないです」
「二、三メートルいくと・・って、本当?
二、三メートルはそこのドアくらいまでの距離ですよ」
と、次々に指摘される。まもなく山形新聞の置賜板に
小学生の作文の掲載欄ができて、先生は誰かの文章を推薦する
当番にでもあたったのか、私に何か書きなさい、と言ってきた。

私は喜んで、ちょうど通学路の橋の改修工事が行われることに
ついて書いたのだけれど。先生はざっと読むと、何か考え込む様子。
「う~ん、まあ、これでもしょうがないか、時間もないし」
私は気に入ってもらえなかったことに落胆した。

その文章はそのまま山形新聞に掲載されて、当時は我が家は
他の新聞をとっていたので、近所の友人に頼んで、
記事の切り抜きをもらってきたことを覚えている。
友人も友人のお母さんも褒めてくれたけれど、私は先生の
あの曇った表情を思い出して、ちっとも嬉しくなかったことを
覚えている。何がいけなかったんだろう、とずっと心に留めながら、
それでも私は今まで同様、文章を書き続けていた。
田舎の町に住んでいて、特に冬は大雪が積もり、外出できない。
私には文章を書くことが、楽しいお遊びだった。

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