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エロール・ル・カイン [藝術]

手元にある一冊の絵本。Errol Le Cain
のイラストによる『 HIAWATHA'S CHILDHOOD』には、
「£9.99」というレッテルがついているので、九十年代の初めころ
イギリスに出かけたときに買ったものである。

選んだのは相棒だったことを覚えている。
「絵がすごくいいじゃない。この本、買おうよ」
そう言われて、ちょっとためらったのは私の方だった。
深みのある色彩が使ってあるが、全体に画面が暗い。
お話の主人公はインディアンの少年らしい。

ぱらぱらとめくってみると、大胆な構図で捉えられた、
北米の原始的な風景が素晴らしい、と気がつき、
購入することにしたのだった。当時は、良い絵本があって、
訳してみて面白ければ、出版社に持ち込もう、という
気もあったのだった。

帰国してから調べてみて、ル・カインはすでにとても
良く知られた絵本画家で、日本でも既に沢山紹介されており、
私が購入した本も『ハイワサの小さかったころ』と言う題で、
出版されていたのだった。
「ほらね、やっぱ、良い本だったろ?」と相棒は得意そうに言う。

私はル・カインが挿絵を描いた他の本も探して読んでみた。
47歳という若さで、八十年代の終わりに亡くなっている、と
知って驚いたりしたのだった。そんなこんなしていた折・・。

私が所属する短歌結社「塔」は本部が京都にあり、二十年位前
までは、編集担当の人たちや選者の人たちが東京にやってきて、
「東京大会」なるものを開いていた。その時、今は亡き河野裕子さんが
私に突然、こんなことを話しかけてきたのである。
「ねえ、ル・カインって、凄い絵描くわよね」
え、あれ、私が最近興味持っていたこと、何で知ってるんだろう?

焦っていると、
「どうして、あんな色彩が出せるのかしら。ねえ、
どうしてだと思う?」
「う~ん、シンガポール生まれで、アジアの文化に
親しみながら、イギリスで教育受けてきたってことだし、
その多様性から来てるのかもしれませんね」
などと、思い付きを(冷や汗かきながら)答えた記憶がある。
裕子さんはときどき、思っていることをずばっと
当てるような、なにか不思議な能力を持った方だった、
と今も思うのである。


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コアラ [生活]

コアラについて調べてみる必要が出て、もう
四半世紀も前にオーストリアを訪ねた折に購入した
『Australia' Animals 』という本を取り出した。
A4判でわずか64頁の本に、綺麗な写真が満載されていて、
購入した当時は写真だけを見て楽しんでいた。

動物の本なので、その方面の難しい単語が頻出し、
知らない英単語が沢山出てくるので、文章はほとんど目を
通していなかったのだが・・・。この本では、さすがにコアラ、
オーストラリアを代表する動物である(ちなみに、カンガルーの
四頁には負けているが)。三頁も割かれていて、この動物の特徴に
ついて詳述されている。たちまち、のめりこむ様に読んだ。
知らなかったことばかり、そして驚くことばかり。

コアラがその食事のほとんどを、ユーカリの葉に
頼っている、ということは、日本でもかなり知られている。
でも、水を全くと言っていいほど飲まない、って・・・。
知ってましたか? コアラと言う名称は、アボリジニの
言葉で「No drink」という意味なのだそうだ。

有袋類ということも、日本ではあまり知られていないかも。
コアラの母親は、子供を八カ月ほどもおなかの袋から
出さずに育て、その後も抱いたり背負ったりしながら、
二歳くらいまで身近で育てる。離乳は生後二十か月くらいだが、
そのすぐ後の離乳食が凄い!当該部分は、ちょっと日本語訳を
はばかれるので、興味のある方は自分で訳してみて下さい。

  The young is weaned from milk to gum leaves in a most
unusual way. When the baby is about twelve months old the
mother begins feeding it pellets of faecal material from her
digesteve tract. 『Australia's Animals』
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短歌のことば [短歌]

歌会をしていると、時々、
「こういう言い回し、変じゃないですか?」
と、訊かれるときがある。短歌に独特の言葉の使い方、
というのが確かにあって、古い言い回しだったり、
文語だったりと、種々あるけれど、とにかく現代の
口語ではほとんど使わない表現が多々あることは確か。

たった31文字で組み立てなければならない、という
制限のため、端的に表してくれそう、となると
少々古くても、耳慣れない言葉であっても、私は使ってしまう。
いや、わかりすぎるより、何か引っかかりができて、
立ち止まって考えるための、堰のような部分ができるのも
面白いかな、と積極的に使う。

最近、歌会でこんな歌を詠んだ。

  刃を平めそぎ落とし行く薄蒼き側線 長き魚の耳なり
                        岡部史

ところが、ある会員から「平め」って、何ですか?
表記が間違っている?と、質問された。
これは動詞「平(ひら)む」の連用形なのだが、そもそも
「平む」という動詞をご存じなかったらしい。長く短歌を
詠まれている方だったので、少々驚いた。のだが、しかし。

  かがやく黄と透りくるまでジャムを煮る翅を平めしやうに坐りて
                       盛岡貞香

十数年前、この歌に出会わなければ、この動詞を知らないまま
だったかもしれないのである。この歌を読んだ時、私はたちまち
「平む」ということばに感応し、長いことどこかで使いたいなあ、
と思っていたのだった・・・。
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絵画のうた(その7) [短歌]

「塔」に入会する少し前、二十代の後半に、
私は少しだけ、若い人たちだけで開催される
別の結社の歌会にも出席していた。
短歌を続けていくかどうか、決心がつかないでいた頃だ。
このグループには、優れた学生歌人が沢山いて、
私は「歌を始めるには年を取りすぎちゃっている」
と、たびたび落ち込んだりもしたのだったが。

そんな仲間の一人に、木谷麦子さんがいた。
シャープな歌を次々に発表されていたのだが、
私が特に惹かれたのは、「絵を描く自分」を
詠まれた歌だった。ああ、短歌って、こんなことも
できるんだ、と超初心者の私は、何度も瞠目した。

  よこがほに薄く陰翳つけをへて落書相手に物語する
  ゆびきりの指の形を紙にかく相手はあらぬ約束の指
  音するほど筆たたきつけ描きてみたし何を何をと荒るる心を
                  木谷麦子

他にも、「絵を描く歌」は沢山詠ませてもらっているはずだが、
もうだいぶ前のことなので、プリント類が散逸してしまっている。
上記はわずかに手元に残してある結社誌「まひる野」に見えるのみ。

私はその後まもなく、このグループから離れてしまった。
木谷さんは短歌を止めてしまわれたようだが、卒業後、
教育関係の方面に進まれ、その後は、美術関係の方面で、
活躍されているようなことを、風の便りに聞いている。

私は短歌を始める、その門口で優秀な歌人に沢山巡り合えたのだが、
彼女たちはほとんど、歌を止めてしまった。でも、もしかしたら
自分を歌に詠んできたことが、自分の好きなことを強く自覚する
契機になった、ということもあるのかもしれない。

絵を歌に詠むことがある種、暗示になって、
より絵が好きになる、絵を描く自分、絵を鑑賞する自分をさらに
すきになる、というようなことは大いにありそう、
と思うのである。だから短歌を捨てて、別の分野に進んだ、
というのは、かなり皮肉な話ではあるのだが。
短歌は自覚しきれていない自分に気づかせてくれる、と言う点で
とても不思議な詩形なのである。(とりあえず、この項、ここで終わります)
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絵画のうた(その6) [短歌]

また葛原の作品になってしまうのだけれど

  コルシカの桃の花盛りが昏(くら)々と顕はれし日のマチスの心の部屋
                     葛原妙子『縄文』

マチスは大好きな画家で、短歌を始めたばかりの頃、私もマチスの
絵を詠んだことがある。大好きな「赤い食卓」である。そして上記の
葛原の歌も、きっと「赤い食卓」を詠んでいるのだ、と思い込んでいた。
というのも、この絵の左手、食卓が置かれた部屋の窓が開かれていて、
窓の外には、桃の花のような白い花をつけた木が見えるからである。

でも、何度もこの歌を心の中で転がしているうち、いや、特に
どの絵と想定して読む必要はないのではないか、と思うようになった。

マチスは二十代の終わりにコルシカ島を旅行している。北フランス生まれの
彼にとって、この地中海の島は、さぞや光と色に溢れた、明るい
豊かさに充ち満ちた地に見えたにちがいない。その光景が若い心に
焼き付き、その後の彼の作品に大きな影響を与え続けたのではないか。
葛原はそのあたりのことを、推し測っていたのではないだろうか。

「昏々と」は、深いところに沈んでいた記憶をくみ上げているような、
重い心動きを示唆することばである。
単に明るさ、豊かさだけではなく、当時マチスが抱えていただろう、
絵を巡っての迷いや、葛藤や、狂おしい野望のようなものまで、
(当時の彼の画風の変遷を見ると、こうしたものが皆無だったとは
とても思えない)この歌に暗示されているようで魅了されるのである。
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絵画のうた(その5) [短歌]

 弱りゐるこころに三羽の小鳥来ぬ駒井哲郎の銅版画の鳥
                栗木京子『夏のうしろ』

駒井哲郎はなんとなく名前を知っている、と言う程度で
特に興味を持ってその作品を見た、と言う記憶はなかった。
栗木さんの上記の歌を読んだ時、すうっとまず、この画家の
優しく童画的な雰囲気が浮かんできた。

ネットなどで改めてこの画家の作品に触れてみて、
にわかに好感を持ったことを、思い出す。栗木さんが
心が弱っていた時、思い浮かべた、ということに
すんなりと納得もしたのだった。

こんな風に、短歌によって絵画の見方を提示される、
ということは、私の場合よくある。しばらくは歌人の
心に寄り添って絵を鑑賞し、そしていったんは忘れる。
しばらくしてもう一度絵を見ると、自分なりの絵画への
視点が見出されたりもする。歌にとらわれる必要はない。
興味を持つきっかけを与えてくれたことに感謝するのみ。
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絵画のうた(その4) [短歌]

あまりにも有名な歌なので、引用するのが気が引けるほどなのだが

  ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
                        齋藤茂吉『赤光』

ゴーガン(ゴーギャン)は、自画像を多々描いていて、私が持っている
『ファブリ世界名画集・ゴーガン』(平凡社)と『現代世界の美術・ゴーギャン』
(集英社)の二冊だけでも数点見られる。いずれも細長い顔、インド亜大陸の
ように額に三角形に垂れている黒々とした前髪、八の字型の口髭と、尖った
顎を縁どる顎髭に特徴がある。私はこれらの自画像から、ゴーギャンという
人物は、意外に言葉巧みな詐欺師的な面があったのではないか、と思うのだが。

茂吉がこの歌で詠んでいるのは、どの自画像なのだろう。子供の頃、
何かやりきれない思いのまま、小さな生き物をいびり殺してしまった、
そんな思い出をよみがえらせるような自画像・・・。

というのも、当然のごとく、その時々で、ゴーギャンの自画像は
異なった表情をしていて、孤独に沈むような沈鬱なもの、
ほとんどこちらに背を向けているような、表情の見えない角度から
描かれたもの、キリストになぞらえた、ややコミカルな作など、
実に多様なのだ。自分と言う素材を十分に楽しんでいたような、
この画家のしたたかな面も見えるのだ。

そんななか、ゴッホに頼まれて描いたという「レ・ミゼラブルの自画像」
と名付けられた絵は、こちら側を斜めに見据えた視線が鋭く、
こらえきれない鬱屈を、今まさに吐き出そうとしているかのような、
緊張に充ちた表情をしている。茂吉の心を捉え、幼児期の昏い記憶を
引き出したのは、この絵だったのではないか、と私には思える。

短歌には、歌を詠む自分を詠む歌、というような作品も多々
あって、絵画の自画像に近い感じがするのだが。その表現法は、
絵画に比べ、やや自虐的ものに傾きやすい、ように思える。
短歌と言う分野のマイナー性が、その根本にあるのではないだろうか。

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絵画のうた(その3) [短歌]

先日、部屋の棚を掃除していたら、意外なものが見つかった。
中学生の頃に購入していた学習雑誌のグラビアを集めたもので、
いずれも世界の名画。中三になったころ、その雑誌のグラビアの
印刷が格段に良くなって、嬉しかったことも思い出した。

裏面に「旺文社立体世界名画」とあり、短い解説がついている。
今見ても色彩は鮮やかで、当時、何度も取り出しては見入って
いたことが思い出される。セザンヌの「赤いチョッキの少年」
ミレー「落穂拾い」ピサロ「井戸端の二人」・・・。

大学生になってからも、雑誌類や、銀行からもらう暦に載っている
絵画まで切り取って集めていた記憶があるのだが、印刷が
劣化するまま、捨ててしまった。その中に一枚、とても
不思議な魅力的な絵があったことを、最近思い出した。
きっかけは短歌である。

  虹のごとよみがへりくる画のなかに妹が姉の乳首をつまむ
                日高堯子『樹雨』

作者は誰だったんだろう。今はネットがあるから断然便利。
直ぐに調べがついた。作者は不詳だが、描かれているのは、
アンリ四世の愛妾、ガブリエレとその妹。ルーブルに収蔵されている
一枚らしい。入浴中を描いたもの、とこの度初めて知った。

妹はなぜ、姉の乳首をつまんだのか、つままれた姉は
どんな思いだったのか。二人は艶然とたたずむのみで、
その表情から心のうちは読めない。

それでも、二人の美しく輝く肌と、整った胸部が
爽やかなエロスを漂わせていて、何とも魅惑的な絵なのだ。
日高さんが「虹のようによみがえってくる」と表現されているように、
私も時々、不思議な幻想のようにその絵のことを思い出すのである。
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絵画のうた(その2) [短歌]

先回に続き、絵画を詠んだ葛原妙子の作品をもう一首。

  マリヤの胸にくれなゐの乳頭を点じたるかなしみふかき絵を去りかねつ
                         葛原妙子『飛行』

この歌を読んだ時、あ、誰の絵画が詠まれているのだろう、と思った。
聖母が胸をあらわにしているような絵を見たことがなかったからである。
調べてみると、乳児であるキリストに授乳する絵は、多くの画家によって
描かれているようである。葛原が詠んだのは、その手の絵画だったのだろうか。
でも、絵を特定する必要はない、と思わせる歌である。言葉の力が
ぐん、と前面に押し出て、絵の世界を後方へ押しやっている、そんな印象がある。

私は、マリヤのかなしみから出発しながら、
女性の肉体のかなしみへと普遍化されていく、そんな作品として読んだ。
そのような絵を、自分の中で想像しながら。

有名な絵が詠まれた作品である場合、読者はすぐに描かれた絵の世界へと
心を馳せてしまう。短歌より絵の鑑賞のほうへ、より心を傾けて
しまいがちだ。そのあたりが、名画や名作を歌に詠むことの難しさが
あるのだろう。(続きます)
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絵画のうた [短歌]

私は絵画を短歌に詠むことがけっこう、ある。
芸術品を短歌にすることに、批判する向きもあるみたいだが、
私自身は他の人が絵画を詠った作品を読むのも好きなのだ。
それはたぶん、私の好きな歌人、葛原妙子がよく手掛けているから、
だろうと思う。

  糸杉がめらめらと宙に攀づる絵をさびしくこころあへぐ日に見き
                    葛原妙子『飛行』

この歌に出会ったとき、作歌を始めて間もないころだったこともあり、
すごく驚いたことを覚えている。葛原はこれが誰の作品かは
一言も言っていない。でも、すぐに、あの画家のあの絵だ、とわかる。
そう、ゴッホの「糸杉」である。ゴッホは他にも「星月夜」や
「星月夜と糸杉の道」でも、燃え上がる炎のような糸杉を描いている。
でも、空に燃え上がるように立つ糸杉のイメージでいえば、
明らかに「糸杉」の方だろうと、思われるのだ。

ゴッホの絵の糸杉には、狂気を秘めた力強さがあり、めくるめく
情念の炎が渦巻いているように見える。
でも葛原自身も、しっかり絵の中の糸杉を受け止め、
同じくらいの力で、おのれの行き所ない心を、中空に放っている。
ああ、こんな歌が詠みたい、と私もあえぐように思ったものだ。

四年ほど前、連作の機会が与えられた時、私もゴッホの作品を
歌に詠んでみた。

  背景のみづあさぎの渦 自画像を蝕むごとし 鼓舞するごとし
                     岡部史

ゴッホの「自画像」(1889年7~9月)を詠んだ。
この作品の前に

 紙函のやうに撓める教会を描きて逝きたりフィンセント・ファン・ゴッホ
                      
を置いたので、わかってもらえるのでは、と思ったのである。
                (この項、続けます)
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