絵画のうた(その4) [短歌]
あまりにも有名な歌なので、引用するのが気が引けるほどなのだが
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
齋藤茂吉『赤光』
ゴーガン(ゴーギャン)は、自画像を多々描いていて、私が持っている
『ファブリ世界名画集・ゴーガン』(平凡社)と『現代世界の美術・ゴーギャン』
(集英社)の二冊だけでも数点見られる。いずれも細長い顔、インド亜大陸の
ように額に三角形に垂れている黒々とした前髪、八の字型の口髭と、尖った
顎を縁どる顎髭に特徴がある。私はこれらの自画像から、ゴーギャンという
人物は、意外に言葉巧みな詐欺師的な面があったのではないか、と思うのだが。
茂吉がこの歌で詠んでいるのは、どの自画像なのだろう。子供の頃、
何かやりきれない思いのまま、小さな生き物をいびり殺してしまった、
そんな思い出をよみがえらせるような自画像・・・。
というのも、当然のごとく、その時々で、ゴーギャンの自画像は
異なった表情をしていて、孤独に沈むような沈鬱なもの、
ほとんどこちらに背を向けているような、表情の見えない角度から
描かれたもの、キリストになぞらえた、ややコミカルな作など、
実に多様なのだ。自分と言う素材を十分に楽しんでいたような、
この画家のしたたかな面も見えるのだ。
そんななか、ゴッホに頼まれて描いたという「レ・ミゼラブルの自画像」
と名付けられた絵は、こちら側を斜めに見据えた視線が鋭く、
こらえきれない鬱屈を、今まさに吐き出そうとしているかのような、
緊張に充ちた表情をしている。茂吉の心を捉え、幼児期の昏い記憶を
引き出したのは、この絵だったのではないか、と私には思える。
短歌には、歌を詠む自分を詠む歌、というような作品も多々
あって、絵画の自画像に近い感じがするのだが。その表現法は、
絵画に比べ、やや自虐的ものに傾きやすい、ように思える。
短歌と言う分野のマイナー性が、その根本にあるのではないだろうか。
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
齋藤茂吉『赤光』
ゴーガン(ゴーギャン)は、自画像を多々描いていて、私が持っている
『ファブリ世界名画集・ゴーガン』(平凡社)と『現代世界の美術・ゴーギャン』
(集英社)の二冊だけでも数点見られる。いずれも細長い顔、インド亜大陸の
ように額に三角形に垂れている黒々とした前髪、八の字型の口髭と、尖った
顎を縁どる顎髭に特徴がある。私はこれらの自画像から、ゴーギャンという
人物は、意外に言葉巧みな詐欺師的な面があったのではないか、と思うのだが。
茂吉がこの歌で詠んでいるのは、どの自画像なのだろう。子供の頃、
何かやりきれない思いのまま、小さな生き物をいびり殺してしまった、
そんな思い出をよみがえらせるような自画像・・・。
というのも、当然のごとく、その時々で、ゴーギャンの自画像は
異なった表情をしていて、孤独に沈むような沈鬱なもの、
ほとんどこちらに背を向けているような、表情の見えない角度から
描かれたもの、キリストになぞらえた、ややコミカルな作など、
実に多様なのだ。自分と言う素材を十分に楽しんでいたような、
この画家のしたたかな面も見えるのだ。
そんななか、ゴッホに頼まれて描いたという「レ・ミゼラブルの自画像」
と名付けられた絵は、こちら側を斜めに見据えた視線が鋭く、
こらえきれない鬱屈を、今まさに吐き出そうとしているかのような、
緊張に充ちた表情をしている。茂吉の心を捉え、幼児期の昏い記憶を
引き出したのは、この絵だったのではないか、と私には思える。
短歌には、歌を詠む自分を詠む歌、というような作品も多々
あって、絵画の自画像に近い感じがするのだが。その表現法は、
絵画に比べ、やや自虐的ものに傾きやすい、ように思える。
短歌と言う分野のマイナー性が、その根本にあるのではないだろうか。