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トッケイヤモリ [生活]

BSプレミアム放映の「ワイルドライフ」は大好きな番組。
毎回見たいが、この時間(夜8時)は録画していた映画を見ている、
ということが多く、見過ごしてしまうことが多々ある。
先週はタイのトッケイヤモリ。これはばっちり観た。

このヤモリ、最大で30センチにもなる大型のヤモリだが、
タイでは家に住み着いていることが多いらしい。
タイのホテルでは、かなりの高級ホテルでも室内に
ヤモリがいることが多くて、なかなか慣れないのだが・・。

タイの人たちがヤモリを積極的には追い払わない、あるいは
かなり好意的に迎えている理由が、この番組でよくわかった。
彼らはゴキブリなどの害虫の他、ネズミまで食べてくれるから、
だった。鼠を捕獲する場面が出てきたけれど、かなり
動作が機敏。そして大きな口で相手を頭からかみついた後、
壁にたたきつけて、弱らせてから食べる、らしい(ど迫力だ)。

壁をスパイダーマンみたいに、するすると上下できる、
その理由を解説してくれていたのだが、それは足裏の
細かい毛によるもので、なんと分子間力を利用しているのだとか!
埃が最大の敵で、これを除けるために、三週間に一度、脱皮する。
足の裏だけ脱皮すればいいのに、とも思うのだが、トッケイは
全身の皮膚を、なんと九時間もかけて脱皮するのだとか(いやはや)。

家に住むヤモリにとって一番の難敵は、ペットなのだそうだ。
家猫に襲われるヤモリは、どうやって逃れるのか・・。その
場面も登場したが、なんと尻尾を切り捨てるのだ。いわゆる
「自切」である。その後が凄い。怖い猫の前でじっとしている。
だが、切られた尻尾は床を這いまわる。猫は動くものに
目を奪われるので、その間に逃げ出すのだ。
尻尾を斬ったからすぐに逃げる、では、大事な尻尾を失った上、自分も
やられてしまう危険性がある。これは人間界でも利用できそうな
処世訓になりそうな一事・・・。ちなみに切った尻尾は3週間くらいで
生えてくる。でも、元の模様とは異なったり、大きさが異なったり
するそうだ。ちょっと、痛々しい。

他にも、ヤモリの驚くべき習性が次々に紹介されて、
ほんと、見ごたえたっぷりの一時間だった。
次はどんな動物が出てくるか、楽しみだ。
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絵を描くと言うこと(その4) [藝術]

高校の芸術は、一年生の一年間、週二時間の必須科目だったが、
二年では選択科目ですらない。美大への進学を
希望していたのは三、四名のみ。部活で美術を選んでいた人も
数名いたけれど、卒業後美大に進んだのは、私の知る限り二人だけ。

高校の美術はあくまで趣味として楽しむための、その入口へ
誘導するための授業として位置づけるべきところだろう。
だから、美術の楽しさを伝えることが第一の目的となるべき
ところだったのではないだろうか。

高校での美術の授業には、嫌な思い出だけが残ってしまった。
特に、同級生と同じ絵具を購入できなかった、という一事が・・。
大人になってしまえば、実に些細なことに過ぎないが、15歳に
とっては、ひどく屈辱的な、耐えがたいことだった。
同時に、自分はけっこう「絵が描ける方かも」とちょっぴりでも
思ったりしていた自分が許せない気持ちだった。

ただ、絵を見るのはずっと大好きで、好きな画家の美術展が
回ってくると、できるだけ足を運び、至福の時間を過ごしていた。

それが最近、ひょんなことから、自分で描いてみたらどうだろう、
という方向に変わり、そして描き始めたら(もちろんかなり下手糞
ではあるが)、もう楽しくてたまらなくなったのである。
楽しいこと、好きであることはすべてを越える。それは
あんな嫌な思い出があった、絵を描く、ということにも
例外ではなかったのであった。皆さんも、そんな
「思い込み」で、楽しい経験を逃していることがあるかもしれません。
                 (この項、終わりです)
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絵を描くと言うこと(その3) [藝術]

私はさんざんあちこちを歩き回り苦労して、
ようやく「アクリル絵の具」なるものを手にしたが、
クラスのみんなが持っているメーカーのものは入手できなかった。

美術の教師が授業の制作課題としたのは、テーブルに置かれた、
花瓶と模型の果物と布。デッサンの段階は、けっこうすいすいと
進んだ私だったが、いざ、彩色に入ると、大いに戸惑った。
なんだか、うまく絵具が伸びない気がする。透明度も低くて、
思うような色が出せない。

クラスの人たちの絵をそれとなく見てみると、
私の絵具とは質の異なるものを用いている、というのが
一目瞭然だった。「いったい、なぜ?」と 愕然とする気持ちだった。

彼らの絵具は絵筆に浸し、すっと画面に載せただけで、
不思議につややかな立体感が出るのだった。絵具の艶が違う、
厚みが違う、私の絵具は、本当にアクリル絵の具なのか、
と思えるほど、紙に載せたときの感じが異なる!

本来のアクリル絵の具とは、水彩絵の具と同様に水に溶けながら、
油絵の具のような重厚さとつややかさを備えた画材だったのである。
さらに、乾燥や湿度に強く、美しい色が長く保たれるのだとか。

最後にみんなの絵を黒板に展示し、批評会が行われることになった。
私の絵は格段に貧相に見えた。そして、教師は、絵具の違いには
言及しないまま、私の絵を指して、酷評してくださった・・・・。
                        (続く)
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絵を描くと言うこと(その2) [藝術]

転入学した都立高校で、最初の美術の授業に出席した私は、
担当の教師から「アクリル絵の具を買いなさい」と命じられた。
聞いたこともない名称に戸惑いながら、同級生たちの持っている
絵具のメーカー名(絵具の箱に、日本語は一字も含まれていなかった)
をメモさせてもらって、私は文具店に出かけたのだけれど・・・。

今なら少しは知恵が回って、そのメーカーは外国にあり、
近くの文房具屋が扱うような商品ではなく、都心の大きな画材店などで
注文して受け取るものだ、ということくらい判断がつく。
でも当時の私は、田舎の中学を卒業したばかり。
東京という巨大な海に溺れかかっているアリのような存在だった。

文房具屋を訪ねて回っても、知らない、置いてない、と
けんもほろろに扱われ、疲労困憊するばかり。
当時、アルカリ絵の具は日本では製造しておらず、一般的な
知名度も低かったのである。

私たちの美術の教師Sは、当時三十代前半の、その世界では
将来の活躍を期待される、有能な画家さんだったらしい。
でも、簡単には入手できないような画材を、必須科目として
美術を専攻している高校生に強制させる必要があったのだろうか。(続く)
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絵を描くと言うこと [藝術]

子供の頃は、誰でもそうであるように、私も
絵を描くことが好きだった。素材はもちろん、クレヨンである。
最初の挫折は、中学入学と共に訪れた。
素材が水彩絵の具に代わり、これをうまく扱えなかったこと。
ここで躓く人は結構多いらしい。相棒も、水彩になった途端、
どう描いていいか、わからなくなった、と言っていた。
そして、学校の教師、と言うのはなぜか、方法を伝授しようとは
しないもの。人のやり方を見て覚えればいい、と思っているだけらしい。

そんなこんなで水彩絵の具は、最後までうまく扱いきれなかった。
それでも、私は絵を見るのが好きだったこともあり、
ポスターやデザイン画を描くのは結構得意(と自分では思っていた)
だったので高校で一年生だけに課されている芸術では美術を選択した。

だが、ここではさらなる挫折が待っていた。
何度かこのブログにも書いたけれど、私は中学卒業後、
父の転勤で、東京に転居、都立高校に編入学している。
クラスは芸術選択コースによって分かれていて、
私のクラスは全員が美術コースというわけなのだが、
彼らは全員同じ絵具を手にしていた。

私は編入組だったので自分で手配するように言われたのだが、
それがなんと「アクリル絵の具」だったのである。
私は初めて耳にする絵具だった!(この項、続けます)
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尾長の子 [生活]

一週間ほど前、近くの公園の近くを通りかかったら、
小学校の高学年と思しき少年少女たちが十数人、
集まって何かしている様子が目に入った。

中腰になっている少年が、大きな角型のプラスチック容器を
手にして、何かをそこに入れようとしている様子だった。
周囲の子供たちがそれを助けている・・。と見ると

彼らの真ん中にいるのは、なんと尾長の幼鳥だった。
黒い野球帽をかぶっているような頭、翼の先の美しい薄青、
そして尾がまだ短く、全体に丸い形をしているなどの点で、
直ぐに判断できる。たぶんまだ飛び方に習熟していないまま
枝から落ちてしまったのだろう。

この公園には、大きな桜の木やケヤキの木があり、
沢山の野鳥がいる。烏や山鳩、ムクドリ、シジュウカラ、コガラ、
などのほか、尾長の姿もよく見ていた。

子供たちは難なく尾長の子を容器に収め、嬉々としている。
ふと気がつくと、すぐ近くのケヤキの枝の間辺りから
しきりに「ギエェー、ギェー」と鳴く尾長の声が聞こえてきた。
尾長は姿かたちは優雅だが、ひどい悪声なのである。
きっと、その尾長の子の母鳥なのだろう。何とも気の毒だ。

私は用事があったので、その様子を横目で見ながら
先を急いだのだけれど、尾長の子がその後どうなったのか、
気になった。近くの枝の上に載せてやることができたら、
一番良かったのでは、と言う気がして。

このあたりは、カラスが多いので、地上でバタバタしていたら、
必ず彼らの餌食になってしまっていただろう。
とはいえ、幼鳥が飛び立てるまで、子供たちが養ってやることは
できるんだろうか。
あの後、すぐに猛暑が訪れ、公園で小学生の姿を見ることはなくなった。
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日本音楽コンクール・ピアノ部門 [藝術]

昨夜のEテレで「若手ピアニスト頂上決戦」を見た。
昨年秋の日本音楽コンクール(音コン)のピアノ部門の
戦いに密着したドキュメンタリーで、再放送らしい。

私は全く知らなかったのだが、日本で戦前から続く本格的な
若手発掘のコンクールで、ピアノ部門は一次から三次までの
予選があり、さらに本選を経て優勝者が決まるという。
中村紘子などのピアニストもこのコンクールを経て
世界に羽ばたいた一人らしい。

一次予選が大変だ。出場者は202人、持ち時間はたった10分。
音楽やスポーツはこの「時間との勝負」が厳しい分野だなあ、と
つくづく思う。例えば、文学や絵画なら、ちょっと間違えても
修正が効くし、創作の場面は、衆目から隔てられた場にある。
精神的なストレスのかかり方が、格段に違う、と私には見える。

一次で47人に、二次で9人、本選に進めたのは四人だけだった。
ここで出場者の個人的な演奏環境が映像で紹介される。
岩手県で東日本大震災を経験した大学生や、香川県高松市の
海辺で育った大学院生、すでに本選を経験し、二十代後半に
差し掛かっている女性、そして初参加、最年少の高校生の少年。

多くが人生の門口に立ったばかり、そしてこれからの人生を
かけて戦っている人たちだった。本選では初めてオーケストラを
従えて、ピアノ協奏曲を演奏するため、オケとの練習時間が
設けられている。この場面がとても印象的だった。大学生と
高校生がオケとの共演が初めて、ということで緊張しながらも
実に楽しそうな、生き生きとした表情を見せていたからである。

本選の演奏場面はそれぞれ、さわり程度流されただけで、もっと
聞いていたい、と切実に思ったのだけれども。
私は耳には自信がないのだけれど、初参加の高校生が弾いた
プロコフィエフは音に深みがあって、特に音と音の間に、
夢の端々が漂う出すような豊かな空間が生まれているような感覚に
陶然とさせられた。彼が優勝では? と思ったがその通りだった。

毎年、東京オペラシティで開かれているらしい。
本選は人気があって、切符は取れないかもしれないけれど、
予選でも、足を運んで聞いてみたい、そんな気がしている。

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ビアトリクス・ポター・さらに [読書]

ピーターラビットは、世界で最も有名なウサギ、
と言っていいほど、ポターの絵本は多くの人々に支持されたのだが。
ポターもまた、ウサギのピーターに劣らず、なかなか
興味深い人生を生きた人だ。

彼女は1866年ロンドンの、裕福な家に生まれている。
学校には通わず、家庭教師と保母(ナース)によって教育され、
両親とさえ、一日に二度、朝晩の挨拶を交わすだけ、という
現代から見ると、かなり特異な境遇に育っている。

友人もまったくなく、五歳年下の弟が一番の遊び相手、
さらにウサギやハツカネズミなど、様々なペットを飼っていた。
幼少期から絵を描くのに熱中していた。

おそらく、より細密で完全な絵にするためだろう、
動物を解剖したり、剥製を作ったりしていたという。
さらには、煮込んで骨を取り出し、骨格の標本を作ったことも
あるのだとか(『ビアトリクス・ポターの生涯』福音館書店)。
あの愛らしいピーターを描き出すために、随分なことを
していたのだなあ、と驚かされるのだけれど。

実際に動物の絵を描こうとすると、顔を描くだけなら
さほど難しくはない。だが、全身像は、かなり技術を要す。
専門に絵を描いている人は「骨格を捉え、そこから
肉付けするように描かかないとリアルな絵は描けない」と言う。

ウサギのピーターは、ポターの家庭教師だった女性の子供のために、
ポターが絵葉書に描いた絵がもとになっている。
ポターは、印刷機の購入の資金を稼ぐために、家庭教師の子供たちから
一度は送った絵葉書を返してもらい、商品用に仕立てている。
それが意外に評判が良かったことが、絵本へと
展開するきっかけになったようである。

ポターが絵本作家として活躍していた時期は意外に短い。
最初の出版が三十代後半、と遅かったことや、
動物を描くのは得意でも、人間を描くのはかなり
不得手だったことなども、その原因だったようだ。

絵本の編集と出版を請け負っていてくれたウオーン社の
男性と親密になり、親の反対を押し切って婚約するのは三十代の
終わり。だが、その男性は婚約一か月後に急死している。
生涯の伴侶と出会うのは、その数年後のことになる。
はた目には、寂しい人生だったようにも映るのだが・・・。。

ピーターが稼いでくれた印税は、ポターが力を入れていた
自然保護運動の方へ回され、ポターが愛したイギリスの湖水地方の
美しい景観を守っているという。素敵なことである。
私は、これからじっくりと、ピーターラビットのお話を読むつもり。
ピーターと一緒に育ったのよ、と言っていた友人を思い出しながら。
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二つのビアトリクス・ポター [読書]

「私、ピーター・ラビットと一緒に育ったようなもんだから」
そう言っていたのは、私より六歳も年下の友人T。
彼女の家で、全館揃った「ピーターラビットシリーズ」を
目にしていたけれど、当時は食指が動かなかった。なにせ、
このシリーズは、絵本ながら文庫本より一回り小さいくらい。
読みにくそうだな、ということと、余りにも有名だったため
ちょっと反発するような気持ちもあった。

最近、ポターの伝記的な映画を見たことがきっかけになって、
自分でも読んでみようか、と思ったのである。
ポターはピーターラビットの絵本が商業的成功を
収める前に、貧しい仕立て屋を主人公とした物語、
『グロースターの仕立て屋』を仕上げ、自費出版している。
1902年五月、500部を発行。するとまもなく、ピーターラビットが
大当たりし、同じウオーン社から『グロースター…』も
出版するように話が進むのである。

でも、ウオーン社は、ポターが自費出版した本をそのまま
発行しようとはしなかった。まずお話が長すぎること、
また挿絵にも細かく注文したらしく、ほとんどの絵が、
書き直し、差し替えされている。

自費出版された本の方も、後に再出版されているので、
今では二冊の『グロースター‥』を読み比べてみることもできる。

商業出版された本の方は、現代の高度な印刷技術を用いて、
おそらく当時刊行されたものよりも鮮明な仕上がりになっている
のかもしれない。ポターの原画により近いものになっているのでは、
ないかと思われる。絵が細密で、青色などの色味が深く、
ピンクが鮮やかで美しい。

一方、ポターの自費出版された方は、やや素朴である。
商業版に比べると、やや粗雑な印象もある。だが、素朴で
温かみが残っている、とも言えそうである。特にポターが力を
入れて描いたと想像される、七匹もの鼠が大暴れしている場面は
圧巻で、どうしてこの絵がカットされてしまったのか、と残念に
思われるほどである。実際、ポターは改作には乗り気でなかったらしい。

二冊の本でさらに大きく違うのは、物語の長さである。
自費版の方が、商業版の倍ほどもある。絵の頁数はほとんど
同じなので、全体に絵本という印象がないほどである。
子供にはとっつきにくいのではないだろうか。

私は二冊とも原書を手にとってみたが、単語もかなり難しく、
snippet(布などの切れはし )とかpipkin(小さな土瓶)などなど、
お初の単語がどっさり・・・。子供向けのはずだが、情けないことに、
辞書を引きっぱなしである・・・。子供は知らない単語が少し
入っているくらいの方が、持続的な興味を示すものだけれど・・・。

私が子供に買い与えるとしたら、やはり商業版、となるのかも。
でも二つのポター、読み比べられるとは、実に素敵なことに思える。
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追悼・古賀泰子さん [短歌]

短歌結社「塔」の創刊時からの会員・古賀泰子さんが亡くなられた。
享年九十八。私の父より四歳も年上だったんだなあ、と改めて思う。
古賀さんは長いこと、塔の「縁の下の力持ち」みたいな存在でもあった。
一九八八年の年頭、栗木京子さん、祐徳美恵子さんらと私とで
「塔」の記念号のための対談をしたことがあったが、その場所として
古賀さんがご自宅を提供してくださったことがあった。

そのとき、ご自分ではあまり飲酒はされないというのに、
各種のお酒を用意されていた。「塔」の人たちが、何かというと
古賀さん宅を「会議室」代わりに使うらしく、そのために
普段から準備している、と言うようなことを、サラリ、と
仰ったことが印象的だった。大阪の中心部にある大きな一戸建て、
そしておひとりでお住まいである。なんやかんやで、みんな
甘えやすかったんだろう。私たちには、ケーキを用意してくださって、
みんなで感激しながら頬張ったことを昨日のことのように思い出す。

また、私には忸怩たる思いが一つ残っている。2000年に刊行された
彼女の第五歌集、『木造わが家』。これが結果的に最後の
歌集になってしまったのだが、当時私は何かと忙しい時期で、
古賀さんにお礼状を書くのを失念してしまったのである。

2001年の夏から秋にかけては、相棒の仕事の関係で中国で
暮らすことになり、夏の大会は欠席している。その翌年は、
広島大会で、この時は参加。古賀さんとは遠くから目で
挨拶を交わした記憶もある。帰京後、電話をくださった。

「広島では個人的にお話ししたかったのだけれど、機会がなくて・・。
貴女が栗木さんたちと昼食を食べておられたのも、遠くから
見ていたのだけれど、その後、すっと、席を立って、どこかへ
行かれてしまったから・・・。実は気になっていたのは、
二年前に出した私の歌集、あなたに届いていたかしら・・・。」

ああ、何てことをしてしまったのだろう!
私は後悔に胸がふさがれるようになり、ただただ、
電話に向かって頭を下げていた気がする。
私が自著をお送りすると、いつもお手紙を下さっていた、古賀さん。
私の方も、それまでは確かにお礼状を書いていたのに、この時ばかりは
自分のことにかまけて、失礼をしてしまったのだ!

最後にお会いしたのは、数年前の大阪での大会。車いすに
腰かけておられたので、あいさつに出向くと、すぐに
「あなたから頂いたご本にお礼を書いていなかったわ。
気になっているのだけれど・・・」と言われてしまった。

なんだか、泣きそうになってしまった。もう、あの
大輪の花のような笑顔にお目にかかれない。
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