絵画のうた(その6) [短歌]
また葛原の作品になってしまうのだけれど
コルシカの桃の花盛りが昏(くら)々と顕はれし日のマチスの心の部屋
葛原妙子『縄文』
マチスは大好きな画家で、短歌を始めたばかりの頃、私もマチスの
絵を詠んだことがある。大好きな「赤い食卓」である。そして上記の
葛原の歌も、きっと「赤い食卓」を詠んでいるのだ、と思い込んでいた。
というのも、この絵の左手、食卓が置かれた部屋の窓が開かれていて、
窓の外には、桃の花のような白い花をつけた木が見えるからである。
でも、何度もこの歌を心の中で転がしているうち、いや、特に
どの絵と想定して読む必要はないのではないか、と思うようになった。
マチスは二十代の終わりにコルシカ島を旅行している。北フランス生まれの
彼にとって、この地中海の島は、さぞや光と色に溢れた、明るい
豊かさに充ち満ちた地に見えたにちがいない。その光景が若い心に
焼き付き、その後の彼の作品に大きな影響を与え続けたのではないか。
葛原はそのあたりのことを、推し測っていたのではないだろうか。
「昏々と」は、深いところに沈んでいた記憶をくみ上げているような、
重い心動きを示唆することばである。
単に明るさ、豊かさだけではなく、当時マチスが抱えていただろう、
絵を巡っての迷いや、葛藤や、狂おしい野望のようなものまで、
(当時の彼の画風の変遷を見ると、こうしたものが皆無だったとは
とても思えない)この歌に暗示されているようで魅了されるのである。
コルシカの桃の花盛りが昏(くら)々と顕はれし日のマチスの心の部屋
葛原妙子『縄文』
マチスは大好きな画家で、短歌を始めたばかりの頃、私もマチスの
絵を詠んだことがある。大好きな「赤い食卓」である。そして上記の
葛原の歌も、きっと「赤い食卓」を詠んでいるのだ、と思い込んでいた。
というのも、この絵の左手、食卓が置かれた部屋の窓が開かれていて、
窓の外には、桃の花のような白い花をつけた木が見えるからである。
でも、何度もこの歌を心の中で転がしているうち、いや、特に
どの絵と想定して読む必要はないのではないか、と思うようになった。
マチスは二十代の終わりにコルシカ島を旅行している。北フランス生まれの
彼にとって、この地中海の島は、さぞや光と色に溢れた、明るい
豊かさに充ち満ちた地に見えたにちがいない。その光景が若い心に
焼き付き、その後の彼の作品に大きな影響を与え続けたのではないか。
葛原はそのあたりのことを、推し測っていたのではないだろうか。
「昏々と」は、深いところに沈んでいた記憶をくみ上げているような、
重い心動きを示唆することばである。
単に明るさ、豊かさだけではなく、当時マチスが抱えていただろう、
絵を巡っての迷いや、葛藤や、狂おしい野望のようなものまで、
(当時の彼の画風の変遷を見ると、こうしたものが皆無だったとは
とても思えない)この歌に暗示されているようで魅了されるのである。