九月の歌会・続 [短歌]
先回、九月の歌会に提出された、草木を刈ったり
切ったりしながら「夏の庭をしまう」作品について触れた。
「夏の庭をしまう」という表現を評価して投票したのは
私だけで、このことに対し、かなり批判を浴びたことも。
「しまう」という言葉には、「言ってしまう」とか
「落ちてしまう」などとして使われる補助動詞という
面が作用して、「ある動作を完了する」、それも無意識のうちに、
あるいは自分の意思や意図をこえたところで「遂げてしまう」
ようなニュアンスも含んでいる動詞である。だから、この作品でも
「夏の庭を仕舞い終えてしまった」かのように理解されやすい。
このあたりも、「しまう」という動詞の意味合いを複雑に
している要因で、面白いところではある。
でもここはやはり、進行形の「しまう」と解したい。自然の
力も借りて、つまり夏から秋へと必然的に推移していく庭の
衰退に任せようとしている部分もあるのではないかと。
また心のどこかにこの酷暑の記憶を、繁茂しきっていた夏庭の
記憶と共に「仕舞っておこう」という意識も働いている、
と読みたい気がする。
「夏の庭を畳む」という言い回しではどうだろう、という
意見もあったけれど、「畳む」では、あまりにも実務的に
なってしまい、味気なくなってしまう。「畳む」だったら
この歌に一票を投じなかったはず。
何だか「しまう」という一語にこだわりすぎてしまった気がするが、
「しまう」という日本語に含まれる豊富なニュアンスに惹かれ、
またこの一語を選んだことで、一首が深まったという点について
歌会で十分に伝えられなかったことが心残りだったのである。
切ったりしながら「夏の庭をしまう」作品について触れた。
「夏の庭をしまう」という表現を評価して投票したのは
私だけで、このことに対し、かなり批判を浴びたことも。
「しまう」という言葉には、「言ってしまう」とか
「落ちてしまう」などとして使われる補助動詞という
面が作用して、「ある動作を完了する」、それも無意識のうちに、
あるいは自分の意思や意図をこえたところで「遂げてしまう」
ようなニュアンスも含んでいる動詞である。だから、この作品でも
「夏の庭を仕舞い終えてしまった」かのように理解されやすい。
このあたりも、「しまう」という動詞の意味合いを複雑に
している要因で、面白いところではある。
でもここはやはり、進行形の「しまう」と解したい。自然の
力も借りて、つまり夏から秋へと必然的に推移していく庭の
衰退に任せようとしている部分もあるのではないかと。
また心のどこかにこの酷暑の記憶を、繁茂しきっていた夏庭の
記憶と共に「仕舞っておこう」という意識も働いている、
と読みたい気がする。
「夏の庭を畳む」という言い回しではどうだろう、という
意見もあったけれど、「畳む」では、あまりにも実務的に
なってしまい、味気なくなってしまう。「畳む」だったら
この歌に一票を投じなかったはず。
何だか「しまう」という一語にこだわりすぎてしまった気がするが、
「しまう」という日本語に含まれる豊富なニュアンスに惹かれ、
またこの一語を選んだことで、一首が深まったという点について
歌会で十分に伝えられなかったことが心残りだったのである。