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平成最後の夏 [生活]

平成三十年夏。なんと厳しい夏だっただろう。
多摩南部にある我が家付近でも六月二十日過ぎから、
三十度を超す日々が続き、四十度に迫る日も複数あった。
酷暑ばかりではなかった。大阪北部をかなり大きな地震が
襲い、さらに相次ぐ大型台風の襲来、それに伴う
洪水、土砂崩れ・・・。さらに九月になってからの
四国東部、近畿南部に上陸した台風による被害も
関空を中心として甚大だった・・・。

被害の全容が明らかになるかならないかのうちに、
こんどは北海道を巨大な地震が襲った・・・。
全道停電と言う、未曽有の災難を起こしてしまった・・。
なんてことだろう・・・。

私たちはこんなに地盤の不安定な島国に暮らしているんだ、と
思うと、暗澹とした気持ちになる。
そんなこんなで、平成最後の夏が過ぎていく。

あれこれと考えていたら、「塔」九月号が届いた。
編集後記に吉川さんが嵐山の灯篭流しを観に行ったことを
書かれていて、なんだかとても懐かしくて、ちょっと
泣きそうになった。

子供の頃、私が住んでいた町でも、灯篭流しが行われていて、
一度だけ見に行った記憶がある。それはそれは幻想的な美しさで、
驚いて見入ったこともよく覚えている。

でもそれ以後、灯篭流しは河を汚すから、ということで
中止されるようになり、あれからもう、一度も見ることはなかった。
ちなみに、嵐山の灯篭は、川の途中で、回収されているらしい・・・。
日本は、小さな国土に豊かな自然があり、繊細で美しい文化がある。
それは危うい国土であるがゆえに、育まれてきたものなのかも・・
とちらっと思った。
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ローマの休日 [映画]

名作中の名作「ローマの休日」。初めて見たのは、
中学に入学したばかりの頃の映画鑑賞授業
(あまりにガキだったので、内容をよく覚えていない)。
大学一年の時には、友人が「名画座の券があるから」と誘ってくれて、
渋谷で見た記憶がある。それからそれから。多分合計三回は見ているのだが。

購入しておいたDVDがあったので、ふっと思い立って、
見てみることにした。
くっきりと覚えている箇所も多いのだが、まったく忘れている、
という箇所も意外に多い。そして忘れている点は、ヘップバーン
演じるアン王女が、新聞記者と出会うまでの十五分くらいの
部分に集中していた。毎晩ミルクを飲まされていたとか、逃げ出すとき、
トラックの荷台にもぐりこんだところとか、あれ、観てたはずなのに、
とあきれるくらい忘れていた。

でも、記者のジョーに会う場面、詩を口ずさんで、その作者を
「キーツ」「シェリー」と正しあう場面なんか、くっきりと覚えている。
記者がアンをベッドからソファに転がり落としたりしておきながら、
王女と知った途端、お姫様抱っこして、ベッドに移してやるところとか。

でも、王女が単に許されない恋をし、でも、悲しみをこらえて
王女と言う立場へ戻っていく、という映画ではなかったんだ、
一人の女性として、自分の立場を考えられるように、変わっていった、
と言う大事な面があったんだ、と、このたび初めて気がついた。
そのヒントを与えてくれていたのが、記者と出会うまでの
十数分で、ここをしっかりと見ていないとこの映画の一面しか
わからないままだったと。

古い映画の再鑑賞もいいなあ、と思う。もちろん、再鑑賞に
耐えられるような映画でなければ、あまり意味はないかもしれないが。


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婚約者の友人 [映画]

ほとんどモノクロ+一部カラーという少し珍しい映画。
舞台は第一次世界大戦終結直後、1910年代末期のドイツ。
フランスで戦死したフランツの婚約者アンナと、フランツの両親は
互いを慰め合いながら同居している。いつものようにフランツの墓を
訪れたアンナは、墓前で泣いているフランス青年・アドリアンを知る。
戦前、フランツがパリに留学をしていた頃の友人と思い込んだアンナは
フランツの両親にアドリアンを引き合わせる。

フランツと同じく音楽を愛し、繊細で美しく、何か謎を秘めた存在である
アドリアンに、アンナは少しずつ心を寄せていく。両親もアドリアンに
心を癒されるようになり、アンナの恋の成就を密かに応援するようになる。

だが、アドリアンにはやはり、大きな秘密があった。アンナがアドリアンに
思いを深め始めた頃、アドリアンは、自ら秘密を告白し、パリへ去っていく。

この映画はミステリと言う訳ではないが、この秘密を最初から
知って観るより、知らないままに見た方が、面白いと思うので、ここで
秘密の内実には触れない。それまで、フランツとの思い出だけに生きていた
アンナが、アドリアンの秘密を知ってから、苦悩し、やがて、
一人の女性として自分の生き方を選択しようとしているさまは、
力強くて、この映画の一つのテーマになっている。
もう一つのテーマは、当然ながら、反戦である。

アドリアンが、フランツの演奏するヴァイオリンの指を正してやる
場面や、ルーブル美術館を案内し、彼が好きだったというマネの
絵の前に導いていく場面などは(実はアドリアンの幻想なのだが)
戦争などと言う悲惨な出来事が起きなければ、交わされていたかもしれない
二人の友情の場面として、とても美しい。この映画はドイツの
フランスへの憧れも込められているようで、このあたりも見所である。

ところで冒頭に紹介したように、この映画は大部分がモノクロ、
そしてほんの一部、たぶん主演者の心が高揚した時だけ、カラーと
してあるのだけれども、あまり効果的のように思えなかった。
普通に過去の出来事をモノクロ、現在をカラーにしても
良かったかな、と思うのだが。
最後は、アンナがルーブル美術館内の、マネの絵の前に
立つところで終わっている。ちなみにその絵は「自殺者」という
絵で、私の持っている「現代世界美術全集1 マネ」(集英社)
にも載っていた。かなり衝撃的な絵である。
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九月の歌会・続 [短歌]

先回、九月の歌会に提出された、草木を刈ったり
切ったりしながら「夏の庭をしまう」作品について触れた。
「夏の庭をしまう」という表現を評価して投票したのは
私だけで、このことに対し、かなり批判を浴びたことも。

「しまう」という言葉には、「言ってしまう」とか
「落ちてしまう」などとして使われる補助動詞という
面が作用して、「ある動作を完了する」、それも無意識のうちに、
あるいは自分の意思や意図をこえたところで「遂げてしまう」
ようなニュアンスも含んでいる動詞である。だから、この作品でも
「夏の庭を仕舞い終えてしまった」かのように理解されやすい。
このあたりも、「しまう」という動詞の意味合いを複雑に
している要因で、面白いところではある。

でもここはやはり、進行形の「しまう」と解したい。自然の
力も借りて、つまり夏から秋へと必然的に推移していく庭の
衰退に任せようとしている部分もあるのではないかと。
また心のどこかにこの酷暑の記憶を、繁茂しきっていた夏庭の
記憶と共に「仕舞っておこう」という意識も働いている、
と読みたい気がする。

「夏の庭を畳む」という言い回しではどうだろう、という
意見もあったけれど、「畳む」では、あまりにも実務的に
なってしまい、味気なくなってしまう。「畳む」だったら
この歌に一票を投じなかったはず。

何だか「しまう」という一語にこだわりすぎてしまった気がするが、
「しまう」という日本語に含まれる豊富なニュアンスに惹かれ、
またこの一語を選んだことで、一首が深まったという点について
歌会で十分に伝えられなかったことが心残りだったのである。
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九月の歌会 [短歌]

毎月第一日曜、「塔」の仲間たちと歌会を行っている。
八月だけお休みなので、九月初旬の歌会は二学期の始めの日、
みたいな感じで、新鮮である。みんなの集まりもいつもより早い。

季節柄やはり、「厳しい夏、そのようやくの終わり」が
詠まれている作品も多く、そのあたりも楽しみな九月の歌会。
十四名はいつもよりやや少ないが、二十八首、個性的な歌が多かった。
三首を選ぶ中に、私は、一首、夏の終わりの季節感たっぷりの
作品を選んだ。発表前の作品なので、そのまま紹介はできないが、
夕暮れの訪れが早まった日々、庭の草木を刈ったり切ったりしながら、
夏の庭をしまう、という歌である。

選んだ人が先ずコメントすることになっているが、この歌を選んだのは私だけ。
「夏の、庭をしまう」という言い回しに惹かれて選んだ、と話すと、
疑問を呈する人たちが相次いだ。
「夏の庭をしまうなんて、そんなにいい表現とは思わない」と言う人から
「大切にどこかに仕舞っておく、と言う意味ならいいと思うけど」
という意見も。言葉の流れから、ここは当然ながら「終わりにしてしまう」
「始末する」という意味合いの強い「しまう」になっている。
「しまう、なんて庭を簡単に終わりにはできない、唐突過ぎる」
という意見も出た。選んだものとしては、もっと弁護したかったところ。
一首だけに時間をかけるのは公平を欠く。焦りがよけい散漫な意見に
繋がってしまう。

だが、「しまう」という日本語の持つ、独特のニュアンスに
言及したかった、しておくべきだった、と後から思った。
このあたり、歌会は初見の歌から選び、すぐさま歌評に入るので、
難しいところなのだが。(この話題、次へ続けます)
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韓国料理 [食文化]

韓国の水原という町で、二カ月ほど暮らしたことがある。
八十年代後半の厳冬期で、零下二十度近くまで気温が
下がるということもあり、生活は大変だったが、
とにかく食べ物はおいしかったことを覚えている。

まだ日本に、焼き肉以外の韓国料理が紹介されていなかった
頃であり、種々の鍋料理、豊富な海鮮類、様々の部位が
使われる肉料理などに瞠目しながら舌鼓を打っていた私だが。

時に、他の料理、例えば西洋料理が無性に恋しくなったりした。
街にレストランの類は多いが西洋料理の店はまだ少なく、
ようやく見つけた洋食店で食べたハンバーグのたれには
たっぷりと唐辛子が使われていてしっかり「韓国味」がした。

だから、相棒が最近「鶏のタッカルビ」が食べたいと言い出し、
それがなんと、チーズを使った韓国料理としって、驚いたのだった。

ネットで作り方を調べ、自分なりにアレンジもして作ってみた。
鶏のもも肉を200g、キャベツの葉四枚、ピーマン一個、じゃが芋は
中くらいのを二個。玉ねぎ四分の一個。モッツァレラチーズを100g。
調味料としてみりん、醤油、酒。
醤油の量は、材料の全体の5%くらい、と考えておくと、
味付けの目安になる。まず調味料全体に唐辛子の粉を加え、
一口大に切った鶏肉を30分くらい漬け込んでおく。


細切りにした玉ねぎを熱したサラダオイルでいため、しんなりしたら
鶏肉を加え、さらにじゃが芋を加え、鶏肉を付けていた調味料を
加えて、鍋に蓋をして10分ほど蒸し煮する。さらに一口大に
切ったキャベツとピーマンを加えて蒸し煮し、最後に
細切りしたチーズを全体にかぶせるように載せて、火をとめ、
蓋をして三、四分おいたら出来上がり、である。

これが意外にも、とても美味なのでした。
韓国料理らしいのに、チーズを使うというのがとても意外なのだが。

「これが韓国料理って、なんか、驚いちゃう」
と私。韓国に住んでいた頃は、彼らは西洋風の食べ物なんて、
ほとんどジャンクフード、って固定観念があって、受け付けない
みたいだったのに。
「韓国だって、物凄く変わっていってるよ」
と、相棒。
特に柔らかくなった鶏肉と、鶏の味がしみたじゃが芋が
抜群においしいので、お試しあれ!
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