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ペルー旅物語 [旅]

先日、米坂線についてこのブログに書いた後、また
宮脇俊三の鉄道の旅のエッセイが懐かしくなって、読み返している。
何冊かは手元にあるが、読んでいない書もまたある。
図書館にリクエストしたりして読み返しているのだが。

『汽車旅は地球の果てへ』所収の「アンデスの高原列車」を
読んでいたら、無性に懐かしくなった。宮脇氏が彼の地を旅したのは
1980年11月のことらしい。私は氏に遅れること五年四カ月の、
1986年3月にペルーを旅している。五年余りの歳月は、当時の
ペルーでは、特にアンデス地方ではあまり長い時間とは
言えないのではないだろうか。

特にあの旅は、私がこれまで経験した中でもすごく、
過酷だったことを思い出す。短歌には詠んだけれども、紀行文として
残しておけばよかったな、と悔やんだりしている。でも、とにかく。
少しずつ思い出しながら、あの日々のことを綴ってみようという
気持ちになった。アンデスは、ほんとに、素晴らしい地だったから。
                  (この項、続けます)
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米坂線(その4) [旅]

米坂線は全長90キロ余り。その間に22個の駅があるという。
一昨年8月の豪雨で所々が寸断され、以来運休し続けているが、
22個はその当時の駅の数である。私の記憶ではもっと多かったように思う。

我家にある日本分県地図地名総覧という地図帳は、1964年版のもので、
相棒が院生だったとき、神田の古本屋で購入したというかなり古い書。
それで米坂線の駅を辿ってみてわかった。確かに私が利用していた
1960年代半ばは、駅の数が今より多かった。ただし、二駅だけだった。

小国町から米沢までは全駅がそのまま据え置かれ、小国から坂町までの
間で二駅が廃止になっていた。その一つは新潟県境沿いで、小国町側に
あった、「玉川口」という駅。そしてもう一つは、坂町の一つ手前に
あった、「花立」という駅である。花立は、確か、私が五、六才頃に
新たにできた駅だったのではないだろうか。私はこの駅名が何となく
好きで、妹と電車ごっこをするときは、必ず「花立」という駅を
地面に書きいれていた記憶もある(その隣が大阪、だったりした)。

玉川口の方は、駅のすぐそばが荒川だったような記憶がある。
荒川峡は素晴らしく水のきれいな峡谷で、駅はやや高いところにあり、
のぞき込むと怖いくらいだった。
と、覚えているのだけれど、さだかではない。もう、遠い記憶で、
自分が勝手にこしらえてしまった風景、のような気もするのである。
                 (この項、終ります)
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米坂線(その3) [旅]

6歳の頃からだと記憶するが、ものの名前について興味を持つようになった。
この頃から少女漫画に没頭するようになり、登場する女の子の名前が気に
なるようになったのが、そもそもの始まりだったようだが。

米坂線の駅名についても然り。母の実家へ里帰りする途中で通る駅名に
突然姓がついたように、羽前松岡。羽前沼沢、羽前小松、などという
名前が登場する。父の郷里の新潟へ向かう時は越後金丸、越後片貝、
越後下関・・・となる。この「羽前」と「越後」とはなんだろう?

母に聞くと「羽前は古い山形の地名、越後もやはり、古い新潟の地名」
とのことだった。なぜ、その古名がつく駅と付かない駅があるのか?
秋田のことを羽後、と言い、富山を越中というらしいが、何に対する、
前、中、後ろ、なんだろう、と疑問は次々に沸いたが、母が酷く
私をうるさがる様子なので、黙ってしまった記憶もある。

米坂線という路線名は、米沢と坂町を結ぶからだ、と知った時は
なんだかとても気持ち良く感じたたことも覚えている。分かり易かった
からだろう。それから間もなく、母の実家を訪ねた時、街の中心部に
「おめでとう、天童市」という横断幕が出ているのに気づき、この時は
母が機嫌が良さそうなので、早速質問した。「なにがおめでとう、なの?」
母は嬉しそうに言った。「天童はこれまで町だったけど、今年から市に
格上げされたのよ」そして、町と市の違いを説明してくれたのだった。

そこで私はあることが気になった。父の郷里に向かう途中に降りる駅、
つまり米坂線の終点だが、「坂町」は、市になったらどうするんだろう。
坂町市、だろうか、坂市、だろうか。母に聞くと、急にめんどくさそうに
「坂町は、市にはならない」ときっぱり言った。

私はこのこともすごく不思議だった。なぜ母は、こんなに簡単に断言できる
のだろう。いつか坂町も人口が増えて、町から市になる日が来るかも
知れないのに・・・。
坂町とは、当時の新潟県岩船郡荒川町のなかの地名であると知ったのは
それから随分後のことである。駅名は市町村名とはまた別につけられる
こともあるのだ、と知った。米坂線は私にとって、不思議の宝庫だった。
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米坂線(その2) [旅]

初めて米坂線に乗ったのは、生後十か月のこと、になりそうだ。
母が初めての女孫を父母(私の祖父母)に見せるため、実家がある
天童市へ出かけたと言っていたから。祖父はその三年後、私が
四才になる直前に、脳卒中で亡くなっているので、記憶はとても
かすかなのだが、とても可愛がってもらったようだ。

天童へは、まず米坂線の今泉まで行き、ここで長井線(現在の
フラワー長井線)に乗り換えて、終点の赤湯まで行く。赤湯からは
奥羽本線で山形へ。子供の頃、直接天童へ行くことはほとんどなかった。
母の妹がカリエスを患い入院していたため、見舞いに寄っていたからである。

米坂線の一番の記憶は、蒸気機関車の記憶ということになる。
とにかく、煤がひどい。子供の頃、旅行はあまり好きでなかったが、
米坂線の煤が、余りにも強烈だったことが大きな理由の一つだった気がする。

ところで、稀代の鉄道作家だった宮脇俊三氏は、終戦時の玉音放送を
今泉駅前で聞いた、という話は有名である。私は氏の『時刻表昭和史』
で読んだ記憶があり、書棚を調べてみたのだが、みつからなかった。
『時刻表2万キロ』の方にそれに関する記述があったので引いてみよう。

  今泉駅前で車を降りた瞬間、さすがに私の胸が熱くなった。・・・
  所用で山形に出かけるという父にねだってついてゆき、新潟県の
  村上に抜ける途中、正午に重大な放送があるというので、今泉で
  下車したのであった。・・・駅舎からコードが伸びていて机の上の
  ラジオにつながっていた。それを数十人が半円形に囲み、放送が
  始まるとラジオが天皇であるかのように、直立不動で頭を垂れた。
               宮脇俊三『時刻表2万キロ』

ここに述べられている通り、玉音放送を聴いた後で、宮脇氏は米坂線に
乗り換え、坂町経由で村上へと向かわれるのだが、そこにも、米坂線の
煤のすさまじさがしっかりと記述されていて、つい笑ってしまう。

  石炭の質が悪いのか、熟練した機関士が兵隊にとられて釜焚きの腕が
  下がったのか、手の子の先の上り坂のトンネルの中で、力が尽きて
  停車し、機関の圧力を上げなおしたときは、車内に濃い煙が充満して
  手拭で鼻をおさえていても噎せた。  宮脇俊三『同』

手の子という駅は、宇津峠の手前にあり、ここから沼沢に至るまでが
米坂線の難所、なのだった。手の子を過ぎると、いつも母が、窓を
閉めていたことを思い出す。窓の外を見るのが楽しい私達子供は、
いつも「あ、何で閉めちゃうの」と思うのだが、すぐにその理由が
わかる。石炭が沢山くべられるのだろう、煙がすさまじくなり、そして
列車はトンネルに入ってしまう。煙はたちまち車内に入り込み、
目も鼻も、煤で真っ黒になるのである。私は蒸気機関車に対する
ノスタルジーなど、まるでない。わざわざ乗りに行く人の気が知れない。
                    (続きます)
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米坂線 [旅]

昨年四月、半世紀ぶりに米沢市を訪れた折、せっかくだから、
生まれ育った小国町にも立ち寄ってみようと、考えていた。
小国町は、米沢と坂町(新潟県)とを結ぶ、全長90キロ余りの
米坂線の沿線にある。15歳まで小国町で育った私にとって、
米坂線は、どこに出かけるにも必ず利用していた、懐かしい路線。

もう一度あの列車に乗って、幼い日々を過ごした小国町を訪ねたい。
そう思ったのだけれども。
2022年8月にこの地域を襲った豪雨で、大きな被害を受け、以来運休が
続いている、というではないか。現在は、仙台から新潟までを結ぶ
バスが通っているだけで、復旧の見込みも立っていないのだという。

バスを使って訪れることも考えたのだが、時間的に無理があることが
わかり、今回はあきらめることにした。そうなると、いよいよ、
米坂線をめぐる様々な思い出が溢れてきた。今回は、この小さな
路線について、少し書いてみたいと思います(続きます)。
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霜月の京都 [旅]

今年の11月は、めちゃくちゃ忙しい月になった。
雑用も多かった、というかまだ続いている。

その一つに、11年間乗り続けた車を買い替えたことがある。
免許を返上している同級生もいるけれど、少なくとも、あと数年は乗りたい。
遠出はしないし、買い物や通院などに使うだけだし、ということで。
ギアの位置が床面からハンドル脇に移動していて、まだちょっと戸惑っているが。

さらに、私が所属する「塔短歌会」の選者会議・編集会議が行われたこと。
編集会議は六月と十一月に行われていて、六月の方はオンライン方式。
十一月の方は京都で対面方式、コロナ禍で一時こちらもオンラインに切り替えられたが、
昨年からは通常のやり方に戻っている。午前中に選者のみによる選者会議、午後からは
そこへ編集委員が加わって編集会議。
私は今年から選者になったので、選者会議は初参加、である。

十一月の京都は、紅葉シーズンで、観光客で込み合うので、あまり
行きたくないのだけれど、塔の会議は、こんな風に海外からの観光客が
殺到するようになる、ずっと以前から組まれていた年間日程の一つなのだった。

案の定、京都駅に着くと、信じられないほどの人波に、目が回りそうになる。
新幹線の出口付近も、大きな荷物を持った観光客でごった返していて。
かき分けるように地下鉄改札に進む。駅員の話す、大声の英語が聞こえてくる。
会議三十分以上前に京都に到着したのに、会場では、ほとんどのメンバーが揃っていた。
そして、なんと、予定より少し前に、会議は始まった。「塔」はいつも時間厳守!

会議終了後、有志で、小さな飲み会を行うことに。
地下鉄駅にほど近い、地下にある居酒屋。入店が五時少し過ぎだったので、
お客はほとんど入っていない。ああ、空いていてよかった、と思ったのはつかの間。
どのテーブルにも「予約」の札が置いてあり、奥の方にようやく人数分の席を確保。

しばらくすると店内はほぼ満席になった。入り口近くには二十人くらいの
西洋人の団体さんが占め、あちこちから中国語も聞こえてくる。
京都で、普通の生活をするのは大変かも、と思えてきた。
コロナで、閑散としていた京都は寂しかったが・・・。
なかなか、ほどほどって、難しいんですよね。でも、久しぶりに
仲間たちと杯を交わせたのは嬉しかった!
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未踏のスペイン [旅]

スペインには行ったことがない、というと相棒が強く否定してくる。
(ちなみに、相棒の方は一人でスペイン国内の複数の都市を旅している。
まだ私がお勤めしていて、長い夏休みは取れなかった頃のことだ。)
こんな単純なことが、全く正反対の見方となってしまう、その訳は。

もうだいぶ前のことになるが、モロッコを旅した折のこと。
ベルギー経由で帰国するはずが、予定していた飛行機が欠航になり、
散々待たされた後、バルセロナ経由の便を代替便として用意され、
結局バルセロナに一泊してからベルギー経由で帰国することになった。
その時に、確かにバルセロナ市内のホテルに泊った、というか泊まらされた。

バルセロナの空港に着いたのは夜の十一時近く。
更に手配してもらったホテルは、空港から車で三十分近くかかり・・・。
ホテルに落ち着いたときは、完全に翌日になっていた。ところが、
ベルギーからの日本への直行便(当時、サベナ航空が成田に乗り入れていた)に
間に合わせるためには、午前四時にはホテルを出なければならない。
というわけで、私たちがこの時、バルセロナに滞在していた時間は
ほんの数時間である。ベッドに横にはなれたが、全く眠ることはできず。

おまけに私は、モロッコで食べたものが何かお腹に当たってしまったらしく。
体調不良で、フラフラだったのである。バルセロナで覚えているのは、
トイレの壁紙の模様くらい・・・。

「私、スペインには行ってないんだよね」
「勿論、行ってるじゃないか。ホテルで一泊して、トイレにも行った」
と、意見はかみ合わないままなのであった。
 

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南の島の不思議な話・続 [旅]

ジャワ島の土木遺跡を訪ねる旅で、ガイドの青年から、
「小さな子供が亡くなると、樹木の洞に葬る」部族がある、と
聞いて、ずっと心に残っていたのだったが。

それから数年後、沖縄を久しぶりに訪れて、その地に伝わる
キジムナーについて知ることになった。キジムナーは、古くから伝わる
妖怪、あるいは精霊のことらしい。赤い顔をした子供で、古い木、多くは
ガジュマルに棲んでいる、と聞いて、ジャワ島の樹木への「埋葬」を
思い出した。木に棲む、子供の形をした精霊との関連性を思ったのである。

それからしばらくして、奄美大島を訪れる機会もあったのだが。
ここでは、ケンムンという妖怪についても知ることになった。
河童の仲間のように伝わっているが、住んでいるのはやはり、ガジュマル
なんだという。河童なら、水際の岩場あたりに住んでいてもよさそうなのに。

ジャワ島で、小さな子供が死ぬと樹に葬るのは、全うできなかった命を、
樹の中で再生させよう、という望みに支えられたものではないだろうか。
南の島で、もっとも生気盛んな生き物である樹。

死んだ子はそこから再生し、それなりの姿を得、周囲の人々に子どもらしい
いたずらをしたり、跳ねまわって遊んだりしながら、身近で生きている、
そんな思い、願いが、キジムナーやケンムンのような
妖怪の存在を信じさせるようになったのでは・・・・などと考える。

沖縄や奄美に、小児を樹に葬る習慣があったとは、耳にしたことがないし、
ジャワ島に、キジムナーのような妖怪が存在しているかどうかも知らないが。

私たち日本人の、おそらく数パーセントくらいは、ジャワ島あたりを源とする
人たちの遺伝子を持っている。南西諸島となると、もっと強く、彼らの血を
ひいていることだろう。遠い昔、樹木への「葬儀法」が伝わり、やがては、
樹に棲む子供の形をした妖怪が生まれた、としても不思議はない気がするのだ。
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南の島の不思議な話 [旅]

インドネシアを初めて訪れたのは、もう三十年余り前のことになる。
相棒に、農業土木を専攻、大学で教えている友人がいて、彼が全国の
農業土木を専攻する学生・院生に「ジャワ島の土木遺跡を訪ねる」旅への
参加を呼び掛けたことがあり、私達夫婦も参加することになったのだ。

インドネシアは、古くから稲作を農業の中心にしてきて、さらに
火山国でもあるなど、日本に共通点が多い。水利の先進国である
オランダに統治されていた期間が長く、その間に創設された様々の
土木施設が今も残っていて、中には現役で活躍しているものも多い。
それを見学するための旅。ジャカルタから貸し切りバスで、ジャワ島内の
所々で宿泊し、農業土木に関する施設を見学しながら数日掛けて横断していく。

その間を通して付き添ってくれたガイドは二十代後半の陽気な男性で、
来日の経験はないというがなかなか洒脱な日本語を操る。
彼は同世代の学生たちに溶け込み、旅をより楽しいものにしてくれた。
その彼が、最初の夜、バスの中で話してくれたことが忘れられない。
「インドネシアでは、死ぬとお墓に入ります。でも、ある部族の人たちは、
小さな子供が死ぬとお墓に入れず、木の幹の空いているところに、葬ります」

バスのなかが、一瞬しーんとなったことを覚えている。学生達はみな驚いたのだ。
でも、ガイドの男性は、自分の日本語が通じなかった、と思ったのか、
「わかりますか、小さな子供が死ぬと・・・」と繰り返した。

それからは、大きく暗い森を通るたび、そのどこかに挟まっているかもしれない
小さな子供を想像して、ちょっと心が震えた。どうして樹に葬られるのだろう。
とずっと考えることになった。
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塩の道資料館 [旅]

松本清張も訪れたというヒスイ峡を、四十年遅れで訪ねることができた、
糸魚川への旅。でも思いがけないところにも、意外な収穫があったりするもの。

旅の二日目。兄夫婦が糸魚川の渓谷沿いにあるホテルを予約してくれて、
そこに一泊することに決まっていたのだが。途中、兄が、塩の道資料館、という
ところに寄ろう、と提案してきた。午前中にヒスイ峡を回り、食事をした後、
相馬御風の生家を見たり、一度自宅へ戻って、猫の世話(なんと三匹も飼ってる!)
をしたりした後である。もう午後三時を過ぎていた。

それなのに、塩の道資料館、なる建物がなかなか見つからない。
運転のプロである義姉も、スマホのアプリのナビ機能を操作しながら、
「この近くのはずなんだけれど」と、困惑した表情である。
私が食文化に興味がある、ということを知っていて、旅の行程を考えてくれている、
とわかっていたが、なんだか申し訳ない気持ちもして、「わからないなら、
次の機会にしようか」と提案したのだけれど・・。

小さな山沿いの道をくねくねと入っていったところにようやくみつけたのは、
もう四時に近い時間だった(開館時間は、四時までだった!)
そして、建物の前に立った時は、三人で、思わずのけぞった。

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私と義姉とで、唖然としている間に、兄はさっさと建物に入っていき、
入場券を買ってくれている。
「なんか、ドン引きするよね」
と義姉は笑っている。

一歩入るなり、古色蒼然としながら、かつての塩の道を歩いた人々、背負って
歩いた人を歩荷(ぼっか)と言い、牛に背負わせて引いた人を牛方という、
彼らの息遣いまで聞こえるような展示物に、圧倒されたのである。
一人五十キロを運んだ、というその塩俵の模造品もあり、私などは
持ち上げようにも、びくともしない。ニヅンボウと呼ばれる杖は、山道を行くときは
単なる杖だが、先端がL字型になっていて、途中でこれを背中に回し、荷物の下に
挟んで、立ちながら休むための、スタンドになるように作られているのだった。

他にも、運搬に使われたという牛のための道具などが揃っていて、
ガニと呼ばれる、牛の脚を保護するための縄でこしらえた靴状のものなども
あり、とても興味深かった。木造三階建ての、もう傾きかけているようなこの
建物に、塩の道を支えた沢山の道具類が所狭しと並んでいるさまは、壮観、としか
言いようがない。

説明してくれた資料館の女性も、素晴らしかった。もう開館時間を過ぎているというのに
嫌な顔ひとつせず、身振りを交えてじつに丁寧に教えて下さって・・・。

また、たぶん塩の運搬とは直接関係はないと思うのだが、積雪を利用して、
山から海側に物を運ぶのに使ったという、大ぞりは凄い存在感を示して
他を圧倒していた。

IMG_20230521_161946.jpg

写真下の館員の人は伸長150センチ強。大ぞりの高さは三メートルを優に超えるだろう。
写真からもその迫力は十分に感じて頂けるのではないだろうか。

塩の道は、糸魚川から松本に続く、千国街道と呼ばれるおよそ、百二十キロほどの
行路である。途中は山道もあり、運搬は大変な重労働であったらしい。
一度、自分の脚で歩いて見たいなあ、とも思う。難路ではあるが、白馬沿いの、
景色の美しいところであることには、間違いないらしい。



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