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山形新幹線 [旅]

朝日新聞は土曜日にBeという紙面が付録的についているが、
このBeには原武史氏による「歴史のダイヤグラム」という連載記事が
掲載されていて、いつも楽しみに読んでいる。本業は政治学である原氏は、
大の鉄道マニア、ということで、あれやこれやと実に詳しく、意外なネタを
次々に繰り出されていて、その懐は無限大のようなのだ。

先々週は「山形に先に到着するには」という題で、東京駅で山形新幹線を
見送った同じ人が、山形駅で、ホームに迎えに出ることができる例、を
紹介していて、驚かされたことだった。東京駅の22番線を7時12分発の
つばさ123号で出発した人を見送った後、21番線の7時16分発の東北新幹線
はやぶさ101号に載り込むと、この列車は宇都宮でつばさを追い越し、
仙台に8時49分に着く。急いで駅前のバス乗り場から8時52分発の山交バスに
乗ると、このバスは9時52分に山形駅前に着き、先のつばさ123号(10時06分着)
を、ゆっくり出迎えることができるのだという。

なんでこんなことになるのか、そのあたりを原氏は、なかなか鋭く
突いておられて、興味深いのだが。要するに、山形新幹線を創設した以上、
存在意義を際立たせるために、やや姑息な手を打っている、ということなのだ。
以前は仙山線を走らせていた特快をなくして、快速に落とし、その本数を
減らしたこともそのひとつ。山形交通が走らせている高速バスは、JRの
事情など関係ないので、この区間をこの速度で走り、山形新幹線を先回り
してみせてくれている、というわけである。

山形で育ち、特別な思い入れもある私には、ちょっと悲しい気持ちに
なるようなJR裏事情だった。

先々月に米沢に半世紀ぶりに訪れたことは、このブログでも何度かに
わたって綴ったのだけれど、山形新幹線はその時に初めて利用した。
これまで、東北新幹線の方は何度か利用していたのだが、山形新幹線が
東北新幹線と福島まで併結して走る、ということを知らなかったので、
東京駅で、東北新幹線の方の車両に乗ってしまった私は、指定席の番号の
車両に行き当たることができず、右往左往したことだった。

山形新幹線の車両は、前方に併結されて走っているらしい、と気付いて
ようやくほっとしたのだけれど。福島までは待ちきれず、途中、
大宮でさっと降りて、山形新幹線の方の車両にうつり、ようやく
指定の席を見つけたときは、心底ほっとした。

でも、間違えて、山形へ行くべき人が仙台へ行ってしまったり、
その逆も多いのだとか。福島が近づくと、
「この車両は、山形新幹線です。福島で切り離します。
仙台方面へお出かけの方は・・・」とアナウンスが入る。

福島からは、山形新幹線は在来線の線路上を走るので、
見違えるほど、速度がのろくなる。これが新幹線!? と
いやになってしまうほど。そして、周囲の景色も、がぜんのどかに
見えてくるのだった。そしてなんとなんと、終点の新庄近くでは単線区間を
はしることもあるのだそうだ。新幹線が単線って、アリか?

そんな経験から、こんな歌ができ、昨日の横浜歌会の詠草として
提出してみた。

  「福島で切り離します」目瞑りて運ばれてゆく寂しい方へ
                      岡部史

横浜歌会には東北出身の人が複数いる。きっと正確に読んでくれる人が
いる、と安心して出したのだけれど。そして、やはり山形市育ちのMさんが
的確に読み、批評してくれて、ほっとしたのだけれど。
現実の山形新幹線を離れ、震災後の福島の孤立性に言及された方や、
どこか遠い未知の世界へと(まさにみちのく、通の奥)運ばれていく心細さなどを
汲み取ってくれた方もいて。
意外なことだったが、それもそれで、とても面白く楽しいことだった。
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万葉翡翠(その4) [旅]

 助教授は引き出しから文庫本の万葉集を出し、その頁を繰って
 開いた。「これだ!」学生たちは教授の抑えた指先に目を集めた。

 渟名(ぬな)川の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて 得し玉かも
 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜しかも
               『万葉集巻十三 3247)』

              松本清張『万葉翡翠』

清張の『万葉翡翠』が最初に発表されたのは1961年(「婦人公論」2月号)で、
清張はその小説の執筆時には小滝川のヒスイ峡を訪れてはいなかったとのこと。
来訪が叶ったのは1983年に企画されたNHKの番組「知られざる古代 日本海五千年」の
収録のため、ということだった。清張の小説、さらには糸魚川来訪が、
この地のヒスイに新たな局面を切り開く大きなきっかけとなったことは
間違いないだろう。

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写真はその時に撮影された写真を掲載した新潟日報の記事(2022年12月13日付)
私もまた、ようやく清張が見た視野に立てたのだな、という感慨が湧いた。
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万葉翡翠(その3) [旅]

翡翠峡への道は、現在は一応舗装はしてあるのだが、細く
曲がりくねっていて、運転は大変そうだった。でも運転のプロである
兄の奥さんは、楽しそうに鼻歌交じりに谷を下っていく。見た目は
とても華奢で、街角のブティックの店員さん、みたいな雰囲気なのに、
大型のトラックの運転手さんとは! ギャップ萌えしそうである。

そうして、ようやく翡翠峡に辿り着く。その清流の美しさに息を呑んだ。
翡翠の原石があるところまで、さらに下って行って、写真を撮る。

IMG_20230521_100653.jpg

誰もが自由に河原の石を持ち出せたという時代もあった。
当時はこの河原に辿り着くまでが難行苦行で、持ち帰れる石の大きさも
限られていただろう。車道が整備されている現在は、持ち出しを厳しく
禁止されているのは、当然なのだが。

写真に写っている大きな岩の幾つかは翡翠の原石なのだが、そうではない
石も混じっている。そして素人目には、どれが原石で、どれがそうではないのか、
よくわからない。先回触れた、四十年前に松本清張がこの翡翠峡を訪れた折に
ついての記事にも、清張が、河原の石を拾い上げては、
「これが翡翠ではないか」
と、付き添いの市職員に尋ね、
「いや、違います」
という会話を七、八回も繰り返したそうだ。そこで諦めたらしいのだけれど。

私は翡翠そのものより、その翡翠のそばを流れる清流の
美しさの方に目を奪われてしまった。子供の頃に住んでいた町のはずれにあった
荒川峡という峡谷には、よく連れて行ってもらったし(徒歩で一時間強かかった)
そこでお昼を食べたり、冷たい流れに足を浸して遊んだりしたことが
とても懐かしく蘇ってきたのである。(続きます)
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万葉翡翠(その2) [旅]

半世紀ぶりに糸魚川を訪れるきっかけを作ってくれたのは、私の兄。
私はこの兄のことにまったく触れずにきたが、理由は簡単、ほとんど一緒に暮して
こなかったからである。私にはよくわからない部分が多く、歌に詠んだこともない。

四年前に父、昨年には母、と相次いで亡くなり、長く疎遠にしてきた兄と
話合わなければならない場面が多くあり、そうして互いの間が急速に縮まり・・・。
父が祖父から相続していた糸魚川の地所を、さらに相続した兄が、定年後その地に
住むことになった。

「糸魚川を訪ねてみないか」と声を掛けてくれたのは半年ほど前だった。
清張の『万葉翡翠』の話をすると、「その本なら自分も読んだ」という。
「ちょうど四十年前、清張自身が姫川の支流の、翡翠の原石がある小瀧川峡谷に
来ているよ。そこへ一緒に行こう」と話が進んだのだった。

昨年十二月の新潟日報に三度にわたって「清張と糸魚川」という記事が掲載された
そうで、その掲載紙も送ってくれた。一面の大半を占める大きな扱いで、清張が
峡谷の清流に足を浸しながら、同行した当時の市の職員らと、何か話し合っている
様子を写した写真も掲載されている。清張は片足は裸足だが、左足だけ黒い靴下を
履いたまま。大作家の素顔が見て取れて、ちょっと可笑しい。

翡翠峡への道は、当時は全く整備されておらず、肝を冷やす場面も多かった、とか。
今はかなり状態が良いとはいうものの、悪天候なら中止しようと話合った。
私はかなり「雨女」っぽいが、この度の予定は兄の方からの提案によるから・・・。
案の定、私が糸魚川を訪れた日は、どんよりと曇っていて、今にも降りそうな
空だったが、翌日にはからり、と晴れて暑いくらいの陽気。

運転してくれたのは、兄の二番目の奥さんで、まだ五十代半ば。
ほっそりとした色白の美人だが、なんと大型車の免許を持つ、現役のトラック
運転手さんである。愛車のレクサスは、峡谷の道には大きすぎる、と言い
スズキのeveryで、出発することになった。私の人生に、こんな日が来るなんて、
とちょっと感無量。そんな感傷は置き去りに、美しい新緑の谷をこの小型車は
ひたすら、降りていくのだった。翡翠の原石の転がる清流めがけて。(続きます)
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万葉翡翠 [旅]

父の郷里は新潟県糸魚川市。子供の頃、我が家は新潟県村上市にほど近い、
山形県南西部の小国町で暮していた。年に一度か二度、一家で糸魚川の
祖父母の家に出かけることが恒例となっていたが、何しろ遠い。地図で
ご覧の通り、糸魚川は東西に長い新潟県の西端、一方の村上市はほぼ東端。
直線で二百キロ以上も離れているうえ、今もだが、当時はさらに国鉄の
連絡が悪く、朝五時過ぎの一番列車で小国町を出発しても、糸魚川に着くのは
夜八時半を過ぎていた。父以外は家族のだれも、この実家行を嫌っていた。

松本清張の『万葉翡翠』という短編を初めて読んだのは三十代くらいのとき。
数多い清張の推理小説のなかでは、並の作品、という印象で、特に心を
惹かれることはなかったのだが・・・。

四年余り前、父がもう危篤状態に入った頃、何となく手にした清張の
短編集の中に『万葉翡翠』が収められていて、再度読むことになり・・・。
短編の推理小説としては複雑になり過ぎていて、失敗作かな、という
印象は依然変わらなかったが、糸魚川の翡翠を題材にしているところに
心が留まった。糸魚川市内を流れる姫川。その美しい渓谷から
発見されると言う石のことは、子供の頃、何度も両親や祖父から
聞かされてきた。父に連れられて、姫川の河口で石拾いをしたことも
ある。もちろん、翡翠を期待したわけではなかったが。

母は父と婚約した時に、祖父から贈られた、という深い青緑色の
翡翠を加工した指輪を持っていて、とても大切にしていた。現在は私の妹が
母から引き継いでもっているのだが。他にも祖父の家の浴室の床には、
祖父が若い頃に姫川で拾ったという、翡翠の原石が埋め込まれていたことを
覚えているのだ(こちらは現在、行方知れずである)。

最後に糸魚川を訪れたのは学生時代の頃で、すでに半世紀近く過ぎている。
もう一度、糸魚川を訪れたい。清張が小説の舞台とした姫川の
小滝川沿いを歩いて見たい、と強く思うようになった。(続きます)
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生田緑地 [旅]

一週間程前、学生時代からの友人Pからメールがあり、8日の週のいつか、
会えないかとのこと。天気次第だが11日あたりはどう? と返信する。

11日、朝から綺麗に晴れた空が広がり、とりあえずほっとする。私は
どちらかというと「雨女」なのだ。塔短歌会の横浜歌会二十周年の
記念吟行会を開いたときも、その日だけが大雨だったし。先月の米沢行も、
雨交じりの寒い日。私が主体的に選ぶと、晴天という日は少ないのだ。

でも今回はPが週を選んでくれ、その中の一日を私が選んだことになり、
それでお天気に恵まれたのかも。予報には午後三時以降に、小さな傘マーク、
四時以降は大きな傘。でも待ち合わせは十時、それに彼女は、いつも早めに来る人。
食事して帰る頃までは大丈夫だろう、と傘は持たずに 私も早めに出かける。

彼女が今回訪れる場所として選んでくれたのは、向ケ丘遊園近くの生田緑地。
地図を確認して、我家からは電車で一時間ほどで着くはずと判断。
生田緑地は川崎市多摩区に属する。Pによるとここには市が管理する
薔薇園があり、毎年薔薇祭が開催されるので、そこを訪れようとのこと。

駅で会ってから気づいたのだが、私の思っていた生田緑地とは少々
違う場所にあった。この緑地は飛び地で複数あるらしい。思っていた
より遠い。そして薔薇園はかなり急な階段を上った小高い山の上に開かれた
土地に造成されているのだった。その階段、所々が見上げるほどに急である。
このところ散歩して足を鍛えてはいるけれど・・・。少々、足がもつれ気味。

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開場してまもなくに入ったので、当初はまばらだった観覧者が見る間に
増えていく。薔薇は今年の陽気の早さで、すでに散り始めているものも。
でも、様々は色彩の薔薇が、それぞれのかたちで命を繋いでいる様子に感動する。

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全体的に見て、赤い花は早く咲き、白や黄色の花は少し遅い、という印象。

薔薇園を一時間余り巡った後、生田緑地を離れ、ランチを摂るため
駅方向へ戻る。実はこの日は、私が昼食の場所をおおまかに選んであった。
スマホで場所を特定するのが苦手で(どうしても歩きスマホになっちまうし)
プリントアウトしておいた地図を片手に、駅の向こう側へ出る。

すると、何やら緑地側とはガラリ、と光景が変わり、全体的に「造成中」の
印象に焦る。道は大きく開け、ところどころ、
今敷き詰めたばかり、といったアスファルトの道路が広がり、
駅前の建物も、新装直後、といった雰囲気。目指す道がよくわからない。
お目当のイタリアンレストランにたどりつけず、他に目ぼしい店もなく、
結局、中華料理店で昼食を摂ることに。ごく普通の、味より量みたいなお店で(汗)。

おおらかな性格のPは、「良かったじゃん、味もまあまあ。」と言ってくれたけど。
一時十分前、それぞれ別方向の小田急に乗って帰宅。私は二時少し前に家に着き、
雨には合わなかったのだが。私より少し早く帰宅できたはずのPは、びしょぬれに
なってしまったのだとか。二時にスマホを見ると、多摩区に豪雨注意報が・・・。
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米沢・半世紀(その6) [旅]

今回の米沢への旅の、大きなテーマのひとつが「置賜の味」。
住んでいながら、子供だったこと、また米沢では特に、下宿の
賄飯に限定されていたことから、地域の食材について知ることも、
また自分で考えることもなく過ぎてしまっていた、その失われた時間と
機会を、少しでも取り戻したい、という気持ちが強くあった。

私を米沢に誘ってくれたYさんは、私の意向をよく理解してくれて、
地域の特産物を入手できる店舗に、数多く案内してくれた。
米沢に着いてすぐ、連れて行ってくれ、ご馳走して頂いた郷土料理店では、
おかひじき、こしあぶら、うこぎ、たらのめ、などを
おひたしや天ぷら、混ぜご飯、などで頂くことができて、感激だった。

米沢市内の「愛菜館」というお店では、くきたち、あさつき、
ふきのとう、新鮮そうな葉のついた大蒜(日本では初めて見る)、
などの野菜が売られていて、興味深かった。行者にんにくにも
目を奪われた。これもまた、初めて目にする野菜である。
ずっと以前に読んだ、中国の古典『紅楼夢』で知り、名前が
ちょっと厳めしいので心に残っていた。ついに出会えた、という気持ち。
愛菜館では、そばの花と紅花入りそば茶、を購入(早速飲んでいる。
蕎麦の薫りがすばらしくて、癖になりそうな味である)。

川西町の「森のマルシェ」では、YさんもKさんも「美味しいよ!」と
勧めてくれた「むくり鮒」を購入した(これも帰宅してすぐ食べた)
こぶりの鮒のはらわたを抜いて、裏返すように畳み、じっくりと弱火で焼き、
油で二度揚げし、砂糖醤油にからめ煮し、さらに乾燥させて作るのだとか。
むくり、とは置賜地方の方言で、「ひっくり返す」という意味らしい。
ちなみにこの後、私は山形市へ足を伸ばし、山縣在住の知人に会うのだが、
そこで知人に「川西にはむくり鮒って、美味しいお魚があるでしょう?」と
言われた。「あれは、川西でしか買えないんだよね」というので、
「なんだそう聞いていたら、お土産に買ってきたのに」と告げたことだった。

食べてみると、香ばしく甘辛いお煎餅のよう。でも、そのなかに
しっかりとしたお魚の味がして、幾つもの調理の過程を経て、
この味が出来上がっている、ということを確かに想像させる味だった。

遅筆堂で井上ひさしの蔵書を色々見せてもらった後、館長のKさんが
近くの甘味喫茶店へ案内して下さった。川西町は紅小豆で町おこしを
している、とはあらかじめYさんから聞いていた。この甘味店も
紅小豆などを用いた和菓子を製造販売するお店だった。その一角で、
柏餅を頂くことになった。ふっくらとしたお餅が素晴らしく美味。
次いで、紅小豆の羊羹も味見させてもらう。すっきりとした上品な味の
羊羹だった。川西町は米沢にほど近く、列車ではいつも通っていた町
なのだけれど、本当に多くを知らずに来たなあ、とあらためて残念に思う。

この紅小豆を用いた羊羹は購入したかったが、あまりに重いので
怯んでしまった。旅の支度が不十分だったことを思う。以前は鞄の中に
小型の段ボール箱を畳んだものを偲ばせておいて、購入したものを入れ、
途中のコンビニなどから自宅宛てに配送を手配したりしていたのに。
今回は、ちょっと配慮が足りなかったなあ、と悔やんだ。

その夜は、Yさんの旦那さんから米沢牛のすき焼きをご馳走して
頂くことになった。車での移動続きで、あまり歩いていないので、
お腹が空いていないのがとても残念だったが。米沢牛はさすがに
美味だった。とろけるように柔らかく、それでいてしなやかな歯ごたえ
があり、甘い。牛肉と共に食べる野菜や豆腐の類も美味しくて、
もう少し私の胃が大きくて丈夫なら、と思わずにいられなかった。

Yさんの旦那さんは私より数歳も年下になるのだが、やはり興譲館高校の
出身ということで、色々と共通する話題もあり、楽しかった。
Yさん、Kさん、さらに遅筆堂の館長のKさんらとは、主に俳句や短歌など
文学談義が中心だったが、Yさんの旦那さんとは、置賜の災害史をたどる、
みたいな話題が多くて(昭和38年の豪雪、39年の新潟地震、42年の羽越水害
などなど)ほど近い地域圏に住み、同じ時間を共有してきたことに親しみが募った。

米沢を去る日、私は駅の売店などで、留守番の夫に頼まれたお土産、
鯉の甘煮、山菜の水煮、山形だしの素、餅菓子などを買い込み、バッグは
はちきれそうに重くなってしまった。短期間だったが思い出もたっぷり
詰めて、米沢を去ることになった。お世話頂いた多くの方々に感謝の
意を表して、この項を閉じることにしよう。 

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米沢・半世紀(その5) [旅]

山形県は一人当りのラーメン消費量が日本一、米沢もまた、ラーメンの
おいしい町。それで米沢での二日目の昼食は、ラーメンにしようと
話合っていた。Yさんの友人Kさんも一緒に、地元で評判のラーメン店へ。
スープは鶏ガラ+かつおだし。定番の焼き豚のかわり、
こちらは煮豚、メンマのかわり、ゆでタケノコが添えられている。
想像していたよりあっさりとした味で、なかなか美味だった。
半世紀前、米沢を発つ日に私が食べたのも、駅の食堂でのラーメンだった。
気がつくと、思い出も一緒に食べている・・・。

午後は、Yさんの出身地川西町に出かける予定を立てていた。川西町といえば、
劇作家、井上ひさしの出身地で、その縁から「遅筆堂」という施設が
あるということは知っていた。Yさんの友人のK氏がここの館長さんとのこと。
私が『魔女図鑑』の訳者であると知って、来館を楽しみにしてくれている、
と聞いて、私もとても楽しみだったのだが・・・。

井上ひさし・・・・実はあまり読んでない。
古い読書ノートを捲ると『私家版 日本語文法』についてのメモが残っていた。
「日本語を語りながら、日本民族の特徴を探る優れ技」とか、書いてある。
もう四十年近くも前のことだった。この後、『吉里吉里人』を読みかけて・・・。
う~ん、長すぎて読了できないままだった記憶がある。

「遅筆堂」は素晴らしい場所だった。とにかく井上ひさしの寄贈図書が凄い。
およそ七万冊。それが何か所かに分けて保存してある。入り口近くに備えられた
「本の樹」という高い書棚にも圧倒される。これは図書館利用者が自分の読了した
井上ひさしの著作の寄贈書が収められている。一定の展示を経て、その後は
学校図書館などで利用されるのだそうだ。

井上ひさしからの寄贈書は、図書室に収まりきらず、大型の可動書棚を
収めた倉庫にびっしりと収納されていた。「樋口一葉」「シェークスピア」
などなど、井上氏が取り組んだテーマに沿って、綺麗に分類されていて
ひとつの仕事に取り組むためにいかに大量の資料にあたったのかが、
一目瞭然だった。各書にはびっしりと長めのポストイットが挟み込まれ、
それぞれに、彼らしい独特の丸文字で書き込みがしてある。
頁のところどころに赤線も引いてあり、彼の興味を引いた部分が、
これまた明瞭にうかがえる、一冊一冊が井上ひさし、の足跡と
なっていたのだった。倉庫の中まで案内してくださり、丁寧に説明して
くださったEさんに、感謝したい。
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米沢・半世紀(その4) [旅]

思いがけなく、高校生の一学期だけ暮していた町、米沢を
半世紀ぶりに訪れることのできた私。見ず知らずの私にその
機会を与えてくれた米沢在住のYさんは、私がかつて下宿していた
場所へも案内してくれた。記憶はあいまいなのだけれど、当時の
大家さん宅に同年代の女の子がいて、上京してからも何度か手紙の
やり取りをしたことがあったことから、住所を覚えていた。

下宿屋さん宅は、小さな町工場を経営していて、その工場の横と
工場上に、七、八個ほどの個室を設け、市内の大学生や、家が遠くて通学は
できない高校生に、賄付きで貸していたのである。

父の転勤が急だったことと、最初から短期の入居とわかっていたため、
下宿には最低の生活用品しか持ち込まなかった。カーテンさえなく、
建物の一番東端にあった私の部屋には朝日がもろに差し込んで、
嫌でも早く起きなければならなかった。洗濯機も掃除機もなく、
食堂に置かれたテレビも、自由に見れるという雰囲気ではなく・・・。

思い返せば、実に不便な三か月だったわけだけれど。
それでも何か、ふわふわとして自由だったことを、ちょっと
甘酸っぱい気持ちで思い出しながら、かつての下宿近くを
散策した。Yさんと、翌日にはYさんの友人のKさんも加わって、
かつての下宿が残っていないか、今はどうなっているか、探したが、
結局、見つけることはできなかった。番地が飛んでいて、その
近所で尋ねてみても、下宿の大家さんの名前を知っている人にさえ
出会えなかったのである。半世紀って、たとえ小さな町の一角でも
これだけ変わってしまえる時間なんだ、とあらためて思った。

下宿の窓の下を流れていた川だけが、その頃と同じように流れ、
ちょっとほっとすることもできたのだけれど。

懐かしかったのは、西米沢駅。米沢は古い城下町で、鉄道敷設の
計画が起きた時、町なかを通すことに反対する人たちが多かったらしい。
結局、中心部を迂回するように、米沢、南米沢、西米沢の三つの
駅ができることになった。私が通学した興譲館高校は、西米沢が最寄り駅。
とはいえ、駅周囲には何もなく、真直ぐに続く田んぼの中の一本道を
せっせと二十分以上歩いてようやく着く。今は田は一面もなく住宅が
みっしりと建っているさまに驚いた。もうこの道にあの日の面影はない。

両親と妹が先に東京へ転出してしまっている私を、一緒に高校に進学した
小国町の友人たちが、週末に自宅に呼んで、泊めてくれたことが何度かあった。
その時、せっせとこの道を歩いて往来したことがとても懐かしく思い出された。
西駅のまわりは相変わらず何もなく、桜の木が二、三本、立つのみ。
涙が出るほど懐かしかった。米坂線は昨夏の豪雨により、運休したまま。
錆びの浮く、静かな単線を見ながら、涙が出そうだった。
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米沢・半世紀(その3) [旅]

米沢駅に出迎えてくれていたYさんの車で、昼食を摂るために
案内されたのは、よそから来たものには絶対に見つけられないような、
まさに「隠れ家」的な郷土料理店。私が米沢の郷土食に興味を持って
いたことを知って、手配してくれていたのだった。古い民家をそのまま
利用したお店で、中庭には鯉が泳ぐ池も見える。

席は囲炉裏のそば。寒い日だったので、そのぬくもりが有難く。
囲炉裏の火で焼いたお餅が最初に登場するのにもびっくり。
茄子のもろみ添え、辛子醤油で食べるおかひじきや、こしあぶらも
抜群の美味しさだった。さらにうこぎ! 米沢で、垣根に植栽する
うこぎの若芽を食用する、ということを知ったのは、何年か前に観た
テレビ番組「秘密の県民ショー」でのこと。米沢に暮していたのに、
こういう食べ物、全く知らなかったなあ、と感慨深い。
うこぎご飯は、加減抜群の塩味。やわらかい苦みが舌に心地よい。

米沢は貧しい町だったが、名君・上杉鷹山の登場で、様々な
産業の振興が図られてきたことでしられている。米織や鯉の養殖などが
有名だけれど、うこぎの植栽・食用化などもその一つと知ると、この
名君の、民衆の生活の細やかな部分への配慮が感じられて、感動する。

Yさんにはその後、米沢市の「織」や「染」「縫」に触れることのできる
場所へ案内してくれた。米沢民芸館は、古い民家の中に古代の様々な織物が
展示してあって、その素材の多様さに驚かされた。楮、葛、麻、からむし、
いらくさ、などなど。榀の布、というものもあって、あらゆる植物が
衣料への利用を試みられた結果なんだろう。こうした蓄積が、後の米織
への道を拓いたんだなあ、とあらためて思った。

次いで、近所の遠藤きよ子さんの工房へ移る。遠藤さんは米沢に伝わる刺し子の
名手として世界的にも知られている、八十代半ばの女性。米沢の刺し子は
原方刺し子と呼ばれ、上杉藩の下級武士の妻たちが、布を繋ぎ合わせ、
丈夫にするために施したのが始まりらしい。こうした手仕事は、たとえば、
アメリカ南部辺りに伝わる、キルトにも通じるものがあって、面白い。
キルトもまた、古くなった布地の傷みの少ない部分を切り取って接ぎ合せて
作る、いわゆる再利用の文化が発端なのだから。       (続きます)
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