折々の作家・宮沢賢治(その4) [文学]
宮沢賢治について、忘れられない思い出はたくさんあるのだが。
その一つは、私が上京して高校に入学して間もなくの頃のこと。
中学まで山形で暮していた私。当時の幼友達のMちゃんが、
お父さんの転勤で山形から盛岡へ移ることになった、と連絡があり。
ちょうど高校二年生になるときのことで。私は春休みを利用して
生まれ育った町を訪ね、Mちゃんと、再会した。その折、
やはり幼友達だったYちゃん、Hちゃんとも会って話し合い、
Mちゃんにお別れの記念品を贈ることに決めたのだった。
何か実用的なものを一つ、さらにHちゃんの提案で、
「宮沢賢治詩集」も贈ることにした。
この時私は、「他のものがいいんじゃないかな」と思ったけれど、
Hちゃんは当時親分肌なところがあって、言い出せなかった。
後日Mちゃんからお礼の手紙が届いたのだが、そこに
「こちらで賢治のことなんか話題にしようとすると、
ずいぶん白けたような対応をされてしまう」というような
ことが書かれていた。
高校生ということを考えるとそういう態度はわかるような
気がした。だいたい、若いころは自分の育った地域なんか
どうしても見下したい、風土なんかに縛られたくない、
と思うものだし。故郷の偉人なんか、ちょっと面はゆい、
という感じもしたり。気持ちはそう単純ではないのだ。
私も宮沢賢治に関する童話やら伝記やらに子供の頃から
ちょこちょこと触れてはきたわけだが。いかにも東北人らしい、
粘着質で、根が暗い感じがすること。さらにあのZ音が重い
東北弁がうざたらしくて・・・と、疎ましく思えることの方が多かった。
本当にいいなあ、好きだなあ、と思えるようになったのは、
上京してから、そして十代の終りになってから、なのだった。
絵画や音楽なら、こうではなかったはず。文学が言葉によって
直接的に心に呼び掛けてくる表現だからこそ、
なにか屈折し、距離を置かずにいられなかったのだと今にして思う。
その一つは、私が上京して高校に入学して間もなくの頃のこと。
中学まで山形で暮していた私。当時の幼友達のMちゃんが、
お父さんの転勤で山形から盛岡へ移ることになった、と連絡があり。
ちょうど高校二年生になるときのことで。私は春休みを利用して
生まれ育った町を訪ね、Mちゃんと、再会した。その折、
やはり幼友達だったYちゃん、Hちゃんとも会って話し合い、
Mちゃんにお別れの記念品を贈ることに決めたのだった。
何か実用的なものを一つ、さらにHちゃんの提案で、
「宮沢賢治詩集」も贈ることにした。
この時私は、「他のものがいいんじゃないかな」と思ったけれど、
Hちゃんは当時親分肌なところがあって、言い出せなかった。
後日Mちゃんからお礼の手紙が届いたのだが、そこに
「こちらで賢治のことなんか話題にしようとすると、
ずいぶん白けたような対応をされてしまう」というような
ことが書かれていた。
高校生ということを考えるとそういう態度はわかるような
気がした。だいたい、若いころは自分の育った地域なんか
どうしても見下したい、風土なんかに縛られたくない、
と思うものだし。故郷の偉人なんか、ちょっと面はゆい、
という感じもしたり。気持ちはそう単純ではないのだ。
私も宮沢賢治に関する童話やら伝記やらに子供の頃から
ちょこちょこと触れてはきたわけだが。いかにも東北人らしい、
粘着質で、根が暗い感じがすること。さらにあのZ音が重い
東北弁がうざたらしくて・・・と、疎ましく思えることの方が多かった。
本当にいいなあ、好きだなあ、と思えるようになったのは、
上京してから、そして十代の終りになってから、なのだった。
絵画や音楽なら、こうではなかったはず。文学が言葉によって
直接的に心に呼び掛けてくる表現だからこそ、
なにか屈折し、距離を置かずにいられなかったのだと今にして思う。