SSブログ

オペラ・ツゥーランドット [藝術]

11月は毎年、忙しい月。今年は9、10月の二度にわたる
台風の被害の影響もあり。壊れた物置の買いなおしたものがようやく納品。
庭の植木の選定も、11月にずれこみ・・・。
車検、インフルエンザの予防注射、遅れていた相続税の納税・・・。
さらに下旬には京都での「塔」の編集会議出席、などなど。

そんななか、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の
オペラビューイング2019-2020が、いよいよ始まり、時間をみつけて
観に行くことに。初回はヴェルディの「ツゥーランドット」である。

良く知られている演目なので、わざわざ筋を紹介するまでもないが、
中国の冷酷な王女ツゥーランドットは男性不信に陥っていて、
誰とも結婚したがらない。申し込む相手に三つの難問を出し、
解けなければ、その場で首を斬る、という徹底ぶり。

そこにカラフという異国の王子(中央アジアにあったという
韃靼国の王子らしい)が現れ、みごと難題を突破する。
だが、翌朝までに自分の名前を当てられるのなら、
ツゥーランドットとの婚姻をあきらめる、と宣言する。

ツゥーランドットで一番有名な曲、「誰も寝てはならない」
は、ここで流れる。きっと多くの人がそうだと思うけれど、
私もこの曲を聴きながら、荒川静香さんが、優雅にイナバウアーを
披露する姿を思い浮かべてしまいました。

この歌劇は、合唱隊がほとんど全幕で舞台に登場していて、
力強くも豊かな合唱を多くの場面で繰り広げてくれること。
このメットの舞台は、かのゼフィレッリ監督の手によるものなので、
舞台装置の華麗さ、衣装の豪華さには目を奪われる。

私はこの演目のLDも持っていて、随分以前に見ているのだが、
やはり大画面で見る迫力は特別のものがあった。
さらに、最初に見たときは、ちょっと中国の王女、という
扱い方(彼女が異様に冷酷なので)に、アジアへの差別的な
視線も感じて、ちょっと抵抗もあったのだけれども。

今回見てみると、やはり「中国」的ではありながら、
その雰囲気はどこにもない、想像の国を想定している感もあり。
衣装とか、建物とか、微妙に「中国」からずれている感じが
そう思わされるのだろう。架空の地域の、おとぎ話、という
ような受け止め方でもちろん、かまわないのだ、と思った。

オペラの本質はもちろん、歌唱だし、歌唱を通して、
ひとときの異空間を楽しむことだし。

それで一言いいたいのは、ビューイングの途中に入る、
インタビューである。オペラはインターバルが長いので、
本番ではお休み時間にあたるのだろうが、そこで今まさに
異国のお姫様や王子様を演じていた歌手が、インタビューに応じて
演じ方の難しさとか、見所なんかの質問に答える場面が長々と
画面に流れる。この後、またお姫様に戻るのに!

これはやめてほしい。異空間に浸りきれなくなる。なんで、
こんなバカげたことをやるのか、毎度、腹が立つ。
nice!(0)  コメント(0) 

薔薇園で [生活]

学生時代の友人、Pと待ち合わせして、調布の
神代植物公園に出かけることにした。Pの家は、調布まで
30分くらい。我が家からは一時間半かかる。
二人で調布駅前からバスに乗り、公園までは20分くらい。

学生時代の同窓生だから、長い付き合いになる。
Pは、彼女の綽名の頭文字。私の綽名は「フーコ」。
お互いにこの名前でしか呼び合わない。「フーコ」は
ともかく、Pなんて呼び続けていいんだろうか、と
彼女に聞いたことがある。「別に、いいよ」という返事。
それで、私は彼女を綽名以外で呼ぶことはほとんどない。
だが、皆無ではない。たとえば、以前新宿で待ち合わせたとき、
遠くから彼女を見つけた私は、「P!」と呼ぼうとして、
ためらった。つい、周りの耳を気にしてしまって。
あらためて「Nさん」と名前で呼ぶことにしたのだった。
振り向いた彼女は、ちょっとびっくりしたような顔をしていた。

お喋りするうちに公園に着く。今は秋の薔薇が見ごろなんだって、
と彼女が事前に集めていた情報通り、早速薔薇のコーナーへ。
雲一つない、日本晴れのもと、薔薇の名前を確かめながら、
ゆっくりと歩く。

「ここね、小学校の時遠足に来たことあるのよ」
ああ、Pは、このあたりで育ったんだよね、世田谷?
「そう、昔はほんと、のんびりしていて農村の雰囲気が
残っていたわ」
で、S県に引っ越したの、いつなの?
「中学二年」
あ、そうだったんだ。小学校の頃かと思った。
じゃあ、慣れるのに時間かかったんじゃない?
「うん、進学テスト、とか毎週あって、
成績が悪いと体育館に座らされてね・・・」
え!? そんなことさせられてたの?
「ぶたれることもあったわ」
何も返事ができない。
「高校はね、自由な雰囲気で、もう、ほっとしたの」

そんなお喋りの最中である。彼女のスマホに
電話がかかってきたのは。
彼女は、何か低い声で話していたので、
私はさりげなくその場を離れ、薔薇園を巡る。
まるで西洋の公園のような、大きな噴水があるところへ。
すべてが輝くように美しい。薔薇も、水も、彫像も・・・。
そこで写真を撮ったりしていると、長い電話を終えた彼女が近づいてきた。

ああ、なんてことだろう。彼女の身内の小さなひとが、
(まだ二歳)、危篤状態に陥っているというのだ。
彼女はしばらく茫然として、事態を受け止めきれない感じ。
ともかく、私たちは(入場したばかりなのだが)公園を後にすることになった。
こんなこともあるんだ。美しい薔薇の園を見渡しながら、
信じられない思いだった。
「落ち着いたら連絡する」
「うん、また、機会があったら、会おうね」
そういって、別れたのだけれど。
空が明るすぎる、と感じた一日・・・。
nice!(0)  コメント(0) 

クラシックを聴く(その6) [藝術]

クラシック音楽にまつわる短歌、また音楽そのものを
詠んだ作品もまた、少なからずある。曲名をそのまま出しては
歌にならない、という場合も多いようで、作品はさりげなく、
音楽の場面や、雰囲気を詠んでいることが多く、そうした歌を
読みながら、作者はどんな音楽を聴いているんだろう、と
想像するのも楽しい。

 めぐりなる山脈(やま)瀝青の香をもてりピアノの高音打ちてあらそふ
               葛原妙子『原牛』
 虚空より薔薇を摑みとらむ指揮悲しくぞも老いにけるらし
               葛原妙子『薔薇窓』
 なつかしき木の香の満つるチェロの中このしばらくを睡りに帰還る
               小池光『バルサの翼』
 母に繋がる刻かと思うフルートを聴きわけるどの風の中にも
               平井弘『顔をあげる』
 オルガンの残響ながき午後の部屋あなたに遠く時の降りつむ
               今野寿美
 それは北欧の木のこゑあかつきの空を染めゆくバスクラリネット
               永井陽子『樟の木のうた』

「クラシックを聴く」は、とりあえず終了します。
  


nice!(0)  コメント(0) 

クラシックを聴く(その5) [藝術]

クラシックって、みんなどんな風に聴いてるんだろう、
そんな疑問を感じてしまうこと自体が、そもそも音楽の
感性に欠けている証拠のようなもの、と思っていた私。

クラシックに惹かれていくきっかけはクラシックそのものではなく、
異なる分野の方からやってきた。面白いな、と今は思える。
九十年代初頭くらいまでは、ピアノ曲を聴くことが多かったのだが、
弦楽もいいな、と思えるようになったのは、ある映画がきっかけだった。
九十年代後半、私は一時、チェコ語を学んでいたことがある。
日本人と結婚していたチェコ人のDさんに個人授業を受けていた。

Dさんは、プラハの大学で日本語を学んだ人で、流暢な日本語を
操り、外国語学校の教師もしていた。その頃、映画「コーリア」が
アカデミー賞外国語賞を受賞、日本でも「コーリア 愛のプラハ」
という題で、ビデオ発売されることになった(当時はまだビデオが
主流だった)。Dさんはその字幕担当グループの一人になり、
その時に入手したテープを「まだ、字幕はついてないけど」
と、貸してくれたのだった。

私は彼女が作成した「日本語字幕案」のコピーを片手に、
この映画を観た。主人公はチェリストだったので、
映画全体に、様々な弦楽曲が流れ、これを聴けるだけでも
「お得」と感じられるような映画だったが。

映画の冒頭近く、困窮化した主人公がお金の算段のため、
墓守の友人を頼って墓場に行く場面があるのだが・・。
帰り道、枯れた木木の間を歩くわびしい場面で流れた曲が
耳に止まった。その曲は確か、私もCDを持っていたはず・・。
調べてみると、ドヴォルジャークの「アメリカ」の
第二楽章だった。CDだけで聞いていた時より、なんだが
ずっと心にしみた。映像が曲の印象を鮮明化してくれたからだろう。

「コーリア 愛のプラハ」のビデオは、発売されるとすぐに
購入して観た。だが、残念なことに、大好きなあのアメリカが
流れる場面は大幅にカットされていた。

でも、私はこの「コーリア」をきっかけに弦楽曲を
あれこれと聴くようになり、鑑賞の幅がぐんと広がったのだった。
nice!(0)  コメント(0) 

クラシックを聴く(その4) [藝術]

クラシックが少しだけ身近に感じられるようになった
きっかけは、ポップスだったが。さらに少しずつ間口を
広げてくれたのは、映像の世界だったな、と思い出す。

薬師丸ひろ子主演の『Wの悲劇』では、その劇中劇の
なかで、サテイのピアノ曲が使われていた記憶がある。
ああ、いいな、と気がつき、CDを買いに行った。
今も、「三つのジムノペディ」を聴いていると、つい
「おじいさまをころしたのは、わたしじゃない。
ふたりでそう、決めたんじゃない。」と必死に母親に訴える、
ひろ子ちゃんの声が耳に響いてくるのであった(アホか・・)。

他にも映画の中で使われていて、次第に馴染んでいった
クラシック音楽は多いはずなんだが、今、ちょっと思い出せない。
ちなみに、サテイだが、私は最初、パスカル・ロジェの演奏に
よるCDを購入しているのだが、しばらく後にもう一枚、
アルド・チッコリーニによるCDも買った。

これは、短歌に関係があるので、思い出深いCDである。
一時「塔」に在籍しておられた江畑實氏が第二歌集
『梨の形の詩学』を刊行されたのは1988年。その時、
「この題は、サティのピアノ曲から採ったんだ」と話されていた。
そして、歌集評を頼まれた私は、ロジェ版のCDに入っていなかった
「梨の形をした三つの小品」が聞きたくて、新たに購入したのだ。

二つのCDを聴き比べてみたことは、凄く良い経験になった。
同じ曲のはずなのに、こんなに違って聞こえるんだ、と気づいて。
演奏家によって、曲の解釈が異なるとは、聞いていたけれど。
ふ~ん、そうなのか、となんだかとても深いことを学んだ気になった。

nice!(0)  コメント(0) 

クラシックを聴く(その3) [藝術]

「青い影」という曲を初めて聞いたのは、高校一年生の時。
当時は和製ポップスはグループサウンズの全盛期で、洋楽は
ビートルズが圧倒的な存在感を示していた。ベトナム戦争が
泥沼化し、反戦歌も多く流れていたのだが・・・。

「青い影」は、プロコルハルムというちょっと変わった名前の、
イギリスのグループによるポップスだったが・・・。冒頭から
低いオルガンの音が響く、なんだか荘厳な感じのする曲で・・。
とても宗教的な雰囲気があって、心を捉えられたのだった。

音楽に詳しい同級生が、あれはたぶん、バッハの「G線上のアリア」を
下敷きにしている、と言い出した。
ポップスとクラシックは隔絶したもの、という印象を持っていた私は、
ちょっと驚いた。バッハのその曲を聴いてみたいと思い続けていて。
偶然、何かのきっかけで聞く機会が持てた。のだが・・・。
全体をたゆたうような、ちょっと憂鬱な旋律が、「青い影」との
共通点かな、と思えるだけで、よくわからなかった。

でも、その旋律を心の中で繰り返し聴いているうちに、
バッハが少しずつ身近なものに感じられるようになった。
クラシックというと、つい聞く前に身構えてしまう、
曲全体の世界観、みたいなものを感じ取らなくちゃ、とか、
思い込んでいたような気もする。でも、もっと自由に
聴いていいんだ、という当たり前のことを、「青い影」と
バッハから教わったような気もするのである。

nice!(0)  コメント(0)