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折々の作家・宮沢賢治(その7) [文学]

賢治との出会いは小学校三年生の時、学校の映画教室で観た
「雨ニモ負ケズ」という映画だったことは最初に書いた通り。
あの詩句に感じた煙たさは、その後、賢治の多くの作品に触れ、
心惹かれるようになっても、心のどこかにずっとうずくまっていた。
それが、まるで霧が晴れるように、奥歯に挟まった異物が抜けるように
ふっと消える日が来るとは、思いもしなかった。

三十代の半を過ぎた頃だから、今から三十年くらいも前になるが。
テレビで、賢治の特集番組が組まれていて、何となく見ていたら、
(途中からつけたテレビで偶々やっていた、という位の感じだった)
俳優の長岡輝子氏が、「雨ニモ負ケズ」の朗読を始めたのだった。
(ちなみに、長岡氏は東北の出身であるらしい)

思わず聴き入ってしまった。それは私が心の奥で、長く聴いてきた
あの「宣誓」口調とは正反対のものだったからである。
底ごもるような、音がもう一つの音の間に潜り込んでいるみたいな
歯切れの悪い東北弁で、彼女は、一語一語、
かみしめる様に、まるで自分に言い聞かせるように読む。

そう、寒さの夏はおろおろ歩く、ような、鈍い口調。
自分の奥底にある、と信じているものをそっと引き上げていくような
どことなく頼りなげ、でも、打たれても打たれても立ち上がる、
粘り強さ、ゆるぎない意志・・・。厳しい風土によって
培われた、東北の魂そのもののような「音」と「言葉」。

ああ、「雨ニモ負ケズ」とは、自分に言い聞かせるための
「メモ」のようなものだったんだ、と初めて気がついた。
そしてこの「詩」が、生前の賢治の「詩のノート」からではなく、
手帳に走り書きされていたものだったという事実が、
長岡氏の読みに説得力を与えている。

長いあいだ、賢治に感じてきた違和は吹っ切れた。
ああ、やっぱり賢治はいいなあ、と心から思えるようになったのは
この時からだった。あれから折々、読み返し、読み返し。
賢治は私の中で、いつも新しい作家なのだった(この項、終ります)。

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折々の作家・宮沢賢治(その6) [文学]

宮沢賢治が短歌も創作していたことはあまり知られていないようだ。
作品集としては残っていないし、「賢治全集」のなかに収められている
くらいだし。いずれも「改作中」のような短歌ばかりで・・・。
色々と手を加えているうちに、童話や詩の方に心が移っていったか、
と推測される。読んでみてもあまり「賢治らしい」と感じられるところは
少なく。短歌がそもそも、形式からの桎梏が大きく、個性を発揮しにくい
ものであるからか。そして賢治はやっぱり、詩がいい。

「春と修羅」の収められている「永訣の朝」は大好きで、何度も繰り返し
読んでいるうちに、全部そらで言えるほどになったのだけれど。
大学一年の時、一般教養の「近代文学」の授業で、好きな詩を
暗誦するという課題を与えられたことがあり、私は賢治のこの詩を
ばっちり言えるまで読み返して授業に臨んだのだけれど。

人気があるK先生のクラスだったので、毎回百人近い学生が
出席していたのだが、そして自分が当てられるとは思っていなかったが、
なんと、私の名前が呼ばれたのだそうだ! ああ、なんてこと、
「呼ばれたそう」というのは、当日この授業を(月曜日の一限)、
寝坊して欠席してしまったからだ。ああ、残念だった。完璧に
覚えていたのになあ、と今も自分の怠慢を悔やむ。

そんなこともあったせいか、何かあると今も、私の胸の中で、
賢治の一節がひらめく。冷たく透き通った光が胸に差し込んでくる、
そんな気持ちがする。

 ・・・・・・
 うすあかくいっそう陰惨な雲から
 みぞれはびちょびちょふってくる
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
 ・・・・・・

 ああ とし子
 死ぬといういまごろになって
 わたくしをいっしょうあかるくするために 
 こんなさっぱりした雪のひとわんを
 おまえはわたくしにたのんだのだ・・・・
       「永訣の朝」より『宮沢賢治詩集』(角川文庫)
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宮沢賢治(その5) [文学]

一番好きな宮沢賢治の作品は? と訊かれると「虔十公園林」や
「雪渡り」と応えていたのは二十代から三十代の始めの頃。
その後、賢治の童話集を何度か読みなおし、やっぱりいいなあ、
と改めて思いなおしたのが「銀河鉄道の夜」と「セロ弾きのゴーシュ」。

この二編は、学生時代に目を通していたはずなのに、なぜか
あまり惹かれなかったことを覚えている。「銀河・・」の方は、
なんとなくよくわからなかったから。「セロ・・」は、
かっこよくないお話だなあ、とか思ったり。童話は翻訳物ばかり
読んでいて、日本の風土的なものが出てくるだけで、拒否反応を
起こしていた私。賢治のこの二編は、風土感はとても薄いのだが。

この二編が好きになっていった、その過程には、文学というものとの
向き合い方が変わってきたことによることが大きいと今は思っている。
どちらもストーリー性は薄い。でも、細部がとてもよく練られている。
「銀河・・」の方の、まるで長編詩のような透明感のある言葉選び。
その言葉によって、じわじわと未知の世界へ誘導されていくような不思議な感覚。

「セロ・・」の方は、ゴーシュを訪れる動物たちの動きや言葉、
その生き生きとした描写力が素晴らしい。物語を楽しむとは、単に筋を
追うことではない。その一語一語を楽しむことこそ最も大きな収穫なのだ、
ということを私は賢治から教わった。
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折々の作家・宮沢賢治(その4) [文学]

宮沢賢治について、忘れられない思い出はたくさんあるのだが。
その一つは、私が上京して高校に入学して間もなくの頃のこと。

中学まで山形で暮していた私。当時の幼友達のMちゃんが、
お父さんの転勤で山形から盛岡へ移ることになった、と連絡があり。
ちょうど高校二年生になるときのことで。私は春休みを利用して
生まれ育った町を訪ね、Mちゃんと、再会した。その折、
やはり幼友達だったYちゃん、Hちゃんとも会って話し合い、
Mちゃんにお別れの記念品を贈ることに決めたのだった。

何か実用的なものを一つ、さらにHちゃんの提案で、
「宮沢賢治詩集」も贈ることにした。
この時私は、「他のものがいいんじゃないかな」と思ったけれど、
Hちゃんは当時親分肌なところがあって、言い出せなかった。
後日Mちゃんからお礼の手紙が届いたのだが、そこに
「こちらで賢治のことなんか話題にしようとすると、
ずいぶん白けたような対応をされてしまう」というような
ことが書かれていた。

高校生ということを考えるとそういう態度はわかるような
気がした。だいたい、若いころは自分の育った地域なんか
どうしても見下したい、風土なんかに縛られたくない、
と思うものだし。故郷の偉人なんか、ちょっと面はゆい、
という感じもしたり。気持ちはそう単純ではないのだ。

私も宮沢賢治に関する童話やら伝記やらに子供の頃から
ちょこちょこと触れてはきたわけだが。いかにも東北人らしい、
粘着質で、根が暗い感じがすること。さらにあのZ音が重い
東北弁がうざたらしくて・・・と、疎ましく思えることの方が多かった。

本当にいいなあ、好きだなあ、と思えるようになったのは、
上京してから、そして十代の終りになってから、なのだった。
絵画や音楽なら、こうではなかったはず。文学が言葉によって
直接的に心に呼び掛けてくる表現だからこそ、
なにか屈折し、距離を置かずにいられなかったのだと今にして思う。
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折々の作家・宮沢賢治(その3) [文学]

次に読んだ宮沢賢治の作品は「虔十公園林」だった。
繰り返し何度も読んだことを覚えている。手元に
置いていた本だと思うのだが、家に「賢治童話集」みたいな
本はなかったので、これも教科書に載っていたものかもしれない。

「虔十公園林」は賢治の著作ではあまり知られていないようだが、
新潮社「宮沢賢治童話集(下)」には収録されている。
少々、頭の回転ののろい青年虔十の描き方がすごくいい。
こういう人って、地方には必ず、一人や二人いたもんだ。
子どもたちにはからかわれたり、周囲の大人からは見下されたり。
でも、虔十は、家族からは愛されていた。そして、生涯に一度だけ
自分の望みを口にし、ただ一度だけ、人に逆らった。何度も
殴られもした。それでも自分の信念を貫き通すところが、なんともかっこいい。

賢治は「雨ニモ負ケズ」で、「みんなから馬鹿にされ、愛されず、
苦にもされず・・・」と書いているが、虔十には、賢治の、
自分が思い描くところの自画像が投影されているのかもしれない。

 「・・その虔十という人は少し足りないと私らはおもっていた
  のです。いつでもはあは笑っている人でした。…この杉も
  みんなその人が植えたのだそうです。全くたれが正しく、
  たれが賢くないかはわかりません。ただ十力の作用は不思議です。
  ここはいつでも子供たちの美しい公園地です。どうでしょう。
  ここに虔十公園林となづけて、いつまでもこの通り保存するようにしては」
             宮沢賢治「虔十公園林」
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折々の作家・宮沢賢治(その2) [文学]

宮沢賢治の作品で一番最初に読んだ童話も覚えている。
やはり、小学校三年生くらいの時で、『注文の多い料理店』。
母が少女雑誌をなかなか買ってくれないので、私は年中、
物語世界に飢えていた。それで手当たり次第に、読めそうなものを
漁っていて、この本に行き着いたのだと思うが。
それはたぶん、学習雑誌の付録みたいな、なにか簡易な本で、
近所のお姉さんが貸してくれたものだったように覚えている。

最初は「面白そう」と、読み始めたのだが、途中から
だんだん、つまらなくなって・・・。最後には何が何だが
わからなくなって、読み終わってしまった、みたいな。
子どもにはあまりピンとこないお話だった記憶がある。
「やっぱり、宮沢賢治なんて、好きになれないんだ」
とか、おもったような気もする。

もう一度読んでみようと、本棚に「宮沢賢治童話集」を
探してみたのだが、私が持っている角川文庫版(1969年刊)と
新潮文庫「宮沢賢治童話集(下)」には収録されていなかった。

賢治に対する印象が少し変わるきっかけになったのは、
中学入学直前に読んだ『よだかの星』だった。
私は当時も活字に飢えていて、春休みの間に国語の教科書に
載っている面白そうな小説の類を拾い読みしていたのだが。
『よだかの星』には、参った。なんだかとても悲しくて。
文章が透き通るように美しくて。何度も繰り返し読んだ。
賢治って、こんな本も書いていたのか、とちょっと驚いた。
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折々の作家。宮沢賢治 [文学]

宮沢賢治との付き合いは、結構起伏に富んでいて、
そして豊かに、長いものになってしまっていた。
何しろ、最初は「絶対に好きにはならないだろう」という
妙な確信から始まってしまったのだから。

小学校三年生のとき、学校の映画教室で、賢治の伝記的な映画
「雨ニモ負ケズ」を見せられた。東北の貧しい農村のみじめな
暮しがそのまんま描き出されているような、なんとも重苦しい
映画で、たちまちうんざりしてしまったのだ。その頃の私は
ファンタジックな西洋の童話に夢中になり始めた頃だったし、
母は嫌がってなかなか買ってはくれなかったが、高橋真琴とか
内藤ルネなんかのデザイン画満載の少女雑誌が気が狂いそうなほど
欲しかった、なんともおセンチな小学生だったからである。

この映画の最後の場面はよく覚えている。賢治役の青年が
子どもたちを引き連れながら泥だらけの道を歩いていく。
その画面に「雨にも負けず、風にも負けず・・」という、
あの賢治の詩が画面にかぶさるように流れていく。

そんな意志の強い人間にはなれそうもない、と「へたれ」な
私は思った。賢治は、敬して遠ざけるべき、というようなことを
漠然と感じたことを覚えているのである。だが、しかし・・・。
            (この項、続けます)
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