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ねずみの歌 [短歌]

「塔」恒例の新春フリマ。そこでは毎年、「塔」会員有志による
短歌アンソロジーのフリペが用意される。動物を詠んだ
歌の作品集で、今年は干支にちなんで「ねずみの歌」。
この試み、四回目になるらしい。私は二年目の「猫の歌」から
参加していて、昨年の「いのししの歌」にも応募したのだけれど、
フリペは頂けなかった。今年はネットプリントにしてある、とのこと。
昨日、早速近くのコンビニに出かけて入手。
とても簡単、それにたった120円です、みなさまもどうぞ。

読んでみると色々なネズミが登場していてとても楽しい。
普通のドブネズミ、家ネズミ風のネズミのほか、カピバラや
ヌートリア、ハリネズミも。ディズニーのミッキーやミニーも
多く登場。ほかには、ねずみ花火、ねずみ男、鼠色、干支の
「子(ね)」から、甲子園の歌まであった! ほんと、題詠はたのしい。

私の歌を以下に。

 Qとqのふた色のこゑ ネズミ捕りに掛かりし鼠とその子ねずみと 
                          岡部史

この歌は横浜歌会に出詠したことがある。Qとqにそれぞれのネズミの
かたちも、潜めてあるんですね、という意見には「してやったり」と
思ったのだけれど、親ネズミと子ネズミが一度にネズミ捕りにかかるか、
不自然だ、という意見もあって。ああ、そう来るわな、とも。

実はこれは事実に基づいているのでした。私がまだ母のおなかの中にいたとき、
両親は小さな木造アパートに住んでいたそうな。天井裏ではネズミが駆け回る
音が響き、体調の良くなかった母が気にするので、父がネズミ捕りを仕掛けた。
すると、ネズミが掛かっていたのですが。なんと、妊娠中だったらしく、
ネズミ捕り器の中で、出産していたのだそうです!

それを見て、母はさらに神経質になり、
「殺さないで、どこか遠くへ放ってきて」と言ったそうな。
当時は田舎に住んでいたので、放ってくる場所は、そう遠くないところに
いくらでもあったらしいのですが・・・・。

子供の頃、繰り返しこの話を聞かされてきました。最後には私が父に
「それで、どこに放ってきたの?」
と訊くのがお定まり。ところがなぜか、父はあいまいに笑うだけなのです。
そのことを思い出しながら作った歌。
何しろ母が何度も、母ネズミと子ネズミの泣き声を真似していたから。


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コッペリア再び [藝術]

NYのメトロポリタン歌劇場で行われているオペラの
ライブビューイングについては何度かここで書いているが。
この度は、ロンドンのロイヤルオペラハウスで行われている
歌劇・舞踏のライブビューイングについて書く。

今シーズンは歌劇「ドン・ジョバンニ」で幕開け。
お正月早々観てきたのですが、さらに昨日から一週間、
バレエ「コッペリア」が上演されることになり、早速
出掛けてきました。コッペリアは大好きな演目。
普段は、初日早々行く事はないのだけれど、もう待ちきれなくて。

「コッペリア」については以前にもこの欄で書いたことがあるので、
「再び」ということになります。初めて見たのは十年前に訪れた
ポルトガルの歌劇場で。その演出が素晴らしくて、たまたま、
「ガードマン」代わりに連れて行った(終演時間が遅いので)相棒も
すっかりコッペリアファンになってしまい(バレエを観るのは初めて
だったらしい)それからは、DVDも購入するなど、私よりも
熱心に見入っていた。このライブビューイングも楽しみにしていた。

オペラなどは普通の映画よりもチケット代は少々高い(3700円)。
映画館では椅子も一回り大きく、両側に一人分ずつ大きなひじ掛けと
小テーブルがついた、ゆったりとした特別の会場が当てられている。

映画館に入って、切符を購入後、まっすぐにそのプレミアルームへ
向ったのだが、部屋の前でチケットを確認する担当の人に
一階の二番へ回って下さい、と言われた。あ、今回はプレミアルームでの
上映ではないんだ、と初めて気がつく。告げられた部屋は普通の
映画が上映される部屋で、椅子も小さめ。テーブルはない。ひじ掛けは
隣の人と共有するタイプ。それにプレミアより、収容人員が少ない。

ドン・ジョバンニもせいぜいが三割くらいの入りだった。
コッペリアは、案の定、二割強くらいの入りで。
女性が大半。男性が我が連れ以外は二人のみ。寂しい話だ。

でもコッペリアは素晴らしかった!特に二幕、コッペリウス博士の
工房に潜り込んだスワニルダたちが、博士の作った自動人形を
いたずらする場面。人形はみんな人間が演じているんだけれど、
その動きが滑稽で楽しくて・・。極めつけは、スワニルダが
恋人フランツが心を寄せていた人形のコッペリアに扮し、
博士をけむに巻く場面である。どんなバレエにもない、
実に個性的な舞踏が見られるのである!

でも、こんな入りではもう、このロイヤルハウスのライブビューイングは
長く持たないかもしれない、という嫌な予感がする。それはとても
寂しいこと。もし、皆さんの中にほんの少しでも興味のある方が
おられたら、映画館に足を運んでみて下さい。東宝系のシネマで
来週木曜日まで上演しています。コッペリア、決して見て損はないですよ。
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私の短歌オリンピック・人名編 [短歌]

私の所属している結社誌「塔」一月号が届いた。
特集は五輪の年にちなみ「私の短歌オリンピック」で。
テーマごとに三首を引き、金銀銅の評価をつける、というもの。
たとえば「人名」では、河野裕子さんが娘の紅さんを詠まれた歌
などが選ばれている。筆者は川上まなみさん。

読んでいるうちにわたしもやってみたい、と思い始めた。
私なら、あの歌とこの歌と・・次々に浮かんできて、
メダルが三個ではとても足りない。きっと原稿依頼された
方々もそのあたり、苦渋の決断を強いられたのではないか。

私なら絶対入れた、と思える人名を詠んだ歌を三首挙げてみる。

 ヴィヴィアン・リーと鈴ふるごとき名をもてる手弱女の髪のなびくかたをしらず
                     葛原妙子『縄文』

 名前の美しさ、その名前をまず、音で捉えている歌人の耳の良さ。
 人名の歌なら、その響きの美しさこそに注目されるべき、とも思う。
 映画「風と共に去りぬ」で見せた傲岸なまでの美しさと、同じく
 「欲望という名の電車」での、崩れかけた薔薇のような退廃と・・。
 その名の響きの中に、永遠の女性性が靡いている・・・。

 日盛りを歩める黒衣グレゴール・メンデル一八六六年モラヴィアの夏
                     永田和宏『やぐるま』

 この歌も、人名の響きが生きている歌。メンデルは長く取り組んでいた遺伝学
 についての自己の成果が認められず苦しんでいたらしい。ごつごつとした
 濁音の多い名前に、苦渋が折りたたまれているかのようにも聞こえる。
 夏にして装う黒衣は彼が修道士だったから。でもそれもまた、彼の
 閉塞感を表しているよう。

 佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず
                      小池光『日々の思い出』

 人名を詠んだ歌、とくればこの歌が外せないはず、と私は思っている。
 ナンセンス、と言ってしまえばそれまでだが。読んだとたん、どんな
 名前でもうまくいかなかったかも、と思えたから不思議。「さのともこ」
 という、どこかはすっぱな感じのする女名がうまく居座っていて。
 なぜなのだろう、と考えてみると。
 「さ」「の」「と」「も」はいずれも助詞、そして「こ」は接尾詞。
 つまり「さのともこ」は助詞と接尾語だけでできている固有名詞なのだ。
 そこからは、確たる実体が立ち上がりにくい、といえるのでは。
 こんなところまで小池さんが 考えて作ったとは勿論思えないけれども。
 

 
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小リフォーム [生活]

今の家に移り住んで、今年の夏で四半世紀になる。
あちこち、傷みが出て来ても当然という年数・・・。

昨年夏ごろから、台所の換気扇のスイッチがうまく
作動しなくなった。換気扇は定期的に業者に清掃して
もらっているので、古い割にはきれいだし、スイッチだけなら
修理して使いたかったのだが・・・。

業者にみてもらうと、もう部品がないのだとか。
それで新調することにし、調理台の方も遠からぬうちに
IHに変更したいとのことを告げると、換気扇と連動型の
ものがありますよ、と見積もりを提示された。
この際だからまとめて新調した方がお安く上がりますよ、
という言葉に促されて、決意することに。

IH調理台は、思っていたよりずっと安くて、レンジフード(換気扇)
の方が値が張ったのにはちょっとびっくり。
使い慣れた鍋類をすべて新調しなければならなかったことも
ちょっと戸惑うことだった。何しろ、IH用の鍋は概して
とても重いのである。蓋も重いガラス製が多く、扱いづらい。
琺瑯の鍋が比較的軽いのだが、なべ底に材料がくっつき易い、
という難点がある。
これから老齢化が進んで、ガスの調理台には不安がある、
と思ってIHに替えたのに、なんだか、かえって不便かな、
と思える部分も・・・。

煮物などするときは、タイマーが使えるので、
危うく焦がしかけた、ということが少なからずあった私は、
有難いのだけれど。
IH用で、扱いやすい鍋類がないか、探してみようと思う。
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歌評と爪 [短歌]

一月五日、横浜歌会は第一日曜定例なので、
どこの地区の歌会よりも早く始まる。松の内なのに、
この日も、14人が集まった。歌数は28首。

歌会はいつもとても楽しくて、ちょっぴり苦しい。
思いがけない歌、楽しい歌、ちょっと人生観が変わりそうな
って言ったら大げさだけれど、モノの見方を変えてくれるような
凄い歌に出会えることもあって。そして、それらの歌に対する、
出席者の色々な意見を聴けることも大きな楽しみ。

その一方、意見を求められて、どう発言すべきか、苦慮する、
という場面にも多く遭遇する。歌の意味がよく理解できなかったり、
理解できても、どう評価したら苦慮する場合もあり。

意味が分らないときは、みんなに問いかけてしまえばいい、と
割り切っている。永田和宏さんが20年くらい前、当時隔年で
行われていた東京大会に出られ、歌評を求められた時、
「ええ~、これどういう意味なの、誰か教えてよ~」
と言っておられたのを耳にして、ほっとしたことがきっかけ。
問題は、意味が分かって、そのうえで、どう評価すべきか
分らないときである。今月の歌会にはそんな一首があった。

帰国の機中泊で、伸びた爪をミリで測っている、という歌。
この歌を読んだ時、爪が伸びている、ということに、心が
引っかかってしまったのだ。私は特に潔癖症と言う訳ではない。
清潔を目指してはいるが、かなりぼんやりした性格だから、
あちこち、抜けているはずである。でも、爪だけは・・・・。
伸びている状態が、とても苦手なのである。まあ、一種の
先端恐怖症、的なものだと思うけれど。

そこが気になって、歌を集中的に読めない。だめだ、こりゃ、
と思ううちに「海外旅行には爪切りを持ってかなくちゃ」
なんて、頓珍漢な発言をしてしまい、さらに、焦った。

「爪の伸びたさまに、旅行の終わりを感じている」とか
そのくらいの発言はできたはずだな、と歌会終了間際に思ったが
もう後の祭りである。歌会はこれだから、怖いのである。

昨日の朝刊を読んでいたら、伊藤理佐さんのエッセイに
「オレ(私)って、いい人」的な発言について書かれていたが。
その「発言」のなかに
「爪の白いとこ無いくらい短くないと気持ち悪くて」
という、ご自身の発言も披露されていた。本当は
「オシャレもしないですみません」のノリのはずなのに発音は、
「わたしって、いいひと」的だったと。
ああ、それそれ、と私も思った。あの自分の発言に、自ら
落ち込んでしまったのは、「偽善的だったな」という感覚。
まだまだ、批評についての、修業が足りない・・・・。

さらに言えば、歌会では票を入れているのだが、ほんの短い
時間内(15分くらい)の読み込みで投票するので、わかりやすい歌、
共感できる歌、批評しやすい歌に票が集まる傾向が強いこと。
今回は票が入っていなかったけれど、良い歌もあった。
とても地味な素材を扱っていたり、場面が見えにくかったりすると、
どうしても敬遠されがちである。
反省と自戒と。年頭の歌会の収穫。
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映画「運び屋」 [映画]

テレビのおせち番組は見ず、録画していた映画を観る。
「運び屋」は、クリント・イーストウッドが監督兼主演。
中南米系の作業員を雇って、小規模の花卉農園を営む
アールは90歳。農園の経営も行き詰まり、差し押さえの
連絡まで来ている。でもまだまだ元気な彼は、農園の
再興を期している。

すでに離婚していていて、一人娘とは絶縁状態。
これまで一人勝手に生きてきたら、自業自得だが、
好きな農園の仕事を失い、素寒貧となれば、孤独地獄に陥ってしまう。

その彼が、ある場所からある場所へ、車を運転だけしていれば
収入を得られる、という仕事を引き受ける。しかも高額の・・・。
とあれば、何を運ぶのか、薄々察しがつくというものだが。

彼はその収入によって、農園を買い戻し、昔の友達に
大盤振る舞いをして、交友関係を取り戻し・・・。
まさにバラ色の90代を生きようとするのだが・・・。

イーストウッドが、すごくいい。傲慢で頑迷で、
男なら、こうしか生きられない、というぎりぎりのところを、
あの渋い表情で演じきっていて。

そこへ、麻薬カルテルの絶滅を期する警察の手が迫ってくる。
でも、彼らの「運び屋」のイメージには、こんな「高齢者」は含まれない。
それが隠れ蓑になって、暴走していくアール。痛快である。
高齢化社会の映画の可能性の高さを端的に示してくれた映画。
年を取るのも、まんざらではありませぬ。いや、犯罪を賛美
しているわけではありませんが。
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守宮、その後 [生活]

わが家にヤモリが出没したのは、半年くらい前。
自分の部屋の掃き出し窓の敷居で出会ってしまった時は、
つい取り乱しそうになった、爬虫類大の苦手の私。

それから三か月後くらいあと、学生時代からの友人Nに
その話をすると、つるっとした顔で言われた。
「守宮って、水がないと生きられないよね」
え、そりゃ、生き物はたいていそうだけれど?
「よく家の中で、干からびて死んでいるわ。つまんで、
ぽいっと外に放り出して、それっきりよ」
え、え、え? やっぱ家の中に出没するのだ。
彼女の家は、多摩川沿いにある。府中市と稲城市の境界あたり。
「この間の台風じゃ、多摩の奥から流されてきたんだろうけれど、
すごく大きな猪が二頭、橋のたもとで死んでいたんだって」
あ、あ、あ、話がとんでもないところに飛んで行きそう。
彼女の豪快なところだけれど、そしてそういうところ、好きだけど。

ネットで調べてみたら、都内でも家の中にヤモリが出没する、
という例は少なからずあるらしい。我が家が特別じゃないんだ、
と知って、少しほっとする。
買っておいて、きちんと読んでいなかった「角川短歌11月号」(2019)
をぱらぱらと見ていたら、こんな歌にも出会った。

  風呂場より守宮つまみて逃がしたる感触のこる指に梨剥く
                 馬場あき子

みんな逞しく多摩地区を生きている(馬場さんは川崎市麻生区、
多摩丘陵のふもとに近い地区にお住まい)。
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大掃除は? [生活]

年末、美容院へいくと、いつも担当してくれている
五十代後半くらいの美容師さんに「大掃除は?」と
訊かれた。「大掃除?・・・う~ん」
返答に窮する。いわゆる「大掃除」をしなくなって、
もうかなり時が経つ。もう私の中では「削除」した言葉って
感じだから。

或る時から、「掃除は一日にして成らず」と悟ってしまい、
(って、悟るようなことじゃないわな)、以来、ちょこまか
清掃、に徹するようになったからです。
とにかく、気がついたとき、ちょこちょこと掃除する。
特に、ちょっと時間が空いたとき、落ち込んでしまって、
なんだか思うように物事が進まなくなった時、或いは
なにか待つ用事ができたとき・・。掃除はかなり便利な、
そう便利な家事なのでした。
私の場合、少しだけ時間潰し、あるいは気分転換、
と思って本を読んだり、モノを書いたり、
テレビを観たりは、なかなかできないタイプ。というのは、
ついのめり込んでしまって、「時間潰し」や「気分転換」
でなくなってしまうということが多々あるから。
その点、掃除は、そういう心配ない。
トイレ掃除なら15分、洗面台廻りなら10分、とそのくらいあれば
かなり綺麗になる。こまめにやっておけば、ね。

というわけで、ちょこまか掃除+汚さない、というくらいで、
ある程度の「綺麗さ」を維持できている(と思っている)。

大掃除なんて大げさにやり出したら、疲れそうだし、
第一、一時的な「綺麗さ」なんて、すぐに衰えるもんだし。
この諦観が良かったかも。とにかく大掃除をせずに年越し。
そして、この元日の朝、相棒が起きてくるまで時間があったので、
冷蔵庫の棚を外し庫内を掃除しました。扉部分はまたいつか・・・。

そんなこんなで気負わず、自然体で2020年も過ごしていくつもり。
今年もよろしくお願いします。
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