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ペルー旅物語(その2) [旅]

ペルーを訪れるきっかけを作ってくれたのは、滞米中に知り合った
ソフィア。リマの出身で、当時19歳だった。私は彼女と出会った日を
鮮やかに覚えている(出会った、とは言えないかも。彼女の方は、
全く覚えていないらしかったから)。
アメリカでは二週間余りのホテル滞在を経て、アパートへ転居。
近くの中学校で夜間行われていたコミュニティカレッジに通い始めた私。
外国人のための英語教室が開かれていたからである。週に三度の授業を
一週間ほど受けたところで、新しい仲間として彼女が加わった。
最初の日、両親に挟まれて、ちょっと緊張の面持ちで席に着いた
彼女は、漆黒の髪に、やや浅黒い肌。顔立ちはどちらかというと東洋系、
の雰囲気があった。いわゆるオリエンタルアイをしていたからである。

コミュニテイカレッジの他に、私は九月に始まった、ある大学付属の
英語学校にも通い始めたのだが、そこでもソフィアと一緒になり、親しく
話をするようになった。彼女の両親はすでに米国籍を取得しているとのこと。
そのうち、両親があなたと会いたがっていると、家に招かれた。
そこで、彼女の家の複雑な事情を知ることになった。

彼女の両親はペルー生まれのペルー育ちだが、母親はスペイン系の
母と中国系の父親を持つという。彼女の父親の方は、スペイン系に
ペルーの原住民、ケチュアの血が混じっているのだという。
それで、彼女は東洋的顔立ちをしているのだが、彼女の姉は、全くの
スペイン系に見える。すぐ上の兄もまた、スペイン風の顔立ちだった。

さらに驚いたことに、両親は政情不安定なペルーを脱出するために遠大な計画を
立て、着々と実行に移している最中だった。父はアメリカの大学に進学し、
結婚相手の女性(つまりソフィアの母)を呼びよせ、アメリカで第一子である
ソフィアの姉を産んだ。米国生まれは、そのまま国籍を取得できる。
米国籍の子の両親として米国籍を取得し、二番目の子ソフィアの兄が
二十歳になったのを機に、二人の子を連れて米国に移住。
二十歳前のソフィアと彼女の弟はペルーに残った。

ソフィアはあと一年で二十歳になる今年、少し米国で英語に慣れるために
呼び寄せたののだという。来年三月には、一度ペルーに帰り、書類を
揃え、国籍取得に備える、という話だった。

その時に、一緒にペルーに行く気はないか、と尋ねられたのである。
それはもう、渡りに舟だった。こんな機会はアメリカにいてこそである。

リマにはソフィア一家が暮らしていた家があり、現在はソフィアの叔母一家
が暮らしている。そこで宿泊した後、北部の町、ガハマルカにも一緒に
行ってほしい。リマはテロが相次いでいて危ないので、ソフィアの弟が
そちらの親戚の家に身を寄せている。一緒に行って様子を見てきてほしい、
と言われたのだ。

ソフィアのことを心配し、誰かに一緒についていってほしいのだ、
という両親の気持ちは強く伝わった。だが、はたして、私なんかが
何かの役に立つのか、とも思ったけれど。英語だって、若いソフィアの方が
急速に旨くなってきているし。とはいえ、リマ出身の人と、ペルーを
訪ねることができるなんて、そうあるはずのない機会に、私は
ぞくぞくする思いだった(続きます)。
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ペルー旅物語 [旅]

先日、米坂線についてこのブログに書いた後、また
宮脇俊三の鉄道の旅のエッセイが懐かしくなって、読み返している。
何冊かは手元にあるが、読んでいない書もまたある。
図書館にリクエストしたりして読み返しているのだが。

『汽車旅は地球の果てへ』所収の「アンデスの高原列車」を
読んでいたら、無性に懐かしくなった。宮脇氏が彼の地を旅したのは
1980年11月のことらしい。私は氏に遅れること五年四カ月の、
1986年3月にペルーを旅している。五年余りの歳月は、当時の
ペルーでは、特にアンデス地方ではあまり長い時間とは
言えないのではないだろうか。

特にあの旅は、私がこれまで経験した中でもすごく、
過酷だったことを思い出す。短歌には詠んだけれども、紀行文として
残しておけばよかったな、と悔やんだりしている。でも、とにかく。
少しずつ思い出しながら、あの日々のことを綴ってみようという
気持ちになった。アンデスは、ほんとに、素晴らしい地だったから。
                  (この項、続けます)
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山形新聞電子版 [生活]

2022 年12月から、山形新聞電子版を購読し始めた私。
この年、私は歌集『海の琥珀』と『砂糖をめぐる旅』という
エッセイとを刊行したのだけれど、その二冊とも、山新で
書評を載せてくれるなど、お世話になったので、お礼の意味、
そして何より、生まれ育った故郷(今では山形市内に、従妹が
住んでいるだけ、なのだが)を応援したい気持ちもあって。
それに、月に数回は、「そうか、凄い!」と、驚くような
記事に出会えることもあって。楽しみに読んできた。

電子版の購読料は月額2100円、そして昨年後半からは2000円。
このくらいなら、と思ってきた。我家ではほかに朝日新聞を
購読していて、こちらは紙版で、月額4900円かかっている。

今月に入ってから、山新からメールが入り、今までのような
電子版の山新は廃止になる、というお知らせが来た。最近、
「キジクル」という山新の電子版ニュースが充実、強化され、
そちらを読んでほしい、ということだったが・・・。

キジクルの登録には、紙の新聞を購読しているか、あるいは
購読料を払う必要があるという。それが、なんと月額4200円なのだった!
これまで読んでいた電子版の二倍以上もする! ちょっと、上げすぎじゃ
ないだろうか。しばらくショックで言葉がなかった。

とりあえず、朝日新聞山形版を読める、というサイトに登録した。
山形新聞については・・・。思案中である。
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米坂線(その4) [旅]

米坂線は全長90キロ余り。その間に22個の駅があるという。
一昨年8月の豪雨で所々が寸断され、以来運休し続けているが、
22個はその当時の駅の数である。私の記憶ではもっと多かったように思う。

我家にある日本分県地図地名総覧という地図帳は、1964年版のもので、
相棒が院生だったとき、神田の古本屋で購入したというかなり古い書。
それで米坂線の駅を辿ってみてわかった。確かに私が利用していた
1960年代半ばは、駅の数が今より多かった。ただし、二駅だけだった。

小国町から米沢までは全駅がそのまま据え置かれ、小国から坂町までの
間で二駅が廃止になっていた。その一つは新潟県境沿いで、小国町側に
あった、「玉川口」という駅。そしてもう一つは、坂町の一つ手前に
あった、「花立」という駅である。花立は、確か、私が五、六才頃に
新たにできた駅だったのではないだろうか。私はこの駅名が何となく
好きで、妹と電車ごっこをするときは、必ず「花立」という駅を
地面に書きいれていた記憶もある(その隣が大阪、だったりした)。

玉川口の方は、駅のすぐそばが荒川だったような記憶がある。
荒川峡は素晴らしく水のきれいな峡谷で、駅はやや高いところにあり、
のぞき込むと怖いくらいだった。
と、覚えているのだけれど、さだかではない。もう、遠い記憶で、
自分が勝手にこしらえてしまった風景、のような気もするのである。
                 (この項、終ります)
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米坂線(その3) [旅]

6歳の頃からだと記憶するが、ものの名前について興味を持つようになった。
この頃から少女漫画に没頭するようになり、登場する女の子の名前が気に
なるようになったのが、そもそもの始まりだったようだが。

米坂線の駅名についても然り。母の実家へ里帰りする途中で通る駅名に
突然姓がついたように、羽前松岡。羽前沼沢、羽前小松、などという
名前が登場する。父の郷里の新潟へ向かう時は越後金丸、越後片貝、
越後下関・・・となる。この「羽前」と「越後」とはなんだろう?

母に聞くと「羽前は古い山形の地名、越後もやはり、古い新潟の地名」
とのことだった。なぜ、その古名がつく駅と付かない駅があるのか?
秋田のことを羽後、と言い、富山を越中というらしいが、何に対する、
前、中、後ろ、なんだろう、と疑問は次々に沸いたが、母が酷く
私をうるさがる様子なので、黙ってしまった記憶もある。

米坂線という路線名は、米沢と坂町を結ぶからだ、と知った時は
なんだかとても気持ち良く感じたたことも覚えている。分かり易かった
からだろう。それから間もなく、母の実家を訪ねた時、街の中心部に
「おめでとう、天童市」という横断幕が出ているのに気づき、この時は
母が機嫌が良さそうなので、早速質問した。「なにがおめでとう、なの?」
母は嬉しそうに言った。「天童はこれまで町だったけど、今年から市に
格上げされたのよ」そして、町と市の違いを説明してくれたのだった。

そこで私はあることが気になった。父の郷里に向かう途中に降りる駅、
つまり米坂線の終点だが、「坂町」は、市になったらどうするんだろう。
坂町市、だろうか、坂市、だろうか。母に聞くと、急にめんどくさそうに
「坂町は、市にはならない」ときっぱり言った。

私はこのこともすごく不思議だった。なぜ母は、こんなに簡単に断言できる
のだろう。いつか坂町も人口が増えて、町から市になる日が来るかも
知れないのに・・・。
坂町とは、当時の新潟県岩船郡荒川町のなかの地名であると知ったのは
それから随分後のことである。駅名は市町村名とはまた別につけられる
こともあるのだ、と知った。米坂線は私にとって、不思議の宝庫だった。
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米坂線(その2) [旅]

初めて米坂線に乗ったのは、生後十か月のこと、になりそうだ。
母が初めての女孫を父母(私の祖父母)に見せるため、実家がある
天童市へ出かけたと言っていたから。祖父はその三年後、私が
四才になる直前に、脳卒中で亡くなっているので、記憶はとても
かすかなのだが、とても可愛がってもらったようだ。

天童へは、まず米坂線の今泉まで行き、ここで長井線(現在の
フラワー長井線)に乗り換えて、終点の赤湯まで行く。赤湯からは
奥羽本線で山形へ。子供の頃、直接天童へ行くことはほとんどなかった。
母の妹がカリエスを患い入院していたため、見舞いに寄っていたからである。

米坂線の一番の記憶は、蒸気機関車の記憶ということになる。
とにかく、煤がひどい。子供の頃、旅行はあまり好きでなかったが、
米坂線の煤が、余りにも強烈だったことが大きな理由の一つだった気がする。

ところで、稀代の鉄道作家だった宮脇俊三氏は、終戦時の玉音放送を
今泉駅前で聞いた、という話は有名である。私は氏の『時刻表昭和史』
で読んだ記憶があり、書棚を調べてみたのだが、みつからなかった。
『時刻表2万キロ』の方にそれに関する記述があったので引いてみよう。

  今泉駅前で車を降りた瞬間、さすがに私の胸が熱くなった。・・・
  所用で山形に出かけるという父にねだってついてゆき、新潟県の
  村上に抜ける途中、正午に重大な放送があるというので、今泉で
  下車したのであった。・・・駅舎からコードが伸びていて机の上の
  ラジオにつながっていた。それを数十人が半円形に囲み、放送が
  始まるとラジオが天皇であるかのように、直立不動で頭を垂れた。
               宮脇俊三『時刻表2万キロ』

ここに述べられている通り、玉音放送を聴いた後で、宮脇氏は米坂線に
乗り換え、坂町経由で村上へと向かわれるのだが、そこにも、米坂線の
煤のすさまじさがしっかりと記述されていて、つい笑ってしまう。

  石炭の質が悪いのか、熟練した機関士が兵隊にとられて釜焚きの腕が
  下がったのか、手の子の先の上り坂のトンネルの中で、力が尽きて
  停車し、機関の圧力を上げなおしたときは、車内に濃い煙が充満して
  手拭で鼻をおさえていても噎せた。  宮脇俊三『同』

手の子という駅は、宇津峠の手前にあり、ここから沼沢に至るまでが
米坂線の難所、なのだった。手の子を過ぎると、いつも母が、窓を
閉めていたことを思い出す。窓の外を見るのが楽しい私達子供は、
いつも「あ、何で閉めちゃうの」と思うのだが、すぐにその理由が
わかる。石炭が沢山くべられるのだろう、煙がすさまじくなり、そして
列車はトンネルに入ってしまう。煙はたちまち車内に入り込み、
目も鼻も、煤で真っ黒になるのである。私は蒸気機関車に対する
ノスタルジーなど、まるでない。わざわざ乗りに行く人の気が知れない。
                    (続きます)
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米坂線 [旅]

昨年四月、半世紀ぶりに米沢市を訪れた折、せっかくだから、
生まれ育った小国町にも立ち寄ってみようと、考えていた。
小国町は、米沢と坂町(新潟県)とを結ぶ、全長90キロ余りの
米坂線の沿線にある。15歳まで小国町で育った私にとって、
米坂線は、どこに出かけるにも必ず利用していた、懐かしい路線。

もう一度あの列車に乗って、幼い日々を過ごした小国町を訪ねたい。
そう思ったのだけれども。
2022年8月にこの地域を襲った豪雨で、大きな被害を受け、以来運休が
続いている、というではないか。現在は、仙台から新潟までを結ぶ
バスが通っているだけで、復旧の見込みも立っていないのだという。

バスを使って訪れることも考えたのだが、時間的に無理があることが
わかり、今回はあきらめることにした。そうなると、いよいよ、
米坂線をめぐる様々な思い出が溢れてきた。今回は、この小さな
路線について、少し書いてみたいと思います(続きます)。
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死を告げる女 [映画]

「死を告げる女」は2022年韓国制作の映画で、チョン・ウヒ主演。
花形キャスターのチョン・セラには、競争相手がいて気が抜けない。
また、母親は絶えず彼女のキャスターとしての姿勢に口を挟んでくる。
同じキャスターである夫との仲も冷えていて、母は強く離婚を進める。
こうしたプレッシャーからか、彼女はいつも誰かに首を絞められ、
殺されかける夢に、悩まされているのだった。

そんなある日、彼女のもとに一本の電話がかかってくる。
「自分は『ある人』に脅かされている。子供も殺される。
自分も近いうちに死ぬ。憧れのキャスターであるあなたに、
自分の死を確認してほしい」と、切羽詰まった声で告げるのだ。

スクープの欲しい彼女は、告げられた住所へ1人おもむき、
その家の浴槽に死んだ少女と、女性の首つり死体を発見してしまう。

サスペンスらしい、コワイ展開である。途中までは何度も、
見るのやめようか、と思ったくらい。

ところが、三分の一程見たところで、どうもこれは・・・、
と思い始めた。恐怖をあおる映画であるに違いないが、いわゆる
スプラッターもののような、恐怖一辺倒の映画ではなさそうなのだ。
人の普遍的な心理に着目して組み立てられていて、精神科医も登場、
主人公を混乱に貶めているのは、実の母親らしいと仄めかされる。

やがて、母親はかつての花形キャスターで、思いがけず、セラを
身籠ってしまい、キャリアを続けていくことと子育てとの両立に
苦しみ、セラの首に手を掛けたこともあったことが分かってくる。
セラが窒息させられそうな悪夢を見るのは、その経験からだった。
母親は思い直し、名前まで変えて、娘の成長にすべてをかけることに。
セラの仕事に細かく口出しするのは、諦めた夢を託そうとする結果だった。
当然ながら、母と娘の関係は、破綻の道を辿っていく。

ところどころ、オカルトっぽい描写もあるのだけれど、母との
関係に苦しんだ記憶がある私には、現実感に満ちていて、そういう
意味でもとても怖い映画だった。サスペンスの形をとっているので、
ネタバレしないよう、この後の展開は伏せておくけれども。

親子の関係はとても難しい時代になってきている、と心底思う。
昨日は、小さな女の子が、両親から虐待を受け、薬殺される事件や、
まだ十五歳の息子が両親を殺害した事件も報じられていた。
子どもを産む人はさらに減るのでは、と危惧する。この映画が
作られた韓国の出生率は、一をはるかに切ってしまっている。


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手作り千枚漬け [食文化]

今朝の朝日新聞の「ひととき」欄には、千枚漬けを手作りし
母に届けていた、という方の投稿が掲載されていた。
何でも手作りされていた母が、加齢とともに叶わなくなった。
自分の手作りの千枚漬けを届けたら、とても喜んでいて・・。
二瓶目を届けてまもなく、母は亡くなり、二瓶目は手つかずのまま。
遺された父の話だと、少しずつとても大切に食べていたからだと。
ちょっと悲しいお話だった。

最近、自分も千枚漬けに近い漬物の手作りに挑戦したことを思い出した。
いつも大根が少しずつ残ってしまって、漬物にしたいな、と思っていたら、
偶々、簡単な千枚漬けのレシピをみつけ、蕪の代わりに大根でも可、
とあったので試してみたのである。蕪で作った方が美味に決まっているが、
何しろ、相棒が大の蕪嫌い。大根以上に持て余すことが分かっているので、
結婚後一度も購入したことはないのである。ちなみに彼は、
大根おろしなら、少しだけだが食べる(厄介なやつなのだ)。

それで、作ってみました、大根の千枚漬けもどきを。

塩麹で作る、というのも有難い。塩麹は重宝な調味料だけれど、
これもやや、余りがちなんだよね。作り方も簡単でした。

①大根は3ミリくらいの薄切りにしたものを200g用意。
②塩麹大匙一杯半、柚子の果汁(または米酢)小さじ2杯半を混ぜる
③①に②を絡ませ、輪切り唐辛子を少々加え、軽い重しをかけて
 丸一日、常温で放置する。
 その後、器に汁ごと移し替えて冷蔵保存する(3、4日で食べきる)。

と、それなりに美味しくできました。
冬季はやはり、お漬物が美味しいですよね。
蕪でも試してみようかな、と思いつつ。まだ挑戦しておりませぬ。
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原書で読む児童書(その3) [文学]

滞米時に入手して、帰国後にすでに翻訳済みと知った
Helen Cresswell 『The secret world of polly Flint』、最近
本棚を片付けようとして、改めて手に取り、読みなおしてみた私。
英国の児童書の世界の奥深さに改めて感じ入ったところだが。

翻訳版、つまり岡本浜江訳『ポリーの秘密の世界』の方は
どうだろう、と興味を持ち、調べてみることに。かなり以前に
絶版になっているが、市立図書館の書庫に所蔵されていると知り、
リクエストして借りることにした。

手にしてみると、立派なハードカバーで、訳者による丁寧な解説、
四ページ分もついている。あかね世界の文学シリーズ中の一冊らしい。
当時の値段は1200円。この種の児童書に、出版社がかなり
力を入れていたことがよくわかる。ちょっと今では考えられない。
他に全34巻のあかね世界の児童文学34巻についての広告が巻末に
ついている。どの書もあまり耳馴染のない書ばかりだが・・・。

借り出してきた本に、読まれた痕跡は全く、といっていいほど
見当たらなかった。挟まれている栞紐や、読者アンケートの葉書も
まっさらなままで、そのことが痛々しいくらいだったのである。

岡本浜江さんは、児童書の翻訳者としてとても活躍された方で、
訳文は原文にかなり忠実ながら、読みやすい。それでも、
子どもたちの関心を得る、というには遠かったようだ。

一つには、挿絵もよくないのではないか、と思える。
この書の挿絵は原書版を使わず、日本の画家がオリジナルな
絵をつけているのだが・・・。原書の挿絵の、シャープな線描画を
見てしまった者(私が当初関心を持ったのも、この絵のすばらしさが
かなり大きかった)には、なんとも雑駁で投げやりな絵、という印象が
してならない。日本の児童書の挿絵は、かなりいい加減なものも
多い、という印象は以前からあったけれども。子供の関心を引く、
その最も大きな入り口は、表紙の絵や本文中の挿絵にあるだろうと
思うと、ちょっと残念な絵なのだった。

他には、やはり文化の違いということが大きいだろう。
うっそうとした森、その中に開く野生の花々、静かな湖。
そうした身近な自然に日常的に接しながら暮らす子供たちが
とても少なくなっていること、また、イギリスでは冬季が長い。
寒さが厳しく陰鬱な冬がようやく終わって、
やがて明るい春、初夏へと向かう季節には、多くの人が外に出て
あたたかい日差しを楽しむ。その象徴となる五月の柱
(May pole)やその柱の回りで踊る、五月の踊り、などへの
知識がなく、雰囲気もわからないことなどがあるだろう。

出版されたイギリスと同様、日本でも小学校高学年向き、と
されているが、その年ごろにはかなり難しい本だったかもしれない。
特に、世界の国々からの情報が今よりずっと少なかった八十年代前半では。

対比しながら読んでみて、いろいろなことを考えさせられた一冊だった。
                  (この項、終ります)
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