父の俳句(その4) [文学]
父が亡くなって一年余り。
最近つくづくと、自分は父のことを知らなかった、と気がつく。
口数少ないうえ、特に自分のことや両親、兄弟について
語らない人だったから。実家は新潟県の小都市の旧家。
いかめしい明治生まれの祖父と、無口で従順な祖母。
大きな古い家は昼も薄暗く、重苦しい雰囲気が漂っていて、
一年に一、二度の父の帰省に付き合わされるのが嫌だった。
父には三、四歳年上の兄がいて、戦死しているらしい。
四歳下の弟もまた南方に送られた。戦後三年ほども帰還せず、
やはり戦死しているらしいと言われ、内輪で葬式をしようと
話し合いし始めた頃、ボロボロになって帰ってきたのだとか。
そんな話は、母や父の周辺の人から耳にしたのみ。
今思うと、父の実家の昏さは、戦争に打ちひしがれた家族が
その話題を必死に避けることでようやく持ちこたえていた、
その結果だったのかもしれない、とも思うのである。
父は理科系の学生だったため、学徒出陣を免除されていたらしい。
そして終戦直前になって召集され、立川辺りに送られた、とも聞いた。
そこで、どんな生活をしていたのか、父は一度も語らなかったが。
母が一度こう言ったことがある。
「訓練が終了して、いよいよ戦地に送られるという時、
八王子を通ったんだって。八王子の駅前から街を見ると、
立っているものは何もなかったんだって」
調べてみると、八王子は45年8月2日に米軍による空襲を
受けている。この被害は日本で五番目にあたるほどおおきな
ものだったらしい。父はまさに、空襲の直後にここを通ったのだ。
なぜこの時のことを、もっときちんと聞いておかなかったのだろう。
せめて、父の句集のなかのこの一句の背景を尋ねるべきだった。
飛行兵たりし日々あり月見草 齋藤穆
最近つくづくと、自分は父のことを知らなかった、と気がつく。
口数少ないうえ、特に自分のことや両親、兄弟について
語らない人だったから。実家は新潟県の小都市の旧家。
いかめしい明治生まれの祖父と、無口で従順な祖母。
大きな古い家は昼も薄暗く、重苦しい雰囲気が漂っていて、
一年に一、二度の父の帰省に付き合わされるのが嫌だった。
父には三、四歳年上の兄がいて、戦死しているらしい。
四歳下の弟もまた南方に送られた。戦後三年ほども帰還せず、
やはり戦死しているらしいと言われ、内輪で葬式をしようと
話し合いし始めた頃、ボロボロになって帰ってきたのだとか。
そんな話は、母や父の周辺の人から耳にしたのみ。
今思うと、父の実家の昏さは、戦争に打ちひしがれた家族が
その話題を必死に避けることでようやく持ちこたえていた、
その結果だったのかもしれない、とも思うのである。
父は理科系の学生だったため、学徒出陣を免除されていたらしい。
そして終戦直前になって召集され、立川辺りに送られた、とも聞いた。
そこで、どんな生活をしていたのか、父は一度も語らなかったが。
母が一度こう言ったことがある。
「訓練が終了して、いよいよ戦地に送られるという時、
八王子を通ったんだって。八王子の駅前から街を見ると、
立っているものは何もなかったんだって」
調べてみると、八王子は45年8月2日に米軍による空襲を
受けている。この被害は日本で五番目にあたるほどおおきな
ものだったらしい。父はまさに、空襲の直後にここを通ったのだ。
なぜこの時のことを、もっときちんと聞いておかなかったのだろう。
せめて、父の句集のなかのこの一句の背景を尋ねるべきだった。
飛行兵たりし日々あり月見草 齋藤穆