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短歌を詠み続けて(その8) [短歌]

「塔」に自分の居場所を見つけたような気分になりかけていた。
それは、1983年の終わりころのことである。当時主宰で、塔会員の
作品全部を選歌されていたドイツ文学者の高安国世氏が病に冒され、
選歌を全面的に田中氏に託される、という話を聞いた。
実際、その年の12月号の選者は田中栄氏になっていた。

私はこの時に、自分が自信を持っていた歌を落されて、少し
不信感が湧いてしまっていた。田中氏はアララギに純粋培養
されたような方で、作風は堅実だが、曖昧な描写は許さない、
という信念のようなものがあったのではないだろうか。
初めて田中氏の選を受けて、私はまた心が揺らいだ。その後も
高安氏の病状は思わしくないらしく、田中さんの選歌が続いた。

開けて1984年になるとまもなく、永田氏が渡米される、という
噂が伝わってきた。これもまた私を心細くさせる出来事だった。
まだまだ会員の少ない、小さな結社だった「塔」の試練の年、
とも言えたかもしれない。この年の7月30日、高安氏は
突然亡くなられたからである。73歳だった。

 朝と夜をわれら違えてあまつさえ死の前日に死は知らさるる
 君が死の朝明けて来ぬああわれは君が死へいま遡りつつ
                 永田和宏『華氏』

この年の大会は、高安氏の歌集『湖に架かる橋』の舞台でもある
琵琶湖に面したホテルで行われた。そこに主人公の姿がないまま。
在米の永田和宏氏から会員みんなに宛てられた手紙が
読み上げられた。あちこちから啜り泣きが漏れた。本当に
暗い大会になってしまった。高安氏がいかにみんなに愛されていたか、
とっつきにくい人、というイメージだけしかなかった私は、ただ、
ぼーぜんとしていたのだけれども・・・。

永田さんの手紙の最後のあたり、
「皆さんはきっと悲しみに打ちひしがれていることでしょう。
でもどうか、顔をあげて、これからの『塔』について、
皆さんで話し合う場にしてください。
かなしみ、嘆き合うだけの場になってはいけません。そのことを
高安さんほど、臨んでいない人はいないでしょう」
というようなことが書かれてあったことを覚えている。
そのくだりが読まれたとき、みんなの顔がすっと、上向いたような、
そんな錯覚を覚えるほど力強い励ましの言葉だった(続く)。
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短歌を詠み続けて(その7) [短歌]

見本誌として送られてきた「塔1983年7月号」の特集、
「若手女流の現在」にいたく心惹かれた私は、すぐに
「塔」入会の手続きを取り、翌八月下旬に信州で開かれた
大会にまで出かけてしまった。大会とは言ってもなんと四十名あまりの
小さな会で、なんだか家族旅行の延長のような親しみやすさであった。

でも初めてお会いした当時の主宰、高安國世氏は、親しみとは
程遠く感じられた。同じ部屋に配されたOさんに促されて、
歌会の会場入り口で氏にあいさつした折のこと。
「今度入りました岡部です」と言ったとたん、表情も変えず
「君は会費を払ったのかね」と訊かれたのだ。絶句する私。

またこの歌会に、私の提出した詠草は、「裏藪には昼も光るものがあって」
というような、思わせぶりな歌だったのだけれど、高安氏は一言、
「こう言う歌は私にはわかりません」と応えられただけだった。

「塔」でやっていけるかな、とちょっと不安になったことを覚えている。
でも、1983年8月号の「八月集」(現在の新樹集に当たるコーナーで、高安氏が
選歌をされていた)に掲載されていた作品には心惹かれた。

  衝突死したる雀のやや重し羽根持ちゆけば風の集まる
  紀の川の流れの中に小さきデルタ育たんとする光まぶしき 田中栄

田中さんは、父の世代の方(後から、父と全く同い年と知った)。
そんな初老の男性が、こんなに繊細な感覚の生きている歌を詠まれている。
やっぱり「塔」でしばらくは短歌を続けていこう、と思ったのだった。

私の作品がはじめて「塔」に掲載されたのは1983年11月号である。
恐る恐る、八首出したのだが、なんと全部そのまま掲載されていた。
ほっとした。選はもちろん、あの「気難しげな」高安氏だったから。

  たちくらみかたむくせつなに失えり炎のようなはたちの夏は
  胸内にいっぽんの棒が凍りつきもはややさしき歌は響かぬ
  餌を求め水鳥が水をくぐる時ほの白きままの足裏も見え
  かきちらし読みちらしつつ円環のとじ目を捜すごときわが日々
                岡部史「塔1983年11月号」
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短歌を詠み続けて(その6) [短歌]

「塔1983年7月号」の特集「若手女流の現在」に花山多佳子さんが
寄稿されていたエッセイは、まず女流詩人による、ある批判的な
言辞から説き起こされている。女流歌人には自分の子供の歌を詠む
例が多いが、詩にはそういう例は少ないと指摘されたことに対する、
花山さんなりの反論が展開されているのである。

子どもの歌が多いことを認めたうえで、それが自然そうな母と子の
風景、として情緒的に統一されているとみられることへ疑問を呈している。
そして、短歌とは「私的な生なものがそのまま表現される形式」ではなく、
「短歌の側から要請してくる抒情の質というか理念がある」と述べている。

読みながら、「短歌」という形式の買いかぶりではないのかな、と危ぶみつつ、
「面白いな」と感じている自分がいた。花山さんの言説ですぐそのまま
日常のこまごまとしたことをそのまま31文字に取り込む人々、を
肯定する気には、勿論なれなかったけれど、この形式の堅牢さ、というものを
改めて思ったのである。形式そのものが、人に心情吐露を促すような、
詠み手の表現欲を操縦不全に導くような強さがあるようだ。
それなら、どこまでそれを利用できるだろう、
あるいは抗い続けられるだろう、漠然とそんな風に思った。(続く)
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短歌を詠み続けて(その5) [短歌]

永田和宏氏が送ってくれた見本誌の「塔」は、1983年1,2月号と
同年の7月号。七月号は出来立て、ということでその発行を待って
送付してくれたものらしい。私は1,2月号はさらっと目を通しただけで、
7月号を集中的に読んだ。というのもその号は「若手女流の現在」という
特集が組まれていて、当時の「塔」の若手八名が登場していた。
花山多佳子、栗木京子、冬道麻子、祐徳美恵子、藤桃子(土屋千鶴)、
さんら、私と同世代の人たちが、作品15首と、千字ほどのエッセイを
寄せられていたのだ。私はこの作品と文章を繰り返し読んだ。
どの作品もかなり面白く、引き付けられた。

 冬ばれの夾竹桃の下陰にアンリ・ルソーの蛇やひそめる 花山多佳子
 みつばちの体内時計すこやかにあるような午後ひとの恋しき 冬道麻子
 六月の朝光濃ゆき路の隅いまだめざめぬ蔭ゆれており 祐徳美恵子
 夕映えは水を伝いてさし及ぶ血縁という語のふいにやさしも 藤桃子
 脱ぎ捨てしドレスの長きファスナーが傷口のごと闇に光れり 栗木京子


作品に劣らず、エッセイも興味深いものだった。私は特に、
花山多佳子さんの文章を何度も読んだ。当時私が、引っかかっていたこと、
その問題を解く、一つのカギが提示されているように感じたから。(続く)
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短歌を詠み続けて(その4) [短歌]

先回、「永田さんの所属する『塔』を手にとった」と、
書いてしまってから思い出した。その「塔」を入手するまで、
そう簡単ではなかったことを。なんと当時(1980年代前半)、
「塔」は、どこの総合誌にも広告をだしていなかったのである。

どうすればいいんだろう、と途方に暮れた私。
そんな時、河野裕子の自選歌集『燦』を入手、年譜を読んで
「永田和宏さんと、河野裕子さんは夫婦」と知ったのだ。
さらに河野さんの『桜森』を入手した私は、その奥付に
河野さんの住所が記載されているのを見て、思いついた。
ここに手紙を出せば、「塔」の見本誌を送ってもらえるのでは、と。

仕事が忙しかった私は相棒に見本誌の請求の手続きを頼んだ。
(後に、永田和宏氏から「字が下手糞なやつだと思った」と
言われちまった。まったく・・・)

でも、問題はさらに起きた。見本誌請求をして、数日後、
仕事から帰った相棒が突然、
「塔は、あきらめた方が良いかもな。見本誌も来ないかも」と
言い出した。ええ、何で!? と叫ぶ私。
「高安国世って、知ってる?」
「うん、リルケ訳した人でしょ、持ってるもん」
「『塔』って、その人が主宰してたんだ、永田さんじゃない」
私は絶句した。少しばかり結社の世界を覗いただけで、ここがどんなに
古風で、序列を重んじる場所か、知っていたからである。
がっくりする私。だから、さらに数日後、永田さんの名前の記載された
封筒が届いたときは、ちょっと信じられないほど、嬉しかった。
                    (続きます)

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短歌を詠み続けて(その3) [短歌]

「日常の垢落とし」みたいな場面になっちまっている。
短歌の世界をそう感じてしまった私。これから腰を据えて
取り組もうとしていた矢先だったから、かなり気が萎えてきた。
もう、やめちまおうか、と思い始めた。ちょうど、仕事の部署が変わり、
やたらと忙しい日々が続いていた。これもひとつのきっかけになって、
歌から心が離れて行きそうになっていた。
そんな私を見かねた相棒が、
「結社にも、きっといろいろあるはず」と、なんと三十社くらいへ
見本誌を請求する手続きを取ってくれたのである。まだネットなんか、
夢にも考えられなかった時代、これはかなり手間のかかる作業だったはず。

次々に届く小冊子に目を通す。さらに総合誌も何冊か購入した。
この時、偶然にも「我が結社の若手ホープ」という特集を組んでいる
一冊があり、永田和宏氏が栗木京子さんを挙げておられたのだ。
私が短歌を始めるきっかけになった、観覧車の歌の作者である!
私は届いていた見本誌の中で、この永田さんが所属する「塔」を
手にとった。ほんの60頁ほど。今の大冊など予想できない、ささやかな
結社誌だった。(続きます)
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短歌を詠み続けて(その2) [短歌]

結社に入って、短歌を詠み始めると、すぐに、壁にぶち当たった。
短歌って、いったいなあに? と何度も頭を抱えることになった。
生活の断片を切り取って報告するような作品が多すぎるのだ。

何がどうした、誰がどうだった、とか作者の日常にとっては
大切なことかもしれないが、他人にはどうでもいい、と思われるような
日常茶飯がどさっと、活字になって載っている。
ああ、あほらし! と、読みながら何度も叫ぶ!
自分はこんな恥ずかしい歌、絶対作らんぞ! と心のうちで叫ぶ!

歌会にも出てみた(まだ、「塔」に入社する前で、別の結社の
歌会だ)。すると、その会の親分みたいな高齢男性(歌壇では有名人らしい)が
「女性が多いからこういうんだけれど、毎日のこまごまとした
生活からくみ取れることってたくさんあるでしょ? 何も難しい
ことや、抽象的なことは作品化する必要ないんですよ」
と、おっしゃる。あれれ、これはいったいどういう世界だろう、
と頭を抱えることになった。(続きます)
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歌を詠み続けて [短歌]

短歌を始めるきっかけになったのは、もうあちこちで
話したり、書いたりしていることなのだが、栗木京子さんの

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生 栗木京子

に出会ったこと。1978年の冬、『昭和万葉集』(講談社)の広告に
載っていたのを偶然目にし、心惹かれたのだった。この歌は、後に
歌集『水惑星』に収められることになったが、当時の私は栗木さんについては
全く何も知らず、現代短歌もほとんど読んだことがなかった。
新聞の歌壇のような頁もごくたまにざっと目を通すだけ。

栗木さんのこの作品には、はるか届かないものへの憧れ、そして、青春の日の、
感傷が、短歌という堅牢な調べに過不足なく掬い取られている、
と感じたからだと思う。私の短歌の出発点はそこだったのだけれども・・・。
                    (続きます)

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