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短歌の中の左右 [短歌]

右か、左か。気になった、そのきっかけは「角川短歌」2010年11月号
掲載の第56回角川短歌賞選考座談会中、選者の永田和宏氏が
この年の受賞者大森静佳さんの作品中の
「レシートに冬の日付は記されて左から陽の射していた道」
という歌を評して
「この『左から』には意味がないんだけれども、とてもいいんだな。
それ自身には意味はないんだけれど、その言葉が配されることによって
感性にある種の重みがついてくる」と、話されていたことである。
私は以来、心に小さな?を抱え込むことになった。

さらに第58回同賞の座談会ではこの年の受賞者薮内亮輔さんの
作品中の「右がはの後ろの脚がとれてゐる蜘蛛が硝子の空をわたるよ」
を評して
「‥『右がはの』はいい。右でも左でもいいんだけれど、「右がはの」
と言う。前でも後ろでもいいんだけれど、「後ろの」と言う。
その描写の余裕。・・・」と述べられている。ここでまた「?」が
心に点った。はて、この左右についての限定・・・。どちらでも
良くて、ただ、限定して見せることに意味があるのか。

何年か前に人に借りて、途中まで読んだ小池光『現代歌まくら』(五柳書院)
が、なかなか面白くて、返した後に自分でも購入してしまったのだが。
買ったら安心して、書棚に仕舞い忘れていて、最近読み直した。
小池氏が現代の歌枕と選ぶ言葉があいうえお順に並び、その言葉の
詠まれた歌について評文を書かれているのだが、なんと「左」も
歌枕のひとつに挙げられていて、小池氏はこんな風に展開する。

 わがめがねひだりの玉の抜け落ちてしづくのごときは垂れしとおもふ
                        葛原妙子
 春ふけむ五月一日しら雪は沢のひだりに消えのこりたる
                        斎藤茂吉

こういう事実を事実のままに歌ったような作品でも「ひだり」が
喚起するイメージは小さくない。もしそれが右の玉であり、右手の
残雪だったなら、歌人はありのままに歌っただろうか? ・・・

左という言葉に意味を置き過ぎではないか、とも思える項目である。
確かに小池氏がこの項の冒頭に述べておられるように、左巻き、
左前、左遷、など、「左」という言葉には、正当からはずれたこと、
異端や敗北に傾く、悲哀のようなものも含まれる気もするのだが。

それなら、枕詞として「右」も登場させ、論説してもらいたかった。
「右」にはおそらく「右」ならではの過激さと孤高、そして老獪なども
潜んでいるのではあるまいか。
『現代歌まくら』に「右」は登場せず、「み」の項は、
岬、水、みずうみ、みちのく、と何かしら、はかなく遠い、失われた地、
を指すかのように、美しい文字列が配されているのみなのである。
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