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河野裕子シンポジウム [短歌]

9月10日(土)京都で河野裕子シンポジウムが開かれた。
コロナ禍に阻まれ、予定より二年遅れて。色々とご尽力下さった
塔の担当者の方々にお礼申し上げたい。当日まで、本当に
気の抜けない時間を過ごされたに違いないから。

結果的には台風の襲来もなく、不意のコロナの急伸による
自粛宣言などもなく、四百余名が集まり、粛々と行われたことを
互いに喜びたい。

当日は、永田和宏氏の講演「河野裕子と私」、花山多佳子氏の
「河野裕子の『歌の読み』」、それに澤村斉美、小林信也、
永田紅各氏による「河野裕子に再び出会う」という題の鼎談。

いずれも聞きごたえがあり、思いがけない発見もあった。
今回はその中で、特に花山さんの講演について書いてみよう。
演題だけだと、裕子さんの歌をどう読むか、という意味かとも
勘違いしそうになるが、ここは「河野裕子が他の歌人の歌を
どう読んだか」という内容だった。レジメにはいろいろと
挙げてあって、これを読むのも面白いのだけれど、彼女が
壇上で言及したのは主に、齋藤史の作品についての裕子さんの
「読み」である。

テキストに使われたのは河野裕子著『鑑賞・現代短歌三 齋藤史』
(1997年10月刊 本阿弥書店)。裕子さんは史の作品から秀歌と
思われる歌を選び、鑑賞しているのだが、その選び方はこれまで
評価の高かった史の作品からは大きく外れているものが多い、と
花山さんは指摘する。そればかりではなく、裕子さんは自分が
選んだ歌とぶつけるように、史の「名歌」を鑑賞文に引き、
批判しているのだそうだ。例として挙げられているひとつ、

 冬ちかき光を溜めてゐる草生石は古りつつなほ土ならず
             斎藤史「修那羅峠」『ひたくれなゐ』
 ・・・・「修那羅峠」といえば、多くの人が
  山坂を髪乱れつつ来しからにわれも信濃の願人の姥
 をあげるが、私は少しもいいとは思わない。意図が見えすぎて
 おどろおどろし過ぎるのだ。・・・
             
願人のうたは、私もよく知っているし、秀歌だと思ってきたけれど。

花山さんは、佐伯裕子さんの『斎藤史の歌』(1997年11月刊
 雁書館)と比較もされている。
たった一か月違いで刊行されたこの二冊は、史作品の読みを
180度違えるものとして、当時は歌壇でも話題になったのだとか。

花山さんの話は、なかなか聞きごたえがあり、面白い内容だった。
また、淡々とした話し方に、さりげない話術もあった。冒頭、
河野さんからよく電話をもらったこと、その時の口調を真似ながら
「はア↑」って、声が上がるのよね、それがまた怖いんです・・
と仰って、聴衆を笑わせていた。ああ、花山さんも恐かったんだ、
とほっとした(私も河野さんからの電話は、死ぬほど怖かった)。
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