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折々の作家・フィッツジェラルド [文学]

フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』は、先ず
映画を観てから小説を手にしたような記憶がある。映画製作は1974年。
日本公開後まもなく見に行った当時の同僚が「良かった!」と感動して
いたのを覚えている。私はそれから十年近く後、たぶん、レンタルビデオで
見たのではなかっただろうか。それから野崎孝訳の新潮文庫版を購入した。
奥付を見ると、初版は1974年、つまり映画公開に合わせて発刊されたようだ。
私の手にした本は1984年刊の第二十五刷版で、かなり売れたことがわかる。

でも読み始めて、すぐに躓いたことを覚えている。なんだか意味不明の
部分がかなりあるのだ。訳文はだいたい読みにくいが、この本も例外でなく。
そのまま書棚に放り込みっぱなしにしてあったが。あれから二十年余り後。
村上春樹が新訳を出版した。それを読みたいと思いつつ、だいぶ日が経って
しまったのだが。先ごろ、ふっと思い出して、村上訳と野崎訳、そして
アメリカで購入していた原書の三冊を並べて、読み比べてみた。

ちなみに、原書も購入した当時読みかけた記憶があるのだが、
かなり含みのある、読み取りにくい文章で、たちまち挫折したのだった。

たとえば、冒頭近くのこの文章、

 ひとつには、読むべきものがたくさんあり、それに溢れるばかりの健康は、
 無理にも引き止めなければ、若々しくもかぐわしい外気の中に飛び出して
 行こうとする。僕は、銀行業務や・・・に関する本をいっぱい買い込んだが、
 ・・・・・・結局のところ人生は、一つの窓から眺めた方が、はるかによく
 見えるのである。        野崎訳


このあたり、おおまかにはわかるものの、うまく気持ちの流れが掴めない
文章である。読書に集中したいのか、それとも? 原文の方は、

 There was so much to read, for one thing,and so much fine health to be
pulled down out of the young breath-giving air. I bought a dozen volumes
on banking ・・・・ life is more successfully looked at from a single window,
after all.

村上訳の方は、

 まずだいいちに、僕には読むべき書物がやまほどあったし、溌溂とした
 若々しい空気から、はちきれんばかりの健康をもぎとらなくてはならな
 かった。銀行業と・・・・ 人生というものは詰まるところ、単一の窓から
 眺めた時の方が、遥かにすっきりして見えるものなのだ。  
                  村上春樹訳(中央公論新社)

村上の訳文の方が、登場人物の気持ちの流れに沿っている、といえるだろうか。
でも、「若々しい空気から、はちきれんばかりの健康をもぎとる」という言い回しも、
日本語としてこなれている、とは言えない気がする。

 読むべき本がたくさんあり、さらに、初夏の若々しい空気から健やかな気力も
 得ることができた。

あたりが、矛盾なく収まるのではないだろうか。ちなみに「初夏」は、その前段の
内容から季節が分るので、加えてみたのだが、どうだろう・・。

翻訳は難しい。でも逐語訳的に、正確を期そうとすると、流れを見失う。
読者は、話者(作者)の気持ちに寄り添い、話者に成り代わって、書物の
世界を追体験するものなのだ。そんな読者のための翻訳こそが求められる
ものではないだろうか。ちょっと、偉そうになってしまいました(苦笑)。
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