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最近の歌集から・続 [短歌]

先回から取り上げている岡野大嗣歌集『たやすみなさい』。
購入したのはもう三か月くらい前になる。ちょっとした勢いで
購入して、帰宅してからぱらっと目にした後は、
「あ、私の好みじゃないかも」と思い、そのまま
仕舞いこんでいたのだった。その後、短歌をめぐる色々な
状況変化についての報道などに触れて、岡野氏のこの
歌集のことも思い出し、改めて読んでみることに・・・。

するとけっこう、面白い傾向も見えてきた。
というか、ある傾向を面白い、と感じる自分に気づいたのだ。
それは「偶発性を楽しむ」というこの作者の姿勢である。

短歌という文芸そのものが、自分の意思の及ばないところから
偶発的に出来上がる、という傾向があり、それは文語で
詠んでいても多々起ることである。おそらく、短歌のリズムが
詠む人の無意識の部分を刺激して、発語を促す、ということらしい。

岡野氏の「偶発性」は、偶発的なことを掬い上げて歌にしているので
それとは少々異なるのだが、意図していなかったことが、
ひょいと短歌になる、という部分では共通しているのではないだろうか。

 付かなくて燃やした花火の燃え方がきれいでどうしたらいいんだろう
 映画から逸れた意識はこんなにも誘導灯を愛してしまう
 気づいたら無印にいてうっかりと聴き入っているケルト音楽
                岡野大嗣『たやすみなさい』

花火はうまく点火できなくて、ええい、燃やしちゃえ、と
(たぶん)地面に置いて火を放ったら、凄くきれいに弾けちゃって
おろおろしちゃう、という感じかな。
映画館の歌は、あるある感に満ちていた。ほんと、せっかく入った
映画館なのに、その映画がつまらなくて集中できないとき、あの
館内に点されている誘導灯って、妙に気になるもの。そこにしか
目が行かなくなる感じを「こんなにも・・・愛して」って表現が
かわいらしい。
ケルト音楽もそう。無印良品の店舗って、ショッピングセンターなんか
に入っていて、それと気付かず踏み込んでいるときがある。
あれ、と気付く間もなく、そこで流れていたケルト音楽に
心を奪われている。

偶発的な出来事が、自分が知らない自分を発見させる、ってこと
意外に多そうだ。そのことをゆったりと楽しんでいる様子が
三十一文字に無理なく収められているところが素敵だ。
『たやすみなさい』にはほかにも、作品の表記法や、題の付け方
(絵文字になっていたり)などにも工夫があって、一冊がまるで
小さなワンダーランドのようだ。こういう短歌も楽しい。
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