父の俳句(その3) [文学]
父の句集を改めて読んでみて、俳句という分野の
難しさを今更ながら思う。たった17文字、その上、季語という
縛りまである。この小さな器で個性的な表現を目指すとしたら。
と考えると何かとてつもなく大変なことに思える。
おそらくは、俳句のような(短歌だってそうなのだが)、高度な
技術と詩的なひらめきとが必要な文学は、特別な才能が必要で、
やたら凡人が足を踏み入れると、悲惨なことになるのでは、
という気がする。でもその間口の広さによって、誰もかれもが簡単に
入り込み、駄作を量産する、ということになっちまうのだ。
まあ、自分のことを棚に上げて、言いたいことを言っている、
と言われればまさにその通りなのだが、父の合同句集を読んでみて
さらにその感を強くしたわけである。
だが、短歌や俳句には、文学表現とは別の用途、というか機能が
あることは確かなのだった。そして私たちはもう、その方面の
方を重視し始めている。個人の日日の記憶を繋ぎとめるのための
日記的用途、ごく身近な人、特定の人に送る、挨拶状的用途、
事件や事故、時代の空気を庶民の側から伝え、残す記録的用途、
である。
そういう点で、最も適しているのは短歌だと思うが、俳句もまた、
その一翼を担っているのではないか。(続きます)
難しさを今更ながら思う。たった17文字、その上、季語という
縛りまである。この小さな器で個性的な表現を目指すとしたら。
と考えると何かとてつもなく大変なことに思える。
おそらくは、俳句のような(短歌だってそうなのだが)、高度な
技術と詩的なひらめきとが必要な文学は、特別な才能が必要で、
やたら凡人が足を踏み入れると、悲惨なことになるのでは、
という気がする。でもその間口の広さによって、誰もかれもが簡単に
入り込み、駄作を量産する、ということになっちまうのだ。
まあ、自分のことを棚に上げて、言いたいことを言っている、
と言われればまさにその通りなのだが、父の合同句集を読んでみて
さらにその感を強くしたわけである。
だが、短歌や俳句には、文学表現とは別の用途、というか機能が
あることは確かなのだった。そして私たちはもう、その方面の
方を重視し始めている。個人の日日の記憶を繋ぎとめるのための
日記的用途、ごく身近な人、特定の人に送る、挨拶状的用途、
事件や事故、時代の空気を庶民の側から伝え、残す記録的用途、
である。
そういう点で、最も適しているのは短歌だと思うが、俳句もまた、
その一翼を担っているのではないか。(続きます)
2020-06-05 08:53
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