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母の言葉 [生活]

「県庁に勤めていたのは、十代の終り頃ね。
でも、仕事がつまらなくて、やめたい、やめたい、って
ずっと思っていたの。他の仕事を紹介してくれる人がいてね」

母は二十歳を過ぎてから親元を離れ、雪深い小さな町の
工場に勤める決心をしたのだそうだ。

「庶務課勤務、って言われたけれど、断ったの。
工場の方が、ずっと面白いのよ。砂みたいなものや
鉄くずみたいなものが、全く違った製品になって、
流れ出てくるんだから。見ていて飽きなかった」

その小さな町に赴任してきた父と知り合い、
私が生まれたのだ。この若い日のときのことを
語り始めたのは、九十代に入って、施設暮しを
始めてから、である。私は週に二度くらいずつ、
施設に母を訪ね、毎回二十分くらい、母のそばで過ごす。

その時、話をするのはもっぱら、母の方。そしてどの話も、
これまで聞いたことのないことばかり。
もっと、早く聞かせてくれていたらよかったのに、そうしたら、
私は母親という枠を超えて、一人の女性としての人間像を
掴めていたのではないか。そのことによって、母との関係を
もっと良好に保てたのではないか、と最近頻繁に思う。

「あら、今日は日曜日だったわね。これから歌会に行くんでしょ」
「そう、出かけるときはおしゃれしなさい。ズボンをはかず、
スカートをはきなさい」
「短歌もいいけれど、私は俳句の方が好きだったわ。
短い言葉で、すぱっと言えたときの気持ちよさは、
短歌では感じられなかったわ」
「歌会では貴女が中心になることも多いんでしょ。
言葉に気をつけなさい。人が集まってくれるって、
そうそうはないことよ。短歌の好きな人が多いんでしょうけど、
それ以上に、中心になっている人が魅力的でなくちゃ、
だめなのよ」

九十七歳になる母に、頭を垂れる日々である。
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松村正直歌集『紫のひと』 [短歌]

私が所属する塔短歌会の編集長・松村正直氏の第五歌集。
彼の短歌の一ファンである私、だが、この歌集はその中の
ある章をもって、特別なものとなってしまっている。

ある章の題は「おとうと」。松村さんが二年前に総合誌「短歌研究」
に作品連載されていた時の一連がそのまま収録されているもので、
私は雑誌掲載時にこの一連を読んで、やはりぞっとしたのだった。

松村さんには弟はいないはずなので、作品の中の「おとうと」は、
フイクショナルな存在である。詠まれている状況も、何か他の状況を
組み合わせるか、創造的に展開したものだろう。それなのに、
私がなぜぞっとしたかというと、私は五年前に「塔」の作品連載を
任されたことがあり、その折に「いもうと」を読んだ一連を
投稿したことがあったのだ(「あぢさゐ宮」と題して)。

その一連は、かなり脚色はしたものの、事実に基づいている。
短歌では行方不明になった妹を捜索に行く、というような
形で進めた。

  妹をさがしゆく夕 どの貌も妹に似てあぢさゐなりき
  昏い水面(みなも)にさらにかぐろき平面がうき上がりくる 小動物なり
            岡部史「あぢさゐ宮」(「塔」2014年9月号)
             
こんな歌を混ぜている。でも、この一連で詠みたかったのは、
「妹を失ったかもしれない」激しい恐怖感である。
実際には妹は、遊んでいた池の縁で足を滑らせて落ちたのだ。
妹は三才、私は六才だった。一緒にいた友達がすぐに私に
「早く、おばさん(私の母)を呼びに行こう」
と、提案してくれなかったら、私はどうしていただろう。
なんとかしなくちゃ、私がなんとかしなくちゃ、と
焦っていたことを覚えているからである。
(きっと、大変なことになっていただろう。
それを思うと、今も慄然とする)。

家から飛び出してきた母は、泳げないのに、一瞬の躊躇なく飛び込み、
騒ぎを聞きつけて、物干竿を持って駆け付けてくれた友人の母に
引き揚げられた。六十年を経ても、昨日のことのように思い出す。

恐ろしいことに、松村さんの創作的な「おとうと」は、
私のその日の記憶に、もう一つ、新たな記憶を付け加えようとする。
つまり、かなりの確率で起きたかもしれない状況を、
なまなまと想像させるのである。私は事実をフィクションとしたのに、
彼の完全なフィクションが、記憶を越え、リアルに私を突くのである。

  ため池の水面に浮かびうつぶせのまま動かないこどものからだ
  両腕をだらんと垂らし、両腕はだらんと垂れて、ひどくしたたる
                松村正直『紫のひと』

松村さんは私の「あぢさゐ宮」を覚えていてくれて、あるいは記憶のどこかに
無意識にでも覚えていて、この一連を創作されたんでは、
と思ってしまう。おこがましく、不遜なことではあるが。
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折々の作家・江國香織 [文学]

江國香織という作家は、作品を手にするずっと前から
知っていた。新聞の広告欄あたりから、そして、手にとって
読むことになるだろうとは思わないでいた。
著名な文筆家の娘、若くて綺麗、となれば、作家としての
力量より話題性先行で注目されたにきまっている、と、
勝手に思っていたから。

読むきっかけになったのは、映画のせいである。私は
八十年代から九十年代の頃、薬師丸ひろ子が大好きで、
『セーラー服と機関銃』がきっかけだったと思うが、その後、
『探偵物語』とか『Yの悲劇』とか封切られるとすぐ、映画館に
駆け付けたほど。その流れから当然『きらきらひかる』も観た。
で・・・。ちょっとびっくりした。内容が突飛だったので。

何しろ、ひろ子ちゃんが演じているのはアル中。当時、大人気の
豊川悦司はホモの医者。さらに人気が高かった筒井道隆は彼の恋人。
周囲から結婚を期待され、その圧力に負けて、アル中と同性愛の
二人が結婚することになる、という話。

アメリカならごく普通の話。でもこれは九十年代初頭の日本での
映画である。よく制作できたなあ、それもこんな人気役者を揃えて・・。
と、原作をしらべると、なんと江國香織である。

それで、早速本を購入して読みました。そして、やはり
驚いた。これまで私が読んでいた本とはかなり異なっていたから。
文章がとても短い。これは彼女が児童文学を出発点としていた、
ということも関係あるのかもしれないけれど。

「紺くんとセックスするときの話して」
私がもう一度どなると、睦月は玉杓子を持ったままやってきて、
ぼそっと
「機嫌が悪いんだね」
と言った。
「紺くんとセックスー」
わかったから、と言って苦笑し、睦月はまじめに考え込む顔をした。
ええとね。
「ええと、紺はね、紺の背中は背骨がまっすぐで、コーラの匂いがするんだ」
            江國香織『きらきらひかる』

会話とそれをつなぐ短い状況説明だけで、
お話はどんどん進んでいく。章ごとに一人称は、交代するが、
「語り手」は、この三人のみだから、わかりやすく、
読み易い。で、さらさらさらとあっという間に読めてしまう。

基本的には、「驚きの設定」+「気の利いた会話」だけで
成り立っているような小説なのだった。この後、『こうばしい日々』
に収録されている『綿菓子』も読んだけれど、同様の印象だった。
ちなみに坪田讓治文学賞を受賞した、という『こうばしい日々』の
方は、どうしても読了できなかった。この文章を書くために、書棚から
取り出し、読みなおそうとしたのだけれど、やっぱり途中で
どうしても続けられなくなってしまって、放り出すことに。
理由は、どうしても先を読みたい、という気持ちが持続しない、
だらだらと日常が展開されているだけ、と感じられてしまうから。

だが、この後も江國香織という作家は、なんとなく気になり、
紀行文やら、詩集やらも購入して読んだ。ああ、機転が利いている、
こういうところ、思いつけないなあ、と感動することはあっても、
作品そのものに溺れるほど引き付けられる、ということはなく。

今も時々、彼女の著書を手にとる。着想の旨さにうなり、
ちょっとした会話の洒脱さに感動したり。そして時々、途中放棄
したりしながら・・・。特に好きではない。でも目を離せない。
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飛んだ物置 [生活]

9月9日未明に関東地方に上陸した台風15号。
東京南西部にある我が家の東部を午前三時頃に通過していました。
物凄い風音が聞こえてはいましたが。朝起きて、今日は月曜、
生ごみを出そう、と物置の置いてある方へ歩きかけて、びっくり。

高さ180センチ、幅110センチのイナバの物置が、ばったりと
地面に倒れていました!敷地の北西の角に置いていて、
隣家の駐車場に接しているところなので、向こう側に
(高さ一メートルほどのブロック塀で仕切られていますが)倒れていたら、
隣家の高級車二台を損傷させていたかも、とぞっとしました。

物置は向かって右側を下に転がっていて、まっすぐに倒れたものでは
なく、みると少し離れた位置のブロック塀の上端が一部欠けていたので、
先ずここにぶっ飛び、跳ね返ってから倒れたようです。

これまで台風の風は南西からくることがほとんどだったけれど、
今回は北西からの風で、それをまともに受けてしまったみたい。
相棒に知らせて、とにかく中身を取り出してから、物置を
立てようとしたのですが。扉があかない。ふだん鍵はかけていず、
(掃除道具、庭木用の肥料などしか入っていない)クルッと回して
かける、つまみ型の簡易鍵をかけていただけなんだけれど。
中のものがはさまっているのか、このつまみ、びくともしません。

私は九月中旬の連休は、歌の仲間たちと琵琶湖湖畔で泊まりの
オフ会を行う予定を入れていたほか、一年に二度しかない大学の
同窓生たちとの歌会の予定もあり、また、昨年から始めた
アトリエでのお絵かきに出かける日もあり。また、毎月の
塔への詠草締め切りも迫っている、で、スケジュールびっしり、
なのでした。

結局、物置は十日間も転がしたまま。
ホームセンターで、新しい物置を購入することに決め、
出かけたのは17日。その折、物置の回収費用が
別途、二万円ほどかかる、と言われ、納得できず。
近くの廃品回収業者に訊いてみると、解体費用5千円で、引き取ります、
とのことだったので、そこに頼むことに。ちなみに、開かなかった
扉は相棒が思い切り足で蹴ったら、開きました!
台風襲来から10日目にして、転がっていた物置を片付けることができた(ほっ)。

千葉はこんなもんじゃない。もっともっと、大変。
まだ、停電に苦しんでいる人も。横浜の知人にも、屋根が飛んでしまって、
息子さん宅へ身を寄せている人もいる。とにかく、台風の訪れ方が
変わってしまったことは確か。今回は多摩西部は微妙にそれ、
この程度の被害で済んだけれど、近いうち、まともに受けて、
手ひどい被害にあいそうな予感がする。転がった物置が、それを
警告していたような気がしてなりません。
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二つのラヴレター?(その4) [生活]

一度も口をきいたことのない同級生から、近況連絡(?)の手紙と、
単行本『豆腐屋の四季』を送られたことを先回書いた。
とにかく礼状だけは出そうと思い、本をパラパラとめくってみる。
どうやら、作者の短歌と生活エッセイの本らしい。

それで、本に対する通り一遍のお礼と、彼が書いてきたように
自分の卒業後について書くことにした。
女子大とM大に受かったが、母親が女子大を勧めるので
そちらに行くことにしたこと、などを書いて送った。
バイトで忙しいことは書かなかった。他人から見たら、ちょっと
みじめに見えるかも、と思ったから。もしかりに大学入試を
失敗していたら、私に浪人などという甘い選択はなかった。

頂いた本を机上に置いたままにしていたら、なんと
母が先にこの本を読み始めた。食事の準備や後片付けも
なんだか適当になってしまっているほど、集中していて、
こっちが驚いてしまう。あっという間に読み終わると
「この本、とてもいいわね。あなたも読みなさいよ」
と、言い出す始末。あまり読書なんかしない母がそうまで
いうのなら、と読み始めたのだが。
私の感覚では全体に
作者の心情暴露に偏り過ぎている、という印象だった。

だが、巻末に付されている、
作者が結婚式に引き出物代わりに配ったという、小歌集にたどりついて、
はっとした。恋の歌、そして叙景歌が、素晴らしくいいのである。
その時、ちらっと思ったのは、X君は私に告ろうとしてくれていたのかも、
ということ。でも、あれだけの手紙では、対応のしようがなく。
彼の方も、何らかのアクションを望むものではなかったに違いない。

お礼状を送った後に、X君から一切の連絡はなく、私もまた、
新しい生活へ向かって心を切り替えていた。
高校時代を振り返ることはほとんどなかったのである。

でも、それから十年後に私は栗木京子さんの観覧車の歌に
触発されて短歌に手を染めるようになった。短歌のリズムが
意外にすらすらと操れたのは、『豆腐屋の四季』の影響も
あったかもしれない。           (この項、終わります)



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二つのラヴレター?(その3) [生活]

大学入学前の春休み。私は目黒駅から徒歩数分の所にある
信託銀行でアルバイトを始めた。簡単な事務作業だが、コンピュータ
などまだ無縁だった当時、事務作業はとても多かった。
毎日、残業の希望者を募っていたので、それに応じ、
夜八時まで働く毎日。楽しいはずの大学入学前の春休み、
なぜこんなことをしていたか、というと。
父親が私の私大進学を快く思っていず、
「行きたいなら、自分で働いて行け」と言っていたからだ。

毎日くたくたになって家にたどり着き、翌朝早く出勤する。
バイト仲間はほとんど大学生で、彼らの話を聞くのは
楽しかった。疲れていても、少しずつ、入学のための
資金が貯まっていくのは嬉しかった。

そんな日々が続いていた三月下旬。小さな小包が届いた。
差出人は同級生のX 君だった。
便箋二、三枚の手紙も入っていて、希望していた大学入試を
すべて失敗してしまったこと。来年こそはきっと・・。
という「宣言」のような言葉が並んでいる。そして
最近読んで、とても感動した本を同封する。作者に手紙を
書いたら、「若い人にこそ読んで欲しかった」という、丁寧な
返事をもらった。君もきっと、感動するはずだ、というような
ことが書かれていた。

X君とは、在学中、一度も個人的な話をしたことがなかったので、
この手紙にはとても驚いた。彼は私のみならず、ほとんどの人と
話をしなかったのではないか。超無口な人、という印象である。
「サッカーに打ち込んだ三年間に悔いはない」と書いてあったので、あれ、
サッカー部だったんだ? と気がついたくらい。申し訳ないが、
興味の対象外のひと、だった。いや、私は同級生にはときめかない
タイプで、高校時代誰一人、興味を覚える、ということさえないまま、
すぎてしまっていたのだけれど。
卒業アルバムを開くと、X君は確かにサッカー部の一員として写っている。

手紙の内容は、おおよそ、そういったことである。
どうして私宛に連絡してくれたのか、全く不明だった。
同封されている包みを開くと出てきた本は・・・。
松下竜一『豆腐屋の四季』(講談社)という単行本だった。

ええ、「豆腐屋?」。生意気盛りの18歳は、この題を見ただけで、
なんとなく、「読みたくない」と思ってしまった。何しろ、毎日
バイト漬けでくたくたである。しばらく机の上に放っておいた。
ただ、礼状だけは書かなくちゃならないな、と気にはしていた。
                     (続く)
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二つのラヴレター?(その2) [生活]

同じ高校の一学年下の男子生徒から、告白の手紙を
受け取った私。とはいえ、聞いたこともない、全く未知の人。

間違って違う相手に出したのではないか。その可能性は高い。
でも、二年も時間があったはずなのに、こんなドジなこと
するなんて、普通じゃあり得ない気もする。
どこかで会って、話したことでもあったのだろうか、と
記憶の底を探ってみる。彼の住所からすると、私の家から直線で
二百メートルくらいのはず。利用駅は同じになるのだが・・・。

う~ん、それらしい記憶は全くない。
となると、やっぱ、相手を間違えているとしか思えない。

どうするべきか。当時は個人情報にはとても甘く、
高校では全在校生の名簿を配布していたので、
手紙に電話番号は記されていなかったが、名簿には載っている。

電話するべきか。
「私は、あなたが思っていひとではありません」って?
なんか、ひどくアホっぽい。手紙を書くべきか。
それも面倒くさい。指示された日時まで、一週間ほど
あったが、私は大学入学のための手続きや、また、
春休みにアルバイトの予定を入れていたので、その準備やらで
けっこう忙しかった。

そのうち、忘れてしまっていたのだが。
しばらくすると、また手紙が届いた。
今度は一枚の便箋に、どうしてきてくれなかったのか、
とあり、今度は電話が欲しい、と電話番号も書いてあった。
彼の方だって私の電話番号はわかるはずなんだけれど・・・。

家で電話するのはまずい。で、私は近くの電話ボックスへ
出掛けて行った。どういうべきか、色々考えた。
何度か、受話器を取り上げては、下ろし・・・。
あれこれと考えるうちに、腹が立ってきた。
なんで、私がこんなに悩まなくちゃいけないのか、と
思ってしまったのである。
それで、とうとう、電話もしなかった・・・。

今になると、あの時はきちんと説明して、納得してもらうべき
だったと思う。そして、相手が自分を知らない、と思われる
状況下では、手紙より、まず相手に自分の存在を知ってもらう
手段を考えるべきだと思う。もし、本気で告白するのなら。

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二つのラヴレター? [生活]

メールも携帯もなかった私たちの青春期。手紙は
告白のための重要な手段だった。この私めも、田舎の中学生だったころは、
何度かもらったこともあったのだが、都立高校に編入学後は、
男女同数の高校であったにもかかわらず、全くモテませんで・・。
ところが、卒業式前後の三月、なんとそれらしき手紙が二通も
家に届いたのである。そのことをちょっと書いてみましょう。
これから「人に告ろう」としている方々の、何かの参考になるかも。

一通は差出人の名前が書いていない封書だった。田舎の親友の
字に似ていたので、「あいつ、相変わらずそそっかしい」と
思いながら開くと。
差出人は、私と同じ高校に通う男子生徒で、便箋の末尾に
記されていたのは、一度も聞いたことのない名前だった。
彼は入学当時から私のことが気になっていた、という。
ところが、まもなく、同じ校舎の二年生の教室にいるのを見かけ、
一つ年上と知って、絶望的になった、のだそうだ。

旧校舎のことだな、とすぐにわかった。当時私たちの高校は、
鉄筋の新校舎と木造の旧校舎に分かれていて、旧校舎には一年生と、
二年生の二クラスだけがあてがわれていたからである。
ちなみに私のクラスは新校舎の方だった。
高校に編入学した私は、同級生以外に知った人はいず、二年になって
以降は、旧校舎の教室内に立ち入ったことは一度もない。ということは・・・。

そう、この手紙の差し出し主は、私と誰かを間違えている可能性が
かなり大きいのだった。手紙には、年上の女性を好きになってしまった
苦しさについて、切々と書かれていて私宛の手紙でなければ、きっと
感動したと思うのだが。私は白けまくっていた。

最後に、〇月◎日▼時に、[×][×]公園に来てほしい、とある。
最後に記された住所は、当時住んでいた我が家からほど近く。
指定の公園も、良く通る道路ちかくにある。う~む。

指定の日時は、とりあえず空いてはいる。
でも、のこのこ出かけて行って、「あれ、この人、だあれ?」
ってことになったら、物凄く気まずい。
どうしたらいいんだろ。としばらく思案した私。(続きます)
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折々の作家・氷室冴子 [文学]

この項、思い出したときに、挟み込む形で書き継ごうと思います。
で、ずっと男性の作家が続き、女流も読んでいるはずだが、ええと、
と、考えていたら、先日の朝日新聞夕刊に氷室冴子の特集が・・・。
そうだった、私も夢中で読んだ、と懐かしさで胸いっぱいになりました。

読んでいたのは80年代後半から90年代前半の頃。
年齢的には三十代から四十代初めにかけて、だから、
ちょっとこの手の小説の読者としてはトウが立っていますわな。
氷室さんを知ったのは、何がきっかけだったんだろう。
最初に手にしたのは『アグネス白書』だったように思うのだけれど、
さだかではない。あまりの楽しさに、すべてを忘れ。

読み終わると、すぐに書店に駆け付け、氷室さんの本を探し、
時には書店をはしごして(我が家の徒歩圏内に書店が少なくとも7軒
もあったよき時代)、よみまくった。今も、持っているが、
たぶん、氷室さんの作品は全部購入して読んだはず。
紛失したものも何冊か、あるが。

で、代表作はやっぱ、『なんて素敵にジャパネスク』となるのかも。
平安王朝時代に、こんなに自由に物事を捉え、行動していた女の子が
いたら、と思うと、読みながら本当に胸がすく思いだった。

氷室さんは九十年代末頃から、ぱたっと作品を発表しなく
なってしまった。「ジャパネスク」シリーズの続編を、という
声が高く、それがプレッシャーになっている、とどこかに
書かれていた記憶もあるが・・・。当時はやはり体調を崩されて
いたことが大きかったらしい。

知らなかった私は、みんなもそうだったと思うが、「ジャパネスク」
の続きを待ちわびながら、彼女の訃報を耳にすることになった。
享年五十一。『少女小説家は死なない!』って本まで出していたのに、
何よ!(涙)
少し時間ができたら、また氷室作品を読みなおそうと思う。

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漫画体験記(その3) [藝術]

手塚治虫「ブラックジャック」を紹介してくれたのは私の妹。
1970年代の半ばのことで、当時私は結婚したばかり。
それでも実家の近くに住んでいたので、妹とは時々会っていた。
第一巻と第二巻を借りて読んですぐに夢中になり、その後は
互いに「何巻買ったから」「じゃあ、次の巻は私が買う」
と、連絡し合い、貸し借りしながら読み続けた。

無認可のまま医師を続けるブラックジャックは、
顔がつぎはぎだらけ。何か暗い過去があるらしいと、
推測はできるものの、なかなか明かされない。
そんななか、彼は普通の病院では適切な医療行為を
受けられないような患者を次々に受け入れ、法外な
治療費を巻き上げる。その綱渡りのような生き方が
スリリングで、もう、一冊、一冊、舐めるように
読んだ。読み終わるのがもったいなかったくらい。

最初はただ、お話を味わうために夢中で読み、
二度目は絵の隅々まで、形として味わい、
さらに、連載物のお話の続け方、登場人物の変化の付け方、
舞台の設定の仕方、などなど、色々考えながら読んだ。

ある日、仕事からの帰り、入手したばかりの「ブラックジャック」
を読んでいて、家の前のバス停に着いたことに気づき、
慌てて降りたのだが、手にしていたのはその漫画本一冊。
荷物をすべて車内に置き忘れたまま、バスは発車してしまい・・・。
幸い、相棒が先に帰宅していたので、家には入れました。が。
バス会社に電話して、車庫まで取りに行くはめに・・・・・(ああ)。
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